顕正会員の心には仏様は宿らない…。

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「広告文と遥拝勤行で広宣流布できる」というのが最近の顕正会でのスローガンのようですが、そもそも遥拝勤行であろうとなかろうと顕正会員さんの心には仏様は宿らないのです。

 

それは大聖人様、日寛上人の御指南からも拝することができますし、昔の昭衞さんの書籍をつなぎ合わせていけばちゃんと確認できるのですね。

 

これは成仏するための基本中の基本でありますから、少し長くなりますがお付き合い願いたいと思います。

 

池に映る月

 

以前に仏性と煩悩の関係を渋柿にたとえ、

 

仏性が仏性として働きだす…、すなわち縁によって仏界が開く様子を桜の花にたとえてまいりました。

 

これだけでも顕正会のお嬢さん方におかれては、仏性というのは何なのか、成仏とはどういったものなのかということが少しばかり掴めかけているのではないでしょうか?

 

本日は更に一歩進めて、仏界を開く唯一の縁たる御本尊様と我々の胸中に冥伏する仏性との関係を、夜空に輝くお月様と池に映るお月様の姿にたとえてお話ししてみましょう。

 

水面に映ったお月様

 

桜の季節は終わってしまいましたが、皆様お花見はされましたか?

 

散りゆく桜の下で、

 

夜空に輝くお月様を眺めながら、

 

桧(ヒノキ)の枡(ます)でお酒をいただく…。

 

 

 

「う~~~ん、日本人に生まれて良かった…。」

 

 

 

なんてシミジミ感じるひと時ですね…。

 

 

でもって、フッと枡に目をやるとお酒の水面に、

 

 

桜の花びらが浮いて、

 

 

脇には夜空のお月様が映りこんでいる…。

 

 

 

「おぉ!これだよ!!」

 

 

って信心ある人は感じるものです。

 

 

なにが「これ」なのか…?

 

 

そうです、

 

 

お月様が仏様で、

 

 

お月様を映し出した枡が私たち自身なんですね。

 

 

 

顕正会でも「成仏」だとか、「仏界を開く」だとか、「心に仏様が宿って下さる。」とか言いますけど、これらの原理をたとえてみると上記のようなお話で収まっちゃうわけです。

 

 

「器は大地のくぼきが如し。水たまるは池に水の入るが如し。月の影を浮かぶるは法華経の我等が身に入らせ給ふが如し。(乃至)器は我等が身心を表はす。我等が心は器の如し。

(秋元御書 新編1447ページ)

 

このように大聖人様も仰せですね。

 

 

どうですか?

 

 

すごく単純で分かりやすいでしょ?

 

 

基礎教学書

 

現在における顕正会員の教科書たる「基礎教学書」には以下の記述がありますよね。

 

これは上記の原理を一歩進めた理屈なんですね。

 

これはこれで間違いではありません。(ただし、正式に御受戒を受けた信徒さんであるならば…、という前提条件はありますが。)

 

一応その該当部分を確認してみましょう。

 

 

 (二) 本門の題目

 

本門の題目とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る修行である。

 

日寛上人は、我らが唱え奉る本門の題目と、本門の本尊と、日蓮大聖人との関係について、次のごとく御指南下されている。

 

 「問う、我等が唱え奉る所の本門の題目、其の体何物ぞや。謂く、本門の大本尊是れなり。

 

 本門の大本尊、其の体何物ぞや。謂く、蓮祖大聖人是れなり」(当流行事抄)と。

 

本門の題目の体は本門の本尊であり、さらに本門の本尊の体は実に日蓮大聖人である、と仰せられる。

 

このゆえに、私たちは何もわからずとも、ただこの御本尊を信じて、大聖人の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)で、自然と体である御本尊・日蓮大聖人と一体にならせて頂き、凡夫の我が身がそのまま成仏させて頂けるのである。

 

仏様が宿って下さる

 

 

松野殿女房御返事には、この理をさらに平易に

 

「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う」

 

とお示し下されている。御文の「釈迦仏」とは、その元意は日蓮大聖人の御事である。

 

御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我ら凡夫の濁った心に仏様が宿って下さる。「濁水心無けれども、月を得て自ら清めり」(四信五品抄)と。もし我らの濁心に日蓮大聖人がお宿り下されば、自然と心法も変わる。諸天もその人を守護する。

 

ゆえに現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も仏界の大安楽を得られる。これを「現世安穏・後生善処」という。これすべて御本尊の仏力・法力による。

 

まさに本門の題目とは、御本尊の大良薬を、我ら凡夫が服用させて頂くことに当るのである。

 

(基礎教学書 日蓮大聖人の仏法 38~39ページ)

 

 

昭衞さんの根本的誤り

 

なんとなく分かったような分からないような…、微妙な感じでしょ?

 

なんででしょうか…?

 

それは、わざわざ大聖人様がお月様をたとえに出してくださっているのに、昭衞さんはお月様が仏様(御本尊様)でそれを映し出している水のことも、その水に映ったお月様が私たちの胸中の仏性だということなども詳しく言及していないからなんですね。

 

ですからね、この昭衞さんの指導を読む前に、夜空に輝くお月様とそれを映し出す池の水…、冒頭のアイキャッチ画像みたいな風景を頭に描くと非常に理解が進むと思うのです。(冒頭において私は池のお水ではなく枡に入ったお酒と表現しましたが、酒好きなおっさんはそっちの方がイメージが掴みやすいかと…。)

 

 

しかしここで一つだけ問題があるのです。

 

 

それは…、

 

 

顕正会員さんの池にはお水が無い…。

 

 

せっかくお月様が煌々と輝いていても、それを映す水が枯れはてて存在しないのです。

 

 

月は影をおしまざれども水なくばうつるべからず。仏衆生を化せんとをぼせども結縁うすければ八相を現ぜず。」

(開目抄 新編 553ページ)

 

と大聖人様も仰せのように、昭衞さんが引用された四信五品抄にて仰せの「濁った水」さえ無いのですから、お月様を映すことは出来ないのです。

 

 

いいですか?

 

 

上記の昭衞さんの引用は「松野殿女房御返事」と「四信五品抄」ですが、この書を送られたのは松野殿の奥さんと富木殿ですよね。つまりお二人とも御受戒を受けて信徒になっているわけです。

 

 

御受戒したことによってお二人の胸中にはお月様を映し出す水が注がれているわけですから、当然のことながら御本尊様は映し出されます。

 

 

未だ煩悩にまみれているかいないか…、すなわち水が濁っているか否か(信心の厚薄)の問題はあったとしても、濁りさえ取れてしまえばハッキリとお月様を映し出す前提条件はお二人ともすでに備えているわけですから、上記の昭衞さんが引用した部分もその通りに拝すればよいわけです。

 

 

けれども、いまだ御受戒を受けておらず、水が張られていない池や、お酒を注がれていない枡ではお月様を映し出すことは逆立ちしたって無理ですよね?

 

 

そこんとこを無視しているのが実は昭衞さんのこの文章なのです。

 

注意

 これは後日機会があれば詳しく述べますが、大聖人様は松野殿女房御返事においては引用部分の前に、信心の無い状態を「濁れる水には月住まず。」と表現しています。一方で上記の四信五品抄においては「濁水心無けれども、月を得て自ら清めり」と相反する表現をされています。

大聖人様はこの夜空の月と水面に映る月のたとえを非常に多く使われますが、その際に「濁れる水」との表現を邪法邪師の邪義にとらわれ仏性が仏性として働きださない人(すなわち成仏できない人)にも使用しますが、一方で煩悩が強い愚人に対しても「濁れる水」との表現をなさいます。

しかしながら、前者は決して濁りが澄むことはなく成仏できないと切り捨てますが、後者には濁りが澄んでくれば月は宿る(映る)…、すなわち成仏できるとされるのです。

その辺りの塩梅を上手く読み解くのは少し難しく、正確に大聖人様のお言葉を受け止めるにはこの御書が書かれた背景や大聖人様の仏法の全体観をよくよく把握していないと誤解を生じます。日蓮正宗の御僧侶から御法門を学ばなければいけないというのは、このような点からも言えることなんですね。

 

日寛上人御指南

 

前項において「濁れる水」との表現を大聖人様は二通りに使用されていると最後に書かせていただきました。

 

ある程度の素養がある方であれば間違えることはないのでしょうが、初心の方々においては正確に理解するのは少し骨がおれることでしょう。

 

これと同類のことは「足代」(足場)のたとえでも見ることが出来ます。顕正会の皆さんはよくご存じだと思いますが、「法華経が説かれた後は足場である爾前経は捨てなければいけない。」と教わりましたよね?

 

これは昭衞さんのオリジナルのたとえではなく、実は大聖人様自らが御書の中でたとえとして用いられているものなんです。

 

それはどうでもよいとして…、

 

問題なのはこの「足代を捨てろ」といった大聖人様が一方で「用ゆべし。」とも言っているのですよ。知っていました?

 

「但し爾前の経々は塔のあししろなれば切りすつるとも、又塔をすり(修理)せん時は用ゆべし。」

(法門申さるべき様の事 新編429ページ)

 

これですね。

 

このように仏様の御金言ではあるのですが、時と場合によっては全くの正反対の表現をされるのです…。ゆえに大聖人様のお言葉を正確に拝するのは初心の方には難しい部分も多々あるのですね。

 

そのような後世の衆生に対して親切な解説を残されたのが中興の祖といわれる日寛上人なのです。

 

この夜空の月と水面の月の関係をズバッと言い切られている御指南を紹介いたします。

 

観心本尊抄文段

 

上記において私は大聖人様が開目抄にて以下のように御指南遊ばされていると申しました。

 

「月は影をおしまざれども水なくばうつるべからず。仏衆生を化せんとをぼせども結縁うすければ八相を現ぜず。」

(開目抄 新編 553ページ)

 

これと同様のたとえを日寛上人も為されているのを皆様は御存じでしょうか?

 

結論から先に述べると、

 

夜空のお月様が仏様(御本尊様)であり、その御本尊様を信じてお題目を唱えると私たちの胸中にある水にお月様が映りこむ…。これが仏性が仏性として働きだした姿…、すなわち仏界が開いた状態なんだ。

 

ということを御指南下さっているのですね。

 

それでは御指南を確認してまいりましょう。以下は観心本尊抄文段における日寛上人のお言葉です。

 

 

 

次に観心の文に「此の三千、一念の心に在り」等と云うは、此の一念三千の本尊は全く余処外に在ること無し。

 

但我等衆生の信心の中に在すが故に「此の三千、一念の心に在り」と云うなり。

 

若し信心無くんば一念三千の本尊を具せず。故に「若し心無くんば已みなん」と云うなり。

 

妙楽の云わく「取著の一念には三千を具せず」とは是れなり。

 

若し文上の熟脱に取著して文底下種の信心無くんば、何ぞ此の本尊を具足すべけんや。

 

讐えば水無き池には月の移らざるか如し。若し刹那も信心有らば即ち一念三千の本尊を具す。

 

故に「介爾も心有れば即ち三千を具す」と云うなり。讐えば水有る池には月便ち移るが如し。

 

宗祖の所謂「此の御本尊は只信心の二字に収れり」(一三八八)とは是れなり。

 

(日寛上人 御書文段 209ページ)

 

非常に分かりやすい御指南ですよね?

 

なに?分からない?

 

それでは昭衞先生のお言葉でこの部分を解説してもらいましょう。以下は昭和の時代に発刊された(写真は平成11年の再版)観心本尊抄略拝からの引用です。

 

 

 

 次に

「此の三千一念の心に在り、若し心無くんば而已(やみなん)、介爾(けに)も心有れば即ち三千を具す」

とは観心である。すなわち「此の三千一念の心に在り」とは、この一念三千の本尊は全く余処にあるのではない、ただ我等衆生の信心の中に在るということである。もし信心が無ければ一念三千の本尊を具することができない、ゆえに「若し心無くんば而已」という。妙楽は「取着一念・不具三千」と云っているが、もし文上熟脱に取着して、文底下種の信心が無ければ、どうしてこの一念三千の本尊を具することができようか。たとえば水の無い池には月の影は映らないのと同じである。しかし、もし刹那でも信心があれば一念三千の本尊を具する。ゆえに「介爾も心有れば即ち三千を具す」と云うのである。たとえば水ある池に月影が映るごとくである。大聖人が「此の御本尊も只信心の二字に収まれり」と仰せられるのはこれである。

 

(観心本尊抄略拝 74ページ)

 

 

さすが昭衞先生ですね。非常に分かりやすい解説です。

 

 

成仏を求めるならば、念仏のように自分とはかけ離れた場所を恋焦がれるのではなく、実はそれぞれの胸中にある仏性を仏性として働かせれば良いだけのことであるのです。

 

その具体的な方法は文底下種の仏様に信を取るところ、自らの胸中の水にお月様たる仏様が映りこむ、それがまさに胸中に仏界が湧現した状態だと申されるわけです。

 

しかし、ここで大事なことは、熟脱の仏である釈尊に信を取るのではなく、文底下種の仏たる日蓮大聖人に信を取ることが必要不可欠な条件であると申されています。

 

「じゃあ、顕正会員は大丈夫じゃん!」

 

と思われるでしょうが、さにあらず…。

 

実はこの必要な信に関して日寛上人はちゃんと明確な条件を残されているのです。

 

 

六巻抄

 

それでは見ていきましょう。

 

当流行事抄

 

当流行事抄において日寛上人は以下のように仰せです。

 

 問う、末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべしや。

 

答う、文上脱益の三宝に執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし。是れ則ち末法適時の信心なり。起信論に云わく「一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず」已上取意。

 

初めの一は総じて明かし、後の三は別して明かすなり。

初めの一は総じて明かすとは、総じて久遠元初の三宝を信ずることを明かすなり。血脈抄に云わく「久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法」と。又云わく「久遠元初の結要付嘱」云云。自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや。久遠元初は仏法の根本なり、故に「根本を信ず」と云うなり。後の三は別して明かすとは、久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益したもう。若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争でか即身成仏することを得ん。故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし、故に「二に仏宝を信じ、三に法宝を信じ、四に僧宝を信ず」と云うなり

 

(六巻抄 194~195ページ)(顕正会版六巻抄 194~195ページ)

 

三宝というのは顕正会の皆様も耳にしたことがあるかと思います。

 

仏宝→日蓮大聖人

法宝→戒壇の大御本尊

僧宝→日興上人をはじめとする代々の御法主上人猊下

 

ですよね?最後の「代々の~」に関しては顕正会員さんは異論があるかと思いますが、それに関しては後段にて触れますので、ここでは上記の三宝への信が無ければお月様を映す水が枯渇してしまうということだけを覚えてください。

 

 

当家三衣抄

 

次に同じ六巻抄の「当家三衣抄」を見てください。この末文には以下の一節があり、我々の帰依すべき三宝とは具体的に何を指すのかを述べられています。

 

 

 南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、

 

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲、南無日蓮大聖人師。

 

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思の境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。

 

 南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師

 

 此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え、乃ち一子を過ごすべし云云

 

(六巻抄 225ページ)(顕正会版六巻抄224~225ページ)

 

 

どうでしょうか?

 

顕正会が崇拝する日寛上人は、帰命する対象として御歴代の御法主上人猊下もまた僧宝の中に加えられているのですね。

 

つまり、御歴代の御法主上人猊下への信が無くなった時点で三宝への信は成立せず、その方の胸中の水は枯れ果てるということなんです。

 

胸中に水が無くなれば、大聖人様も日寛上人も仰せのごとく、お月様たる仏様はあなた方の胸には映ることはありません。

 

それでは現在の顕正会員さんの状態はどうでしょうか?

 

 

昔は顕正会も御歴代を僧宝と言っていた

 

現在の顕正会のことは後段に譲るとして、実は顕正会でも上記日寛上人の御指南に基づいて、基礎教学書の出る平成27年までは御歴代の御法主上人を僧宝として表面上は会員に教えていたのです。

 

以下がその証拠です。

 

 

これは基礎教学書が出る前の顕正会員の教科書である「折伏理論書」の改定前のものです。赤線は私が平成7年当時に登用試験を受けるために過去問で出たところのみにマークしたものです。(私は勉強が嫌いなもので、過去問で出たところのみを暗記して受験しました…。)

 

読みづらいと思うので以下にテキスト化しました。

 

 

 次に御観念文における三宝の御報恩であるが、三宝とは仏・法・僧である。

 

末法下種の仏宝とは、御本仏・日蓮大聖人であられる。流罪・死罪の大難を忍び給うて我等一切衆生に三大秘法を授与して下さった大慈大悲の御恩徳は、たとえ香城に骨を摧くとも報ずることはできない。

 

末法下種の法宝とは、本門戒壇の大御本尊であられる。「我等比の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(観心本尊抄)とのごとく、信じ唱える我等に自然と成仏の大功徳を与えて下さる大御本尊の大恩は、たとえ雪嶺に身を投げるとも報ずることはできない。

 

末法下種の僧宝とは、第二祖・日興上人であられる。仏恩・法恩がいかに甚深であってももしこれを伝えて下さる方がおられなかったら、どうして末代の我等、三大秘法を受持することが出来たであろうか。まさに日興上人こそ末法万年に三大秘法を清く正しくお伝え下さった下種の僧宝であられる。さらに総じては、日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝である。

 

かくのごとく三宝の御恩徳を念じて、御報恩し奉るのである

 

(折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法(初版)70~71ページ)

 

 

お手元に初版の折伏理論書がある方は確認してみてください。ちゃんと書いてあるでしょ?改訂版では74~75ページですね。

 

このように日達上人、日顕上人も含めた御歴代の御法主上人猊下も僧宝として敬い、そして帰命してこそ文底下種の三宝への信が成就し、御本尊様というお月様を映す水が我々の胸中に漲り、そのうえで御本尊様に向かってお題目を唱えるがゆえに我が胸中にお月様は映し出され、このことをもって「仏様がわが心に宿る!」ということになるのです。

 

 

もう全てはお分かりですね…。

 

 

一方では僧宝に御歴代の御法主上人を含めていながら、一方では日達上人と日顕上人を呼び捨てにして悪口の限りを尽くし、血脈が断絶したとの発言まで口にする昭衞さん…、そしてその口真似をする顕正会の皆さん方の心に仏様は宿るのでしょうか?

 

 

普通に考えれば答えは「NO!」ですよね。

 

 

いくら浅井さんが

 

御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我ら凡夫の濁った心に仏様が宿って下さる。「濁水心無けれども、月を得て自ら清めり」(四信五品抄)と。もし我らの濁心に日蓮大聖人がお宿り下されば、自然と心法も変わる。諸天もその人を守護する。

 

ゆえに現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も仏界の大安楽を得られる。

 

と言っても、それは昭衞さんが勝手に言っていることであり、その前提条件たる僧宝への信が欠如しているため、顕正会員さんの胸中にはお月様を映す水が初めから存在しない…。水が無ければお月様を映し出すことも「あり得ない!」と大聖人様も日寛上人も断言されているのです。

 

本当に気の毒なことですが、現状の顕正会に籍を置いている皆様には仏様が心に宿るということは無いのです。

 

本当に成仏を願われるのなら…、

 

本物の大聖人様の仏法を実践したいならば…、

 

御宗門に来るしかないのです。

 

大聖人様もそれを望まれているのです。

 

心ある真面目な顕正会員さんは勇気を出して一歩踏み出してください。

 

私たちはそのような求道心ある皆様をお待ち申し上げております。

 

 

 

 

 

顕正会版日寛上人御本尊をお持ちの方へ


顕正会版日寛上人本尊は本物とは紙質が相違します。

 

顕正会版は現代の製法で作成される紙を使用しています。

 

昭和30年代当時の紙を再現するところまでは、さすがの浅井さんでも不可能だったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

  1. 雲羽百三 より:

    質問があります。

    新入信者を辞めさせない為には、何をするべきだと思いますか?

    因みに、

    「自行化他の修行をしっかりさせ、強固な信心を確立させる」

    という答えはハズレです。正直言ってハズレです。
    これに答えられなければ、報恩坊さんも脱落者の発生を食い止めることができなくなりますよ。
    恐らく、トチロ~さんはもうお気づきではないかなと思って、この質問をさせて頂いております。

    • トチロ~ より:

      その人の声に耳を傾ける。

      これがまず第一歩だと私は思っています。

  2. 雲羽百三 より:

    おはようございます。回答ありがとうございます。
    何でこんなことを聞いたかと言いますと、弊社でもようやく「今いる社員を辞めさせない為にはどうしたら良いか」という声を今年度より就任した新支社長が上げました。
    しかもそれを、現業の私達1人ずつに耳を傾けるというのです。
    今までは、「人手が足りない!もっと社員を増やせ!」の一点張りでした。
    まるで顕正会や、一部を除く法華講みたいですねw
    「誓願に足りない!もっと入信者を増やせ!」ってね。

    でもこの御時世、なかなか応募者が来ない
    のが実情です。
    そこで、新支社長の言葉です。
    多くの社員達は、「もっと給料を上げろ」「もっとボーナス上げろ」「もっと福利厚生をしっかりしろ」という声を出す者が大多数でした。
    これ、「もっと功徳を寄越せ!」と言っているようなものですね。
    かくいう私もそのまま1人でした。

    でも最近になって思うんですよ。
    それはあくまでも一時的な解決法であって、抜本的なものでないと。
    ではその抜本的なものとは何か?
    その答えらしきモノを見つけたのですが、それは……。
    ま、一杯やりながら話しましょう。

    因みにトチロ~さんの回答は、バツでもマルでも無いと思います。

  3. トチロ~ より:

    耳を傾けた後は、如何に皆様のモチベーションを上げられるか…。

    これが課題だと思っています。

  4. トチロ~ より:

    何だか込み入った話になりそうなので、続きはお会いしたときに致しましょうね。

    • 雲羽百三 より:

       よろしくお願い致します。

       これは人材流出に悩む企業にも通じる所です。
       法華講や顕正会だけの問題ではないんですよ。

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