御法主上人の御内証

顕正会論客を論破する
BUDAPEST, HUNGARY - AUGUST 29: Hifumi Abe of Japan (white) throws for world champion, Georgii Zantaraia of Ukraine for an ippon on his way to the u66kg gold medal during the 2017 Suzuki World Judo Championships (Aug 28-Sept 3) at the Laszlo Papp Sports Arena on August 29, 2017 in Budapest, Hungary. (Photo by David Finch/Getty Images)

Xにおける日蓮正宗改革愛好家氏との対話ですが、戒壇論に関して私の御返事を書いている間にまたしても氏との論争が始まってしまいました。

まぁ私が余計な一言を差し挟んでしまったがゆえであり、自業自得と言えばそれ迄なのですが…。

今回はその対話に於いて引用された文証に関して私の意見を述べさせて頂こうと思います。

なお最後まで読んでいただければ分かるとは思いますが、日蓮正宗改革愛好家氏におかれても多少の表現の違いはあれども【御法主上人の御内証】というものを把握されたように感じました。さればこれ以上論争を続ける意味はありませんので、今回の私の意見をお伝えしてこの件に関しては終了とさせて頂きたく存じます。

ここから先は活字だけを追っていてもおそらく理解には至らないと思います。本山の二大行事である御虫払いや御大会の御説法を始めとして、御開扉や広布唱題会ならびに講習会等の御法主上人のお言葉やお振舞に直に触れていくうちに、御書や御歴代の御指南に説かれるところの御内証というものを身を持って理解していくのだと私は思います。

日蓮正宗改革愛好家氏におかれても一日も早くその日が訪れることを願うものです。それでは本題に入ります。

「時の大聖人」に関して

上記ポストに於いて私は【時の大聖人】という表現を使ってしまいました。これは宗内に於いて三宝に対して正しく信を置かれている方々に於いては何も差しさわりなくスルーしてしまう表現ですが、こと正宗を快く思わない人々においてはどうしても一言口を差し挟みたくなる表現の仕方だったようです…。

たしかに学会を破門した当初はこのことが論争の一つのテーマにもなっていたと記憶しております。

つまり【時の大聖人】という表現は御法主上人の外用も含めて捉えられてしまうがゆえ、【法主本仏論】だとか【法主絶対論】だとか、こちらの意図する以上の解釈をもって攻撃されてしまうわけです。それに関しては私の本意ではありませんので、先方様にお詫びを申し上げ以降は【時の御法主上人の御内証は、大聖人並びに戒壇の大御本尊の御内証と爾二不二の尊体】と表現することをお伝えいたしました。

その上で御法主上人の御内証に関してこのブログにおいて私の解釈を述べさせていただきたく存じます。

日蓮正宗改革愛好家氏の主張

上記の私の論争の発端になった投稿直後の日蓮正宗改革愛好家氏の反論はお世辞にも整理されたものでは無いがゆえ、最終的な氏の主張をここに掲載します。

これが氏の最終的な主張です。総合的な感想を先に申し上げれば、ここで氏の挙げられた文証はすべからく御法主上人猊下以外の僧侶ならびに我々在家信徒が胸中に本尊を顕す道理を述べられたものであり、唯授一人の血脈すなわち御法主上人の御内証を論じたものではありません

それでは挙げられた文証を一つずつ見ていきましょう。

観心本尊抄文段

譬えば水無き池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に「介爾も心有れば即ち三千を具す」と云うなり。譬えば水ある池には月便ち移るが如し。宗祖の所謂「此の御本尊は只信心の二字に収まれり」(1388)とは是れなり。学者応に知るべし、若し理に拠って論ずれば法界に非ざる無し。今、事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異なるなり。  

(観心本尊抄文段 御書文段209~210㌻)

日蓮正宗改革愛好家氏は上記御指南を上げた上で以下のように説明しますが…、

>引用にある「若し刹那も信心あらば、即ち一念三千の本尊を具す」「此の御本尊も只信心の二字に収まれり」は、信心を通じて一念三千の本尊が修行者の心に具現することを示しています。 ここでいう「本尊」は、修行者の信心によって法界の理(一念三千)が具現化したものであり、修行者自身が「大聖人」になることを意味しません。 日寛上人は、信心の有無(「信・不信」)によって本尊が心に映るか否かが定まると説いており、これはあくまで修行者の内面的な境涯の変化を指します。 「現代の大聖人」という主張は、修行者自身が日蓮大聖人と同等の位(御内証)を持つとするものですが、この文段にはそのような解釈を裏付ける記述は一切ありません。

そんなことは当然のことです。上記に申し上げたようにこの日寛上人の御指南は御法主上人猊下以外の僧侶ならびに我々在家信徒が胸中に本尊を顕す道理を述べられたものであり、唯授一人の血脈すなわち御法主上人の御内証を論じたものでないからです。

氏がこの文をどこから拾ってきたのかは存じ上げませんが、前後の文を含めて拝するとそんなことは一目瞭然なのです。

次に観心の文に「此の三千、一念の心に在り」等と云うは、此の一念三千の本尊は全く余処外に在ること無し。但我等衆生の信心の中に在すが故に「此の三千、一念の心に在り」と云うなり。若し信心無くんば、一念三千の本尊を具せず。故に「若し信心無くんば已みなん」と云うなり。妙楽の云わく、「取著の一念には三千を具せず」とは是れなり。若し文上の熟脱に取著して文底下種の信心無くんば、何ぞ此の本尊を具足すべけんや。譬えば水無き池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に「介爾も心有れば即ち三千を具す」と云うなり。譬えば水ある池には月便ち移るが如し。宗祖の所謂「此の御本尊は只信心の二字に収まれり」(1388)とは是れなり。学者応に知るべし、若し理に拠って論ずれば法界に非ざる無し。今、事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異なるなり。当体義抄の大旨、之を思い合わすべし。

(観心本尊抄文段 御書文段209~210㌻)

いわゆる能所の別を前提にこの文を拝さなければ間違った解釈となってしまいます。御法主上人は金口の相承をお受けになり胸中に【大聖人並びに戒壇の大御本尊の御内証と爾二不二の尊体】をお持ちあそばされているわけですから、当然のことながら衆生を導かれる側におられます。一方で私どもは導かれる九界の側にいるわけですから、この御指南がそのまま当てはまるわけなのです。既に仏界を顕されている御法主上人において何故更に重ねて胸中に本尊を映必要があるのか…。既に顕正会員の論は破綻しているのです。

御法主上人の御内証を斬る為にこの御指南を引用してきたこと自体が不適切だといえましょう。なお、我々衆生の側においてはこの御指南は非常に大事なものでございます。以前このブログに於いてこの御指南と顕正会員さんの現状に関して問題を提起する記事をアップしてあります。お時間が許すときにでもご確認いただけると幸いでございます。

上記ブログ記事にも書かせて頂きましたが、上記観心本尊抄に仰せの【信】を日寛上人は当流行事抄において

問う、末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべしや

答う、文上脱益の三宝に執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし。是れ則ち末法適時の信心なり。起信論に云わく「一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず」已上取意。

初めの一は総じて明かし、後の三は別して明かすなり。

初めの一は総じて明かすとは、総じて久遠元初の三宝を信ずることを明かすなり。血脈抄に云わく「久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法」と。又云わく「久遠元初の結要付嘱」云云。自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや。久遠元初は仏法の根本なり、故に「根本を信ず」と云うなり。後の三は別して明かすとは、久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益したもう。若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争でか即身成仏することを得ん。故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし、故に「二に仏宝を信じ、三に法宝を信じ、四に僧宝を信ず」と云うなり。

(六巻抄 194~195ページ)(顕正会版六巻抄 194~195ページ)

のように御指南下され、さらに僧宝に関しては当家三衣抄において

南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲、南無日蓮大聖人師。

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。

 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。

 此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし云云。

(六巻抄 225ページ)(顕正会版六巻抄224~225ページ)

日興上人を始めとする御歴代の御法主上人とされています。すなわち顕正会が口を極めて誹謗する日達上人、日顯上人、そして御当代の日如上人猊下への【信】が存在してこそ、冒頭の【譬えば水ある池には月便ち移るが如し】になるのであって、現在の顕正会員さんの場合は【譬えば水無き池には月の移らざるが如し。】であると日寛上人は裁かれていることをご理解いただきたく存じます。

弁惑観心鈔

また、法門総付は宗祖・開山の弟子檀那たりし者、一人としてこれを受けざるはなし。けだし、法門総付のみを受けたる者は、ついには所信の法体に迷惑して己義を捏造し、宗祖・開山の正義に違背す

(弁惑観心鈔 211㌻ 改訂版 377~378㌻)

日蓮正宗改革愛好家氏は上記御指南を上げた上で以下のように説明いたします。

>大聖人様、日興上人以来の血脈相承と言っても、師弟相対しての函蓋相応する信心に依るのです。 法主であろうと、信徒であろうと日寛上人の御指南は一貫している事が解りますね。 日應上人の誤解:法主が法魂を「写す」こと(219頁)や「法体相承」(211頁)を、法主が大聖人そのものになることと混同しています。 「真の唯授一人」は法を伝える役割を指し、大聖人の位を法主に帰属させるものではない。 法主が大聖人の境地に至ると解釈しているが、日寛上人は信心の普遍性を説き、法主を特別視する記述はない。 函蓋相応の信心は、法主が法を体現する条件だが、これを大聖人そのものと同一視する根拠にはならない。 函蓋相応の信心は、血脈相承の前提であり、法主が「大聖人の本地甚深の仏法を鏡のように拝鑑する境地」に至ることを要求する。これは法主が法を体現する境地であって、大聖人の位を簒奪するものではない。トチロー氏の主張は、函蓋相応の信心を法主の神聖化にすり替える誤り。 総付のみを受けた者が「己義を捏造」すると警告しており、トチロー氏の「法主=大聖人」という主張は、まさに法体相承の誤解に基づく己義の捏造に該当する

しかしながらこれは日應上人の文脈を無視し、自身に都合の良い箇所を切り取った切り文でございます。

これもまた前後の文を拝読すると一目瞭然なのです。

唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付の二箇あり、その別付とは、すなわち法体相承にして、総付とは法門相承なり。しかして、法体別付を受け給いたる師を、真の唯授一人正嫡、血脈付法の大導師と言うべし。また、法門総付は宗祖・開山の弟子檀那たりし者、一人としてこれを受けざるはなし。けだし、法門総付のみを受けたる者は、ついには所信の法体に迷惑して己義を捏造し、宗祖・開山の正義に違背す。例せば、宗祖御在世に数多の弟子ありといえども、独り我が開山のみ法体別付の相承を受け給い、そのほかは法門総付の相承のみ受けしが故に、宗祖滅後、各々己義を捏造し、像仏等を建立し、もって本尊としたるが如し

今また、要法寺もかくの如し。法門総付は受けるといえども、法体別付の相承なきが故に、その開基・尊師以来、歴代の貫主、所信の法体に迷惑し、己義を構え、像仏を建立したる者、多々あり。これすなわち、日守が山に法体別付の相承なきこと、最も見やすき現証なり我が大石寺は、宗祖・開祖より唯授一人、法体別付の血脈を承継するをもって、五十有余代の今日に至るも所信の法体確立して、毫も異議を構えたる者、一人もなし。

しかして、別付の法体とは、すなわち我が山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊これなり。故に開山上人より目師への付嘱書に云わく、

「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す云云」(日興跡条々事・御書1883㌻)

この法体相承を受けるにつき、なお唯授一人、金口嫡々相承なるものあり。この金口嫡々相承を受けざれば、けっして本尊の書写をなすことあたわず。

(弁惑観心鈔 改訂版377~379㌻)

またこれは日蓮正宗改革愛好家氏の回答直前に私が提示した御指南でありますが、

この金口の血脈こそ、宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり。これを真の唯授一人と言う。

(弁惑観心鈔 改訂版393㌻)

と、このように御法主上人に於かれては私たち在家信徒が法門相承のみを受けるのに対して、法体別付をもまたお受けされているのです。そしてその法体相承を受けるにあたって金口嫡々相承があり、それがあるからこそ【時の御法主上人の御内証は、大聖人並びに戒壇の大御本尊の御内証と爾二不二の尊体】であると私たちは捉えていくことが出来るのです。

次に日蓮正宗改革愛好家氏の誤りを指摘します。氏が提示した【弁惑観心鈔 改訂版377㌻】の御指南は前後の文までを拝すると私が提示したような内容になり、これは要山の邪義を破するものでございます。

すなわち法門相承のみを受けていればそれで良しとする邪義に対して【別付を受け給いたる真の唯授一人正嫡、血脈付法の大導師である御法主上人】の存在抜きでは己義を構え本尊にもまた迷う結果となることを示唆しております。

氏はこの部分的な箇所を取り上げて私を【己義の捏造に該当する。】と批判してきましたが、全文を拝読すれば御法主上人に弓を引き、【法体別付】無き顕正会に所属している氏こそがその批判に当たるのです。

そしてこれは前項【観心本尊抄文段】における【譬えば水無き池には月の移らざるが如し。】と同義でございます。

お山の大先輩が先日Xにて発言されていた

「【正統】とは我が【石山】では【法統】を受け継いでいるものをいう。 法統とは【唯授一人】は無くとも、最低限の【総じての法門相承】を受けられ、【別しての相承受持者】に従う事により受け継ぐ。」

とのお言葉は当にこのことを言っているのであり、【別付を受け給いたる真の唯授一人正嫡、血脈付法の大導師である御法主上人】に対する【信】をもってはじめて【譬えば水ある池には月便ち移るが如し】になるのだということを理解して頂きたく存じます。

なお、これもまた御法主上人の御内証を批判する文証ではなかったことも付け加えておきますね。

撰時抄文段???

最後に撰時抄文段を引用したという氏の主張を紹介します。

撰時抄文段「我等此の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」 『撰時抄文段』の「我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」という記述は、信心と唱題によって即身成仏の境涯に至ることを示しています。ここでの「蓮祖聖人」とは、日蓮大聖人が一念三千の法理を体現し、本尊として顕された存在を指します。 修行者が「我が身即ち一念三千の本尊」とするのは、信力・行力・仏力・法力によって自身の境涯が一念三千の法理に一致する(即身成仏)ことを意味し、決して修行者自身が「日蓮大聖人そのもの」になるわけではありません。 日寛上人の教学では、即身成仏は修行者が本尊の法理を信受し、実践することで得られる境涯であり、修行者が大聖人の位を簒奪するものではありません。 「書写行」に関して、僧侶(法主)が本尊を書写することは、信心に基づく本尊の具現を助ける行為であり、法主自身が「大聖人」であることを意味しません。日寛上人の教学では、信心によって本尊が具現する点は一般信徒と本質的に同じです 「現代の大聖人」という主張が法主に適用される場合、それは法主の書写行を過度に神聖化し、大聖人の位を法主に帰属させる誤りです。日寛上人は、信心の主体(僧侶も信徒も含む)が本尊を具現することを説いており、特定の個人を「大聖人」とみなすことはありません。 日寛上人の諸文(『観心本尊抄文段』『撰時抄文段』など)には、信心を通じて本尊が具現し、即身成仏に至るプロセスが一貫して説かれています。しかし、これらの文段のどこにも、修行者や法主が「現代の大聖人」として日蓮大聖人と同等の位を持つとする記述はありません。 むしろ、日蓮大聖人は末法の御本仏として唯一無二の存在であり、修行者はその法を信受し実践することで仏の境涯に近づくのです。 「現代の大聖人」という主張は、日寛上人の教学を無視し日応上人の御指南を歪曲する。

ここで氏は「「我等此の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」とのお言葉が撰時抄文段に存在すると仰いますが、私の所持する文段には見つかりませんでした。もしかすると私が見落としているかもしれないので、これに関しては何ページに書いてるかを追って氏から教えて頂きたく思います。その上でですが、上記お言葉と同様の物は【観心本尊抄文段】の最後の一節に存在いたします。撰時抄文段の該当部分は現在は不明ですので、この観心本尊抄文段を例にとって私の意見を述べさせていただきます。

これもまた上記【観心本尊抄文段】や【弁惑観心鈔】と同じく、たった一節を切り取ってこちらを批判しておりますが、前後の文を通して拝読するとその批判が的を外れていることが分かります。前後の文は以下のようになります。

一、一念三千を識らざる等。〔六六二〕

此の下は大段の第三、結文なり。文意に謂わく、末法今時の理即但妄の凡夫は自受用身即一念三千を識らず。故に久遠元初の自受用身、大慈悲を起こして妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頸に懸けさしむ等となり。或は云わく、妙法五時の袋の内に理の一念三千の珠を裹むと云云。或は云わく、妙法五字の袋の内に本果修得の事の一念三千の珠裹むと云云

今謂わく、妙法五字の袋の内に久遠元初の自受用身即一念三千の珠を裹むなり。当に知るべし、久遠元初の自受用とは蓮祖聖人の御事なり。久末一同、之を思い合わすべし。

問う、妙法五字の其の体何物ぞや。謂わく、一念三千の本尊是れなり。一念三千の本尊、其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖聖人是れなり

問う、若し爾らば譬喩如何。答う、且く能所に分かつも実は是れ同じ稀なり。例せば「夫れ一心に十法界を具す乃至只心は是れ一切法、一切法は是れ心」等の如し。我等此の本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。「幼稚の頸に懸けさしめたまふ」の意、正しく此に在り。故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆること莫れ云云

(観心本尊抄文段 御書文段285㌻)

黄色のマーカーで示したところが氏の引用部分ですが、その前段には「妙法五字の其の体何物ぞや。謂わく、一念三千の本尊是れなり。一念三千の本尊、其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖聖人是れなり。」として大聖人と戒壇の大御本尊の御内証が而二不二であることを示しておられます。これは弁惑観心鈔における

けだし、この妙法蓮華経の本尊とは何物ぞ。云わく、久遠元初自受用報身・無作三身如来即、宗祖日蓮大聖人の御魂魄なり。

(弁惑観心鈔 258㌻)

と同義でございます。上記観心本尊抄文段では歴代御法主上人の御内証には言及されておりませんが、同じく弁惑観心鈔には、

宗祖大聖人における、またしかり。ただ日興上人一人、郡に秀で衆に独歩して、久成の本仏、他に求むべかざることを知り給えり。日興上人には日目上人、日目上人には日道上人等と、血脈相承の法水写瓶、歴代の貫主即日蓮大聖尊と、本地深遠の秘訣、今に至るまで、唯我一人、胸中の肉団に秘し隠し持ち給える

(弁惑観心鈔 166㌻)

と、日應上人は上記「宗祖日蓮大聖人の御魂魄」が歴代御法主上人猊下の胸中に在しますことをお述べになっております。これを前提に氏の提示した観心本尊抄文段の御指南を拝すれば、黄色でマーカーした部分は御法主上人以外の衆生に宛てた御教示であることが誰しも理解できることかと思います。

したがいまして、これもまた御法主上人の御内証を否定する文証ではなく的が外れておりますとお伝えいたします。

日蓮正宗改革愛好家氏の追記に関する反論

上記日蓮正宗改革愛好家氏の返答に関して私は誠実に回答する旨のポストをしたのですが、それに対して氏は更なる課題を提示してきました。

ただ、その後にこれに関しては取り下げる旨の意思表示がありましたが、一応ご紹介しておきます。

これらに関しては前項迄の私の回答で全て論破しております。

唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付の二箇あり、その別付とは、すなわち法体相承にして、総付とは法門相承なり。しかして、法体別付を受け給いたる師を、真の唯授一人正嫡、血脈付法の大導師と言うべし

(乃至)

我が大石寺は、宗祖・開祖より唯授一人、法体別付の血脈を承継するをもって、五十有余代の今日に至るも所信の法体確立して、毫も異議を構えたる者、一人もなし。

しかして、別付の法体とは、すなわち我が山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊これなり。故に開山上人より目師への付嘱書に云わく、

「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す云云」(日興跡条々事・御書1883㌻)

この法体相承を受けるにつき、なお唯授一人、金口嫡々相承なるものあり。この金口嫡々相承を受けざれば、けっして本尊の書写をなすことあたわず。

(弁惑観心鈔 改訂版377~379㌻)

けだし、この妙法蓮華経の本尊とは何物ぞ。云わく、久遠元初自受用報身・無作三身如来即、宗祖日蓮大聖人の御魂魄なり。

(弁惑観心鈔 258㌻)

宗祖大聖人における、またしかり。ただ日興上人一人、郡に秀で衆に独歩して、久成の本仏、他に求むべかざることを知り給えり。日興上人には日目上人、日目上人には日道上人等と、血脈相承の法水写瓶、歴代の貫主即日蓮大聖尊と、本地深遠の秘訣、今に至るまで、唯我一人、胸中の肉団に秘し隠し持ち給える

(弁惑観心鈔 166㌻)

以上の御指南を何度も何度も噛み締めて頂きたく存じます。

結論

上記の追記をされた直後に氏からは以下のようなお返事を給わりました。

ここに挙げておられる奥御宝蔵説法というものを私は存じ上げませんが、私達が通常手にできる書籍のみでも氏が納得された内容と同じ道理を確認出来ることはこれまでの説明でご理解できたことと存じます。

されば御法主上人の所持される御内証に信が取れたならば、

>ただし、顕正会の立場においては、六十六代、六十七代、六十八代の管長が国立戒壇を否定していることから、これらの管長には信心が成立していないとの見解を強調させて頂きます。

との言葉も出てこないはずなのです。【国立戒壇の語の否定】と【御遺命の戒壇否定】は別物なのです。【僧宝への信】の上から色眼鏡を外し御法主上人の真意を読み取る作業を根気よく続けていけば必ずご理解される日が訪れることと思います。

一日も早くその日が訪れることを願って一旦筆を置かせて頂きたく存じます。

令和7年6月3日追記

上記記事をアップしたところ、更なる反論が日蓮正宗改革愛好家氏より入りました。

今度は「函蓋相応の信心」との言葉を引いて御法主上人の御内証を否定しようとしておりますが、今回もまた前回と同じ間違いを犯しております。

先ずは氏が引用した日蓮正宗略解を確認してみたいと思います。

 大聖人は、この三大秘法の法体とともに、法華経本門の文底にひそむ法義のすべてを、数多の弟子のなかから、一人日興上人を選んで相承された。父から子へ血統が伝わるように、大聖人の宗旨の深儀は口伝により、筆受によって、常隋給仕の間に滞りなく日興上人に伝承されたのである。故にこれを血脈相承と言う。

 その総括的な証拠文献は、弘安五年九月の『日蓮一期弘法付嘱書』と、同年十月の『身延山付属嘱書』であり、そのほか数多の相伝文献にも明らかである。この血脈相承により、大聖人の宗旨が末代に伝えられるのである。

 けだし、仏法における血脈は師弟相対する函蓋相応の信心によるもので、日興上人が信心を根底とする行学の二道に抜きんで、大聖人の本地甚深の仏法を鏡のように拝鑑し奉る境地に到達されていたために、よく師の附属を受けることができたのである。

 また大聖人が、本門弘通の大導師として、日興上人に絶対の信頼を置いて、唯授一人の相承をせられた所以がここに存する。

 かくて、日興上人は日目上人へ、日目上人は日道上人へと一器の水を器に移すように、清浄なる血脈の法水は六十八世法主日如上人に受け継がれている

故に、本宗においては法主上人のみ、ただ一人、ご本尊を書写する大権を持たれている。この血脈相承によってこそ、一切衆生即身成仏の大法が正しく保持されてきたのであり、ここに日蓮正宗の存する所以がある。

日蓮正宗略解 改訂版6~7ページ

氏は黄色マーカーの部分だけを引用して、御法主上人の血脈相承を我等一信徒と同レベルに論じますがこれは大きな誤りです。当然ながら本宗においては子弟相対の信心によって仏果を得ることは昨日入信した者も知っている基本中の基本です。それが根底に在った上で大聖人様は一人日興上人を選んで相承されたのです。

したがって「けだし、仏法における血脈は師弟相対する函蓋相応の信心によるもので、日興上人が信心を根底とする行学の二道に抜きんで、大聖人の本地甚深の仏法を鏡のように拝鑑し奉る境地に到達されていたために、よく師の附属を受けることができたのである。」と略解ではご説明されているのです。

また氏は「函蓋相応の信心があれば御本尊様が湧現される事を示唆し、血脈相承の有無を条件としません。 顕正会の信徒を一律に否定するのは、函蓋相応の信心の普遍性を無視する誤りです。」と申されますが、それは総付に関して論じているのであって、これをもって別付の否定にはなりません。先にも申し上げましたが、別しての血脈には金口嫡々の相承があるのです。それを日應上人は

この金口の血脈こそ、宗祖の法魂を写し、本尊の極意を伝えるものなり。これを真の唯授一人と言う。

(弁惑観心鈔 改訂版393㌻)

宗祖大聖人における、またしかり。ただ日興上人一人、郡に秀で衆に独歩して、久成の本仏、他に求むべかざることを知り給えり。日興上人には日目上人、日目上人には日道上人等と、血脈相承の法水写瓶、歴代の貫主即日蓮大聖尊と、本地深遠の秘訣、今に至るまで、唯我一人、胸中の肉団に秘し隠し持ち給える

(弁惑観心鈔 166㌻)

と申されております。

中興の祖といわれる日有上人と日寛上人も

手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云云。(聖典九七四頁)

末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人御入滅有て補処を定む、其の次々々に仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に、生身の聖人に値遇し結縁して師弟相対の題目を声を同く唱へ奉り(研教九七四〇頁)

と御指南遊ばされているのです。氏が為すべきはこれらの歴代御法主上人の御指南を否定する文証を御書や歴代の御指南から探し出して私の主張を斬り捨てることなのです。それを何一つできないまま論点をずらしてマウントを取ろうとするテクニックには些か飽きてきました。

固唾をのんで成り行きを見守っている顕正会員さんもそろそろどちらが正しいのかをハッキリと認識せざるを得なくなってきているのではないでしょうか。

これ以上顕正会の崩壊を加速させたくないなら本気で論破してみてはいかがでしょうか。

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