御遺命の戒壇を前もって建てて良いのか?

戒壇論

表題の件ですが現役顕正会員さんにこの質問をすれば「良いわけねえだろ!馬鹿かお前は!」というお返事が100%返ってくるものと思います。まぁ私も同じ考えなんですが…、これを肯定する意見が法華講員さんから散見され始めてきたので、彼らに読んでいただきたく記事をアップいたします。

 

 

百六箇種脱對見拝述記

 

 

マタ御遺命ノ広布ノ戒壇ヲ建物ノミ前以テ建立スルナドノ論モ、徒ラニ功名ニ走ル我見・邪見ニシテ、カツ時ヲ取リ違エタル迷論ニ過ギザリシナリ。(百六箇種脱對見拝述記319頁)

 

これは日顯上人の御著述された百六箇種脱對見拝述記の一節です。言うまでも無く正本堂の一件を念頭におき、将来に於いて同様の主張が宗内から出来したときの用意として敢えて活字に残されたものと私は拝しております。

 

 

第53回全国教師講習会の砌

 

 

そういう背景において、『国立戒壇論の誤りについて』のなかでも「現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきではないと思ったわけです。やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。(大日蓮 平成16年12月号46~47頁)

 

 

そこで、平成三年三月九日に私が色々と述べたことに関してですが、私が教学部長時代に書きました『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』という本があります。そのなかに、正本堂は広布の時に『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇となる建物だというように、その時はそう思って書いたけれども、現在においては不適当であると、これははっきり言っております。(大日蓮 平成16年12月号52頁)

 

 

それで、昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。(大日蓮 平成16年12月号54頁)

 

以上は平成16年に正本堂に関して述べられた御講義です。顕正会の横やりが活発化してきたがゆえに正本堂問題の総括として御講義下されたものと拝しますが、この中に於いても「御遺命の戒壇を前もって建てる」という考え方を否定されています。

 

 

平成3年3月9日お言葉

 

 

右の中で、まず私が教学部長の時、昭和四十七年三月二十六日の総本山における指導会で、訓諭の基となる宗門公式見解を発表した内容を挙げて、それを今回の発言と比べて矛盾するものであり、自語相違と述べられております。

 

 

私としては、そのことは全て承知の上で教師指導会における発言をしたのです。なぜならば、宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです。

 

 

顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。

 

 

そうした中で、三月二十六日の宗門公式見解を教学部長より発表する仕儀となりました。教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。しかし、今顧みれば、あの時の「正本堂は広宣流布の時に『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。それが、日達上人の、

 

 

「昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。」

 

 

という御指南と一体のものとはいえ、その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです。したがって、私は、日達上人の御本意は、むしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四十五年時の御説法に拝するものです。すなわち、

 

 

「有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。」(昭和四十五年四月六日・御霊宝虫払会御書講)

 

 

「いつ本門寺という名前に変るのが至当か、広宣流布の時即ち三大秘法抄に依る戒壇建立した暁に変るべきと解釈していいか、と云う、こういう質問でございます。誠にその通りと返事をする他はありません。(乃至)理想としての三大秘法が完成して戒壇が出来た時に本門寺と名前を変える。最もそれで宜しいと私は思います。」(昭和四十五年五月三十日・寺族同心会質問会の砌)

 

「戒壇の御本尊在ます所は、即ち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄或は一期弘法抄の戒壇で勿論事の戒壇であるけれども、そこにまつる処の御本尊が今此処にある此の御本尊様は戒壇の御本尊である。故に此の御本尊在す所がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、或はもっと立派なものができるかも知れない。出来たとしても、此の御本尊まします所は事の戒壇である」(同前)


「三大秘法抄並びに一期弘法抄に申される処の戒壇の御本尊は未来のことである。現在我々はそれは大理想として置いて、現実に於いて我々の今戒壇の大御本尊在ます処が事の戒壇である(乃至)天母ヶ原に建とうがどこに建とうが、その時に天皇陛下が建てるかどうか知らないけれども、広宣流布が完結した時建つと云う事は大理想として留め、現実の戒壇の御本尊を御宝蔵からお出ましになって奉安殿にある。更にお出ましになって正本堂にあれば実に有難いのである。だから戒壇の御本尊在す処は真実にお題目を唱えて行かなければならないと云うことを申すのでございます。」(同前)

 

 

以上、日達上人の御指南は、正本堂をそのまま広宣流布時の即ち『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇と決定されてはいないし、その時はむしろ別に建つこともありうるという趣意すら窺えます。そして、私はここに日達上人の御真意があらせられたことを、常日頃の謦咳に接したこととも併せて、かく信ずるものです。(大日蓮 平成3年4月号25~27頁)

 

 

平成16年の御講義にも引用された平成3年の御指南です。ここに於いては、前もって建てても良いとの発言は学会からの圧力に起因するものであること、ならびに日達上人も将来的には正本堂とは別に御遺命の戒壇を建立する意図もあられたことを述べられています。

 

 

三大秘法義

 

 

「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(新編1699頁)

の文である。

 

「三箇の秘法」とは、大聖人一期御化導において明らかな、本尊・戒壇・題目であることは言うまでもない。次の「建立」という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現する時、改めて建立することである。(三大秘法義 561頁)

 

 

すなわち、広宣流布以前には『三大秘法抄』に仰せの事相の戒壇はいまだ建立されないが、本門戒壇の大御本尊安置の所は、順縁不退に住する我ら衆生の罪障消滅・即身成仏がかなう事の戒壇である、との御教示である。(三大秘法義 565~566頁)

 

 

以上は三大秘法義における日顯上人の御指南です。

 

これらを拝せば、「戒壇の大御本尊所住の処、義理は戒壇にあたる」という本門根源事の戒壇と日寛上人仰せの「正しく事の戒壇とは」と表現せられる御遺命の戒壇の違いを捌かれていることも理解できると思います。

 

 

結論

 

 

法華講員であれば、御先師日顯上人猊下がここまで御指南下さった御遺命の戒壇の意義に真っ向から反論することは出来ないかと思います。

 

当然のことながら御当代日如上人猊下が相反する御指南を遊ばせば、御当代の御指南に従っていくのが筋でありましょう。しかしながら御登座以来この御指南と相反するお言葉は私の記憶する限り無かったと思います。

 

さればご自身の考え方と日顯上人の御指南を齟齬が生じないように会通することが大事かと思います。

 

以上、最近のSNSで気になったことを書いてみました。

 

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