戒壇建立の時期に関する御指南

戒壇論

前回は日顯上人の平成10年の御指南を拝して、戒壇建立のタイミングは日本の国主がこの仏法を立てた時であることを証明したわけだが、日顯上人におかれては他にも数々の御指南を残されている。

また日達上人も日本の国主が戒壇建立の鍵を握っていることを行間から読み取れるような御指南を残されている。

本日はそれらを紹介し、この問題に対する一応の結論としたい。

ただし、以下の引用は「御遺命の戒壇建立の条件としての広宣流布は日本の広宣流布である。」ということが論題なのであって、それ以外の事については完全にスルーするものとする。

日達上人御指南

天皇が戒旦建立を許可し一切の人々がそれによって戒旦を建立するということは、日本では、もう天皇の力がないぢゃあないかというようなことをいうのでございますが、広宣流布の聖主は即ち広宣流布の時の聖主は転輪聖王であるのでございます。必らずしも今の天皇陛下が建立主となるべき時の天皇とはきまっておらない、又大聖人も、そうはおっしゃって、おらないのであります。又此の御書に照し経文に照らすときは広宣流布の時には転輪聖王が出ますということになっておるのでございます。そのときの聖主こそ天皇であれ、誰れであれ、兎に角為政者である、その時の為政者が転輪聖王となって戒旦建立の大将となって現はれれば、よろしいのであります。

(大日蓮昭和三十四年九月号四六頁)

今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると、思うのであります。

(大日蓮昭和五十年一月号)

先日、名古屋の学会の総会のときに私は、広宣流布も明るいということを言いました。まったく舎衛の三億ではないけれども、三分の一の人が実際本当に信心をし、本当に戒壇の御本尊を拝むなら、広宣流布と言って差し支えないと思う。(中略)


 だから純真の信者が日本国中三分の一以上もし出来たとするならば、これは立派に広宣流布じゃないでしょうか

(蓮華昭和四十九年十二月号)

ここでの御指南は全てが正本堂に絡んでのものである。つまり御遺命の戒壇建立の条件としての広宣流布に関してのことである。これらを拝するに、どこをどう見ても、“日本国一国が広宣流布したとき”が問題なのであって、“世界が広宣流布したとき”などとは微塵も説かれていないのである。

また、日達上人の御講義の中に引用された部分にも日本の広宣流布が物差しであるということを見てとれる部分がある。

 で、その次にそれから六十八年ばかり後に、京都の要法寺に日辰が出ました。日辰が出て、日辰が報恩抄の下ですね。日辰が日耀とともに重須に来たのが弘治二年(一五五六年、富士年表による)それから大石寺久成坊日悦を七月八日に訪れております。その後国へ帰った。さらに永禄元年十月一日、一五五八年ですから二年ばかり後に再度重須へ来た。そしてその時に一、二年重須に滞在しております。その時に、この前々からあるところの六万坊の説、天生原のこういうことを考えて、非常に雄大なる富士山の麓を見ていったんだと思います。それは日辰の『御書抄』に、報恩抄下、(一五六七年前後)、

  二ハ日本一同ニ順縁ノ広宣流布ノ時上行等ノ四菩薩国王国母大臣導師ト成テ寿量ノ妙法ヲ弘通シ玉フ時富士山ノ西南ニ当タリテ山名ハ天生山ト号ス此ノ上ニ於本門寺ノ本堂御影堂ヲ建立シ岩本坂ニ於テ二王門ヲ立テ六万坊ヲ建立シ玉フベキ時彼山於戒壇院ヲ建立シテ日本僧俗戒壇ヲ踏可事ヲ富士山本門寺ノ戒壇ハ云云


こういういうことばがはじめて日辰から出てきた。天生山ということばが出てきたのであります。だから天生山ということばは日辰が作った。まあそれ以前にあの山が天生山と言われたか言われないか、それはまだわからないが、おそらく名前がなかったんでしょう。

(昭和四十五年六月二十八日 富士学林研究科の砌)

このように、あくまでも御遺命の戒壇建立の条件は日本国の広宣流布なのである。

次に日顯上人の御指南を拝してみよう。

日顯上人御指南

御講義

また、当時、盛んに「民衆立」ということを言っておりました。しかし、先程も申しましたが、たかだか日本の人口の十分の一にも満たない数で、民衆立も何もないわけです。そこで、公明党の在り方等、すべてを自分の都合のいいように解釈したわけですが、日達上人がおっしゃった広布の定義的な意味から考えても、純真にして確実な信徒が少なくとも三分の一ということにならなければならないわけです。

 そのような意味から考えても、当時の状況、また、今の創価学会でも御遺命の達成は足元にも及ばないことなのです。それを何とか達成したことにしたかったわけです。それで、当時、民衆立ということを盛んに言ったのです。

 ところが、「国立」ということを主張したのが浅井昭衛のほうの妙信講で、今でも盛んに「一天広布国立戒壇」ということを言っております。しかし、国立という考え方は、国の機関が建てるということになると思うのです。つまり、国は一つの国家機関でありますから、憲法や法律があります。今の憲法においては、いくら妙信講が「国立戒壇だ」と叫んでみても、結局、憲法には違反するわけですから全く不可能なのです。

 また、私は、国家機関が建てるということになると、大聖人様の御精神から少し外れるようにも感ずるのです。

 そこで、私はこのように考えたらどうかと思うのです。私は、それほど偉くもありませんから、今後、このようにすべきだという意味で申し上げるわけではありません。また、この戒壇建立ということは、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇、すなわち大聖人御遺命の戒壇でいいと思いますし、それ以上、何かいう必要はないとも思います。しかし、敢えて一つの考え方として申し上げるならば、「国主立」という言い方はどうだろうと思うのです。

 国主立という言い方であれば、これは国家機関ではなく、人格的な意味がそこに入ってくると思うのです。つまり、機関が建てるのではなく、大聖人様の御仏意を正しく承け継いだ方が、複数か単数かは別としても、そのような方が尊い信心の上から建てるという意味がそこに出てくると思うのであります。

 しかも、国主ということであれば、その時その時の政治形態がどのような形であれ、すべて当てはまってくると思うのです。例えば、現在においては主権在民ですから、国民が国主であります。したがって、将来の広布の進展の相において、憲法を改正できる数の国民が純真な信徒になれば、国主である国民による戒壇建立ということが可能となるのであります。

 さらに、『一期弘法抄』の御文を拝しても、

  「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」


                 (新定三―二六八七ページ・全集一六〇〇ページ)

と、「国主」という語が明らかに示されております。この御指南からすれば、戒壇を建立する方は、国主でもあるし、御遺命を承けた日興上人でもあると拝せられます。

 やはり、日興上人のお立場、また、僧侶の立場は法を伝持するところにありますから、基本的には、そのような経済的基盤というものは持っていないわけです。したがって、純真な信徒となり、外護する立場となった国主と僧団とが一つになって建てよという意味が、この「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」という御遺命に篭められておると拝する次第であります。

 ですから、『一期弘法抄』のなかにおける「国主」という語においても、この国主立という言い方が、実状に即するのではないかと考えるわけです。

 しかし、私は、これからの宗門において国主立と言おうと申しているわけではありません。あの昭和四十五年、御虫払会の御影堂における御説法において日達上人が、

  「有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります」

と仰せになった如く、我々はあくまでも『三大秘法抄』『一期弘法抄』に御遺命の戒壇を、我々に与えられた民衆救済の大事業として、どこまでもその達成に向かって正しく進むべきであるということを申し述べるものであります。

(第41回全国教師講習会 平成四年八月二十八日)

この「国主此の法を立てらるれば」の国主とは、天皇であるとの解釈、民衆であるとの解釈もありえましょうが、『三大秘法抄』の御文と併せ拝するとき、やはり王臣一同の総意によるべき御指南と拝されるのであります。

(全国宗務支院長会議の砌 平成六年二月二十三日)

 では、次に移り、『三大秘法抄』。

 「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ち」

 ここまでは、まさしく順縁広布ですね。明らかでしょう。王仏冥合して王臣、王様と一切の国の重要な立場にある人、ことごとくが三大秘密の法を持つということはまさに順縁広布の時であります。しかしその後が、

 「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

というのは、ここが全く反対の意味があるわけです。つまり、末法濁悪の時代ですから、この有徳王、覚徳比丘の身命を捨てた仏法の守護外護があって初めて、こういう順縁広布が現れる。順縁広布の含む内容において、また有徳王・覚徳比丘の出現が必ず存するという。これは重大な文であります。ここのところを以て寛師は、文段において、

 「順縁広布の時を判ずるか」

と言われた。また、以て翻って、大聖人様がこの『観心本尊抄』において、折伏を現ずるときは賢王となって愚王を誡責するとおっしゃっているわけですから。この筋目をきちんとしなければいけないのです。

 それが、そこまで来ないうちに、まだ日本の国民のわずか十分の一もいってない。そんなことで、創価学会がやれ広宣流布しました、広宣流布しましたと。それでもう全部が出来ましたなどと。これほど大聖人様を愚弄し、法に背くことも甚だしいことはないのです。

(平成7年度夏期講習会第2期 平成七年六月十一日)

宗門では、昔から「国家諫暁」という語を使っておりますが、よく考えてみれば、これは「国主諫暁」のほうが、この『一期弘法抄』の御文からしてもふさわしいと思うのであります。

 たとえ国家という一つの形を折伏するにしても、結局、人を折伏するのです。だから「国主諫暁」でなければならないのを「国家諫暁」と言ってきたために、国家が戒壇を建てるという意味において「国立戒壇」というようなことを考える者も出てきたのであります。

  しかし、素直に『一期弘法抄』を拝すると、「国主此の法を立てらるれば」とあるのであり、「国家此の法を立てらるれば」という文章ではないのであります。「国主」ならば、人格、人を意味しますから、国を折伏する上においても、あるいは一人が一人ずつを折伏する上においても、人を折伏する意味があるのであります。

 特に、今日は主権在民でありますから、大聖人様の時代や、あるいはそれ以前の聖武天皇と鑑真和尚、桓武天皇と伝教大師というような仏法興起の時代ともまた大きく形が違っておりますが、精神としては、あくまで一人ひとりの人を、それが政治の中枢の人であろうと、なかろうと、ことごとく折伏し、この妙法に帰依せしめ、救っていくということが大切であると思うのであります。

 そういう意味から、先程の説者も言っておりましたけれども、これから我々は『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文を深く拝しつつ、常に折伏弘教に励み、妙法の功徳が必ず日本乃至世界の一切衆生を導いていくのであるという確信をもって進んでいくことが肝要と思うのであります。

(教師補任式の砌 平成九年四月二十七日)

さて、『一期弘法付嘱書』における戒壇建立は、実に宗祖大聖人一期の御大事であり、三大秘法の御化導における究竟の御指南であります。そして、この御文の戒壇建立については、国主が「此の法」を立てられる時が条件となっております。その国主とは、時代の推移はあっても、仏法と世法の道理の上に、常に仏智を根幹として拝し奉ることが肝要であります。

(平成10年総本山客殿新築慶祝記念大法要の砌  平成十年四月五日)

このように一連の日顯上人の御指南でも物差しは日本の広宣流布なのである。されば、なにゆえ日本の広宣流布が重要視されているのかといえば、日顯上人の御著述から拝することが出来る。

日本国を中心とする広宣流布

ソノ遍法界の大悟ヨリシテ、日本国ヲ中心トスル遍法界一切衆生ヘノ妙法授持・即身成仏ノ大光明ニ依ル広宣流布ノ救済ヲ、事ノ戒法トシテ説カレタルガ三大秘法抄ノ戒壇ノ文ト拝ス。

(百六箇種脱對見拝述記 319ページ)

マタ全世界ヘ広宣流布スベキ正法ナレドモ、下種仏法ノ発祥ノ地タル日本国ヲ中心トシテ戒壇建立ヲ指示シタマウコト、深キ仏法ト国土ノ因縁ニヨルコト、諸御書に明ラカナリ

(百六箇種脱對見拝述記 320ページ)

もう何の説明も不要であろう。ここまでの御指南を拝してもまだ世界の広宣流布以降でなければ御遺命の戒壇は建立出来ないのである!と主張してやまない者は自らの主張が己義であると自覚すべきである。

戒壇建立の御遺命を軽く見るのは大謗法

国主でない者や、国主の意義に値しない者が、仏法上の国主を僣称することは大謗法であります。また、これに関連して、戒壇建立に関する歪曲専断の解釈を弘める者は、戒壇の大事への反逆であり、本仏大聖人の御化導に弓を引く者であります

(平成10年総本山客殿新築慶祝記念大法要の砌  平成十年四月五日)

故ニコノ戒壇ハ、甚深ノ仏意ノ加護ノ下ニ建立セラルベキナリ。然ルニ、民衆ノ救済コソ主体ニシテ、戒壇建立ハ単ナル形式ノ形式ナドノ如キ偏見アルモ、コレ仏意・機情ノ本末ヲ転倒シ、仏法ニ無知ナル大衆に媚ブル迷見ニシテ、

(百六箇種脱對見拝述記 319ページ)

戒壇建立は御遺命ではないという論法、御遺命の戒壇は前もって建立しても構わないという論法、これらもまた大聖人様の遺された戒壇建立の大事を軽視するものであり、相当な業を積むものと私は思う。

最後に日顯上人が三大秘法義において「本門戒壇」の御指南として結論を書かれた部分を紹介する。大聖人様の戒壇に関する御意は全てがここに集約されていると私は拝するものである。

三大秘法義

すなわち、広宣流布以前には『三大秘法抄』に仰せの戒壇はいまだ建立されないが、本門戒壇の大御本尊安置の所は、順縁不退に住する我ら衆生の罪障消滅・即身成仏がかなう事の戒壇である、との御教示である。

このように、大御本尊のまします所は真の霊山、事の寂光土であり、根源の事の戒壇であることは明らかである。

以上述べたように、本門戒壇に義と事を分かつとき、法体に約すれば本門戒壇の大御本尊おわします所、根源の戒壇であるが故に、直ちに事の戒壇に当たる。

しかるに、他の大聖人御顕示の御本尊や血脈付法代々先師の書写の御本尊は、その所住の処、義が事の戒壇に当たる故に、義理の戒壇である。その一切の義理の戒壇には根源があり、それが本門戒壇の大御本尊おわします所である。したがって、そこに、根源の法体に約した事の戒壇の意義がある。また将来、王仏冥合、広布実現の時の根源の戒壇となる。故に、たとえ時が来たからといっても、戒壇の大御本尊以外に事の戒壇は全く存在しない。

そこにおいて、事の戒壇を大聖人の大慈悲の実際的、具体的顕現たる広布の事相に約すれば、御一期において『三大秘法抄』のほかには全く秘して説かれなかったところの「王仏冥合」の御文である。ここに、王仏冥合の条件の上に本門戒壇の建立を示されたのが、まさしく御仏意であり、御遺命の一大事が存するのである

すなわち、本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件が具備した時、戒壇を建立するところに、本仏の志し給う「事の戒法」が成就するのである。この一切は御仏意であり、これは、さらにあとの『一期弘法抄』に本門戒壇の建立につき、二祖日興上人に遺命されるところである。

その上で、

「たゞをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計らひとして、日本国一時に信ずる事あるべし

(上野殿御返事・御書1123㌻)

との大宣言と、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文を信心の上から拝して、そこに時を待ち、また、その国主建立の時を実現すべく、正法正師の正義を積極的に弘通していくことが大切である。すなわち、戒壇の実践、本門戒の実践は、自行化他の折伏にあり、常に広宣流布の前進を念じていくべきである。

三大秘法義 565~567頁

顕正会員であれば事と義の立て分けに多少の違和感を感じるであろうが、法華講員であるならば微塵も違和感を覚えることは無いであろう。

もし仮に法華講員の身でありながら違和感を感じる者があるのであれば…、特に赤字の部分に違和感を感じるならば、それは正本堂問題の後遺症にやられていると思った方が良い。

さて、ここまで読んでくれた顕正会員の諸君は「顕正会の戒壇論とほぼ違いは無いのではないか…。」と感じたのではなかろうか?

そうなのである。

浅井さんが教える戒壇論は微妙に浅井さんの私見は入っているものの、大筋においては間違いは無いと私は思っている。ゆえに「顕正会員を破折するときに戒壇論は不要!」と常々言ってきたのである。要は戒壇論では勝負がつかないのである。これは顕正会(妙信講)の破門事由が戒壇論の内容が間違っているからではないということでもある。

それでは何がいけなかったのか…。

それに関しては次回からお話ししていこうと思う。

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