顕正会では日寛上人は事相に約しての開き方しかせず、御遺命の戒壇をもって「事の戒壇」とし、それ以前の戒壇の大御本尊様の御在所は「義の戒壇」であると主張してやまない。
しかしながら日寛上人のお書き物の中にはそのものズバリと「広宣流布以前の戒壇の大御本尊様御在所を事の戒壇」「在々処々本尊安置の処を道理の戒壇(義の戒壇)」とする法体に約した立て分けを御指南されたものが存在するのである。
本日はそれに関して述べてみたい。
私の研鑽ノート
私にこのことを気づかせてくれたのは、高橋粛道御尊師が令和6年1月に出版された「私の研鑽ノート」であった。この書籍の「戒壇」の項目を拝読していた時に初めて目にする日寛上人のお言葉があった。「抜書雑々集 下」にそれが載っていると書かれてあった。(私の研鑽ノート21~22ページ参照)
高橋粛道御尊師が引用された前後の文も含めて拝読してみたいと思った私は御住職様にお願いして、該当部分の読み下し文ならびに原文のコピーを頂けないか交渉した。その結果手にすることが出来た。冒頭のアイキャッチ画像は原文のコピーである。
読み下し文
該当部分の読み下し文は以下のようになる。
問ふ、三大秘法の相貌如何。答ふ、三大秘法と者、若し具に之を論ずる則は六義を含む。謂く本尊の人法、戒壇の事理、題目の信行也。
本尊の人法と者、人即久遠元初の自受用身法即事の一念三千曼荼羅也。戒壇の事理と者、事即富山の戒壇、理即一閻浮提の末寺・末山、及び諸檀の仏壇、惣じて書写の本尊安置の在処は皆是道理の戒壇也。経に云く当に知るべし是場即是れ道場、天台云く、仏此の中に住す即是れ塔の義云々。
この読み下し文を読んでも浅井流教学に洗脳され切った顕正会員は赤字で抜いた部分を指し、「富山の戒壇」と日寛上人が仰せになっているのは御遺命の戒壇のことを指すのである。と主張してやまない事であろう。しかしながら、それは全くの無知であり、六巻抄を今一度拝読しなおすべきである。
青字で抜いた部分に見覚えはないか?
文底秘沈抄「第二本門の戒壇篇」の冒頭に
「夫れ本門の戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に「仏其の中に住す是れ塔の義なり」と釈するが如し云云
つまり、この文言が挿入されているということは、広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所を指し示すのである。
まとめ
このように日寛上人は広宣流布以前の戒壇の大御本尊様御在所と在々処々本尊安置の処を比較相対して、戒壇の大御本尊御在所を「事の戒壇」、在々処々本尊安置の処を「理の戒壇」と捌かれているのである。
この捌き方は日相上人聞書の開き方と全く同じである。
浅井昭衞の開合の相ならびに事の戒壇の定義は全くのデタラメだと改めて申し伝えるものである。


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