先日の記事を受けてXにて西山氏より質問を賜りました。
“富士山天生原に戒壇堂を建立するなり”でよろしいのですか。
氏の意図がどこにあるのかが明確ではないのですが、天生原に関して私はこの20年間一切触れていなかったので、この機会に私の意見を述べておこうかと思います。
報恩抄文段
この西山氏の「天生原」という言葉がどこから出てきたかと言えば、日寛上人の報恩抄文段でありましょう。
一、二つには本門の戒壇文。〔一〇三六〕
本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり。「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」等云云。
次に事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。外の十六四十一に御相承を引いて云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云ふは是なり」〔一六七五〕云云。
重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し。
(報恩抄文段 下末) (御書文段 469)
この御文をもって顕正会の方々は御遺命の戒壇建立の地は天生原であると決めつけているのですが、実は日寛上人のお言葉を検証していくとそうとも言い切れない…、むしろ天生原に建立することを疑問視していたという結論に至るのです。
寛師抜書雑々集
相伝に云く富士山天生原において戒壇を建つ、岩本実相寺のところにおいて惣門を建つ云々。もししかれば戒壇の方面自ら分明なり。何ぞ地形に従うべしといわんや更に検する
要約すれば、天生原に御遺命の戒壇を建立し岩本実相寺に総門を建立するという言い伝えはあるが、これでは既に戒壇の姿は詳細に決められているということである。されば三位日順師の「本門心底抄」の「戒壇の方面は不明である。地形に従うべし。」とのお言葉に反する…。この件は再度検証する必要がある。ということです。
このような日寛上人御自身のお言葉が存在しているのです。
すなわち報恩抄文段では天生原と仰せにはなりましたが、心の中では疑問を抱かれていたことは明白であります。
六巻抄
報恩抄文段を執筆されたのは享保7年ですが、その後享保10年に六巻抄が執筆されました。
その冒頭には「敢えて未治の本を留むることなかれ。」として以前書かれた草案には粗略な部分があるがゆえに添削を施したと断りを入れた上で、以前の草案は破棄せよと申されております。
これらは顕正会の皆様も昭衞さんから聞いて知っていると思います。
その上で六巻抄を丁寧に検証していくと、御遺命の戒壇建立の地として「富士山」との言葉は出て来るものの、「天生原」という言葉は一切出てきません。
当然の事ながら報恩抄文段よりも六巻抄の方が後年に出されました。先の寛師抜書雑々集に記された寛師の想いを併せ考えるならば、日寛上人の最終結論は天生原と特定すべきではないとのお考えに至ったと考えるのが自然でありましょう。
このような経緯を御宗門はすべて把握されたうえで「天生原建立」に関してのお考えをお述べになっているのではないでしょうか。
以上、天生原戒壇建立説に関する私の考えを述べさせていただきました。



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