日相上人の三大秘法開合の相に関して述べさせて頂きたく存じます。 そもそも私がこの日相上人聞書を取り上げたのは、これまで20年以上の長きにわたり散々声を上げてきた「浅井昭衞氏は事相に約しての開き方しかしない。これこそが顕正会の誤りの根本である。」ということを端的に示すことの出来る事例だからです。 同様の観点から日顕上人も「本門事の戒壇の本義」に於いて、この日相上人の文書を出されたものと拝察致します。 その後妙観講の大草氏が「摧破異流義考」ならびに「続 摧破異流義考」にて取り上げて顕正会を破折しております。 内容的には私がこれから述べることと重複する点がありますが、私のまどろっこしい説明よりも簡潔で分かりやすいとは思いますので、もしお手元にこれらの書籍があれば再度手にとって確認されると宜しいのではないかと思います。
三大秘法開合の相
それでは早速日相上人聞書に於ける三大秘法開合の相を見ていきましょう。

上記資料は法華講員のT I氏に以前頂いたものです。氏には厚く御礼申し上げます。 顕正会の書籍(なぜ学会員は功徳を失ったか)にも戒壇部分を切り抜いたものがありますので、顕正会員さんはお手元に置いといて下さい。
広布前か広布後か
いきなり核心部分に入りますが、この開合の相は「広布前」なのか「広布後」なのかが一番の肝なのです。
浅井昭衞氏はこれを「広布後の立て分け」だと断言しますが、日顕上人も摧破異流義考も「広布前の立て分け」である証拠だとして、「法体に約しての立て分け」は御相伝として厳に伝わっていることを論証しております。
今まで長々と私がブログ記事にてお伝えしたことを丁寧に当てはめていけば、日相上人の御言葉の一つ一つが「広布前」を示唆していることは懸命な読者の方々には既に御理解頂けるのではないかと思います。
浅井昭衞氏は以前より「広布後の御遺命の戒壇のみが事の戒壇」として、法体に約しての立て分け自体を否定しております。 ゆえにこの日相上人の開合の相も「広布後」としなくては話の辻褄が合わなくなるのですね。 したがいまして、この日相上人の開合の相を「広布前」と論証した時点で昭衞氏の誤りは確定し、日達上人の述べられた広布前の法体に約した事の戒壇が御遺命破壊であるとの顕正会の指摘は当てはまらなくなるのです。更に言えば、この御指南に異議を唱えたばかりか、それをスローガンにして宗内を掻き乱し、破和合僧の罪で破門されたこともまた的を外れた単なるイチャモンへと成り下がる訳です。
浅井無謬論
ここ最近ある程度の教学を持ち合わせた顕正会員さん達と対話を重ねることが多くなりました。 その際に特に感じるのが、「浅井無謬論」に染まりきっている彼等の姿なのです。
顕正会に籍を置いた者ならば、「御書を正確に解釈出来るのは浅井先生のみだ。」とか、「浅井先生の教学は富士の地下水にも達する。」だとかの言葉を内部で聞いたことがあるかと思います。 特に日寛上人の御著述に関しては別格で、昭衞氏は日寛教学を掌にしているとの認識である顕正会員さんが殆どかと思います。 ゆえに先日この日相上人聞書の件を日蓮正宗改革愛好家氏に問い質したところ、はなから昭衞氏と日寛上人は同意であり、仮に日相上人以下御歴代がこれを法体に約した立て分けとするならば、日相上人以降が間違っていると判断されました。 実はこれはスタートから間違っているのです。
昭衞氏の論と日寛上人の論は一致しておりません。 日寛上人は法体に約しての立て分けを認めているがゆえに、日相上人はそれを活字に残し、その教学は代々受け継がれて現在に至ると捉えるのが正解なのです。 顕正会員は我々に対して「法主無謬論」だと揶揄しますが、「浅井無謬論」に陥って無様な姿を晒しているのは現在の顕正会員の方だと諭しておきます。
寛師に於ける言葉の使い分け
日寛上人は「広布前」と「広布後」の表現を御著述の中で明確に使い分けております。 「広布後」の御遺命の戒壇を指す時は「三大秘法抄」若しくは「一期弘法付嘱書」の御文を必ず使用されます。 一方で「広布前」であるならば、三学の上からの「本尊所住の処は戒壇」という表現をなされます。 「文底秘沈抄」「報恩抄文段」「法華取要抄文段」「依義判文抄」、いずれを確認してもこの物指しから外れるものはありません。
検証
それでは具体的に日寛上人の御指南を一つずつ確認していきましょう。
文底秘沈抄
第二 本門戒壇篇
夫れ本門の戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に「仏其の中に住す即ち是れ塔の義なり」と釈するが如し云云。正しく事の戒壇とは一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に云わく「王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり」等云云。宗祖の云わく「此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜんのみ」云云。
(六巻抄 61 顕正会版 61~62)
この文底秘沈抄の立て分けこそが浅井昭衞氏の考えの基礎となっている部分であり、かつ上記私が指摘した日寛上人の「広布前」「広布後」の表現を端的に示すものでございます。 これは今さら言うことでもありませんが、戒壇の大御本尊のみを取り上げ「広布前」と「広布後」を捌くものです。
ゆえに戒壇の大御本尊所住の処を「義の戒壇」としても、日達上人や日顕上人の御指南と相違するものではありません。両猊下の御指南は戒壇の大御本尊と嫡々書写の御本尊を立て分けるものであり、戒壇の大御本尊のみの立て分けとなれば、こうなってしかるべきであり、そこまでを両猊下は否定しておりません。 的外れな批判を避ける為に敢えて一言申し上げました。
その上で上記御指南を拝すれば、前段は「広布前」を指し、後段は「広布後」を指すのは誰しもご理解いただけるものと思います。
法華取要抄文段
第五 本門の戒壇を明かす
凡そ本門の戒壇とは、一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり。言う所の「戒」とは防止を義と為す。謂わく、無始の罪障を防ぎ、三業の悪を止むる故なり。宗祖の云わく「此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜんのみ」〔一五六九〕云云。豈非を防ぎ悪を止むるに非ずや。
当に知るべし、本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、義理なり。是れ則ち事中の事理にして述門の理戒に同じからず。其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。
初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり。経に云わく「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」とは是れなり。天台の云わく「仏其の中に住す、即ち是れ塔の義」等云云。故に当山は本門戒壇の霊地なり。
亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。
然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり。
妙楽の云わく「像未の四依、仏法を弘宣す。化を受け教を稟け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」等云云。今日本国中の諸宗諸門の徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖の云わく「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」〔一〇三六〕等云云。
凡そ此の本尊は久遠元初の自受用の当体なり。豈根深く源遠きに非ずや。故に天台の云わく「本極法身は微妙深遠なり」等云云。
次に正しく事の戒壇とは、秘法抄十五三十一に云わく「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁世の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」〔一五九五〕等云云。
(法華取要抄文段) (御書文段 542~543)
「初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり。経に云わく「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」とは是れなり。天台の云わく「仏其の中に住す、即ち是れ塔の義」等云云。故に当山は本門戒壇の霊地なり。」 この前段は未だ塔の立つ前、即ち広布前を指しております。ゆえに「本門の本尊所住の処」と表現されております。
一方で後段に於いては 「 次に正しく事の戒壇とは、秘法抄十五三十一に云わく「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁世の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」〔一五九五〕等云云。」 とされて、三大秘法抄の一節を上げる訳です。これ即ち広布後であることは誰しも御納得頂けるものでありましょう。
依義判文抄
第七に神力品の「爾時仏告上行」等の文
神力品に云わく「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽くすこと能わず。要を以て之れを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。是の故に汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし。所在の国土に、若しは受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すること有らん。若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何。当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう」已上。
今謹んで案じて曰く、「爾時仏告上行」より下は是れ結要付嘱なり。文を四と為す。一に称歎付嘱、二に「以要言之」の下は本尊付嘱、三に「是故汝等」の下は題目勧奨なり。四に「所在国土」の下は戒壇勧奨なり、亦三と為す。一には義の戒壇を示す、二には「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧む、三には「所以者何」の下は釈なり
(中略)
四に「所在国土」の下は即ち戒壇勧奨なり。文を亦三と為す。初めに義の戒壇を示し、次に「是中」の下は事の戒壇を勧め、三に「所以者何」の下は釈なり。
初めに義の戒壇を示すに亦二と為す。初めに本門の題目修行の処を示し、次に「若経巻」の下は本門の本尊所住の処を明かす。故に知んぬ、本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり。故に宗祖の云わく「霊鷲山とは御本尊並びに南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処を説くなり」云云。又云わく云云。
次に「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧むるなり。三大秘法抄十五三十一に云わく「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」云云。「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、応に是れ富士山なるべきなり。録外の十六四十一に云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」云云。
(六巻抄 101~104 顕正会版 100~104)
これもまた前段は「広布前」を指し、後段は「是中皆応」の文をもって広布後を示しております。これもまた上記「文底秘沈抄」「法華取要抄文段」と同じでありますね。
報恩抄文段
一、二つには本門の戒壇文。〔一〇三六〕
本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり。「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」等云云。
次に事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。外の十六四十一に御相承を引いて云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云ふは是なり」〔一六七五〕云云。
重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し。
(報恩抄文段 下末) (御書文段 469)
この報恩抄文段は上記3つとは相違し、広布前の戒壇の大御本尊所住の処は説かれておりません。ゆえに「本尊所住の処」の義理は文上にはハッキリとは示されておりませんが、青字で示した「重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し」の一節で戒壇の大御本尊一か所を取り上げての「広布前」「広布後」の立て分けに言及されております。
寛師表現の結論
以上4つの日寛上人御指南を確認してみましたが、どの御指南を拝しても「広布後」の御遺命の戒壇を指す時は「三大秘法抄」若しくは「一期弘法付嘱書」の御文を必ず使用し、 一方で「広布前」であるならば、三学の上からの「本尊所住の処は戒壇」という表現をなされていることをご理解いただけたことと存じます。
皆様もお気づきかもしれませんが、日寛上人はこの道理をハッキリと活字にて残されておられます。
法師品に云わく「薬王、在々処々に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に塔を起て」等云云。応に知るべし、「若説、若読」等は本門の題目なり、「若経巻」は即ち本門の本尊なり、「所住之処、皆応起塔」は本門の戒壇なり。中に於て「所住之処」は義の戒壇なり、「皆応起塔」は事の戒壇なり。
依義判文抄 六巻抄85㌻ 顕正会版六巻抄85㌻
これは上記文底秘沈抄の内容をより端的に表現されたものですが、「所住之処」との表現を為すときは広布以前を指し、「皆応起塔」との表現を為すときは広布後を指すとのことなのです。日寛上人の御指南は須らくこの物差しにて捌かれております。当然のことながらそれ以降の御法主上人の御指南に於いてもです。
日相上人聞書の検証
それでは上記日寛上人の言葉の使い分けを日相上人聞書に当てはめて考えていきますが、先ずは昭衞氏の解釈をここで確認しておきましょう。
昭衞氏の解釈
「広布達成の時に約して、直ちに国立戒壇を事とし、嫡々書写の本尊の所住を理(義)と示されているのである。『富士山戒壇の御本尊御在所』とは、まさしく広布の時の国立戒壇を意味している。ゆえに『事の戒(壇)』と仰せられているのである。そして広布以前の戒壇の大御本尊の所住については略しておられる。このように、略して事と義を示される御論法は、日寛上人の報恩抄文段にも見られる。」(顕正新聞 平成元年1月25日号)

この意は、日寛上人が諸々に示し給うた御意と何ら矛盾するものではない。すなわち嫡々書写の本尊安置の処を「理の戒壇」とし、広布の暁・富士山に建てられる戒壇の大御本尊御在所の戒壇を「事の戒壇」と示されただけのことである。
このように、嫡々書写の本尊の所住と国立戒壇とを直ちに相対して理と事に立て分ける捌きは、日寛上人の報恩抄文段にも見られる。すなわち
「本門の戒壇に事あり理あり。理は謂く道理なり、また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る処の山々・寺々・家々は皆これ道理の戒壇なり。次に事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と。
日相上人の文意は、この報恩抄文段と同一轍である。故意に文意を歪曲されては日相上人こそ迷惑なさろう。
だいいち、このメモの初めにも「三大秘法とは開すれば六、合すれば三なり」とある。もし戒壇の御本尊の所住が広布以前にも事の戒壇であるとするならば、三大秘法抄・御付嘱状の御遺命は不要となり、日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか。「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」186㌻
と、このように昭衞氏は日相上人が「事」に立て分けた「富士山戒壇御本尊御在所ハ事ノ戒也」を広布後の戒壇、すなわち御遺命の戒壇であると断定しております。
しかしながら、これまで確認して来た日寛上人の捌き方を当てはめると、これは正反対の解釈であることは誰しも理解出来ることでしょう。
日相上人の御意
「富士山戒壇御本尊御在所」とは換言すれば「戒壇の大御本尊所住の処」との意です。
この表現をとられる時は広布前で御遺命の戒壇が未だ建立されていないことを示唆しております。
仮に昭衞氏が主張する如く広布後の御遺命の戒壇を指すならば、「皆応起塔」の語若しくは三大秘法抄、一期弘法附嘱書の一節を以て表現されるべきであり、報恩抄文段は当にそのままの表現をされている訳です。
また、日相上人は「富士山戒壇御本尊御在所ハ事ノ戒也」として「戒壇」ではなく「戒」と仰せになり、敢えて「壇」の文字を省いております。
これは未だ広布の時至らず御遺命の戒壇が存在せず、文底秘沈抄の捌きでいうところの「義の戒壇」に当たるがゆえ、御遺命の戒壇との誤解を避ける為に「壇」の文字を入れなかったものと拝察致します。
このように日相上人の記述はどの角度から見ても「広布前に於ける事と義の立て分け」を示しており、そこに於いて「事の戒壇」は戒壇の大御本尊の御在所と断定されているのです。
つまりこの捌き方は当時日達上人が御指南遊ばされた事義の立て分けと何ら相違するものではなく、相伝に基づく日蓮正宗古来からの戒壇義であるということを述べ本日のお話しは終了とさせて頂きます。


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