本日はこの信仰をするにあたってスタートになる「信」とはなにかについてお話ししていけたらと思います。
法蓮抄
信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし。
(平成新編御書831㌻)
と、このように大聖人様も仰せのようにたとえお題目を唱えていても「信」が無ければ宝の山に入っても何も持って帰れないということなのです。
それではその「信」とは何かと申しますと…、
日寛上人御指南
報恩抄文段
故に知んぬ、設い題目を唱うと雖も、若し本門の本尊を信ぜずして唱え行ずるは、但是れ宝山の空手なり。故に法蓮抄に云わく「信無くして此の経を行ずるは手無くして宝山に入り、足無くして千里の道を企つるが如し」(814)云云。故に専ら本門の本尊を信じて之を唱え行ずべきなり。
(御書文段(報恩抄文段)470㌻)
と、本門の本尊への「信」だと日寛上人は仰せになっております。さらに当流行事抄では
当流行事抄
末法の観心は信をもって本と為す。信無くして此の経を行ずるは、手無くして宝山に入り、足無くして千里の路を企つるが如し。是れ吾が家の最深秘、蓮祖化導の一大事なり。
(六巻抄(当流行事抄)194㌻)
と申され、大石寺に流れ通う大聖人様の仏法において一番大事なところであるとされております。それでは本門の本尊への「信」とは何を信じるのかといえば、同じく当流行事抄の後半には
本門の大本尊、其の体何物ぞや。
謂わく、蓮祖大聖人是れなり。
(六巻抄(当流行事抄)200㌻)
と、戒壇の大御本尊様の御内証は宗祖日蓮大聖人の御内証と而二不二の尊体であることを示され、その御内証に「信」を置くことが、この信仰をしていくにあたって一番の肝であることをお示しになっておられるのです。
顕正会の皆様は理屈は知らねども、ここまでは無意識のうちに自覚だけはされておりますね。立派なことです。
しかしながら日寛上人はその而二不二の尊体は他にもう一か所存在することを六巻抄の中で言及されております。その全てに対する「信」が成就してこそ戒壇の大御本尊様と皆様の間にパイプは繋がれて功徳法水が流れ通ってくるということ。これがこの信仰をしていくにあたって忘れてはならない大事な道理なのですね。
長くなるので、続きはお山から帰ってきたらお話しさせて頂きます。
いよいよ今年も残すところ3週間強になりました。顕正会の皆様も顕正会とは今年で縁を切って、新たな気持ちで新年を迎えてみてはいかがでしょうか。大石寺での元朝の様子を手持ちのスマホの動画を繋ぎ合わせて作ってみたのが以下の動画です。
さきほどYouTubeをさまよっていたら貴重な動画がアップされてました。たぶん数日で削除されてしまうと思うのでとりあえず皆様にもおすそ分けを…。
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