新入信者も御開扉を受けていた!(入信即御本尊下附も…。)

御開扉について

現在の顕正会では「信心強盛な者でなければ御開扉は受けられない。」と教えているが、破門以前の妙信講においては入信一年の者であっても御開扉は受けていた。

 

別にこれは悪いことでもなんでもない。

 

ただ、浅井さんの言っていることとやっていることがこれだけ違うという事を顕正会員さん達にも知って頂きたいのである。

 

以下は昭和45年の御開扉における妙信講員さんの登壇である。(名前はイニシャルにしておいた。)

 

 

八十一才で初の御登山

 

H・S(お名前はイニシャルとさせて頂きました。)

 

私は入信させて頂きましてから一年になりますが、一度は命ある中にお山に行き度いと願っておりました。九月二十六日の総幹部会で「貌下より御登山のお許しを給わった」との事を浅井先生よりお聞きした時は、夢かと思い、ただ有難いことだと涙が出ました。私か八十一才で年を取っている為、家族の者たちも「年を取ってるから無理だ」と心配してくれましたが、私は「一心で行くのだから死んでもよい、若し途中で死んだら骨になって帰る」と申して決心いたしました。

 

御登山のお話を伺ってからは自分の身は自分一人だと思い、毎日気を付けてお待ちしておりました。当日は朝から天気も良く暖かでございました。本当に嬉しく、何事も考えませんでした。ただただ、御本尊様にお目通りを願うばかりでございました。汽車の中も、バスの中でも皆様が親切にして下され、ただ嬉しいことばかりでございました。

 

バスを下車して行くと、あのせせらぎの美しいこと、見るものただ有難いというだけでございした。山門の前に行きました時は、ああこのお門は「富士」の表紙にあるのだなと思いました。あの建物の大きなこと、どれを見ても有難いことばかりでございました。いよいよ大御本尊様にお目通り出来る時の私の気持は、ただ″有難い″との一言で、涙がとめどなく出ました。これでいつ死んでも心残りはありません。とただ有難いの一言でございました。

 

帰りも九時頃無事に家に着き家族の者たちに、有難いことだと云って喜びました。私もまだ身体が丈夫で、家の中でも自分の用よりございませんので、毎日知人やら親類に出掛けて、有難い話を聞かせてやっております。なかなか分からない人が多いので、下種はやっても入信まではなかなかいたりませんが、私は足の続くかぎり皆様に有難いお話をしていくつもりでおります。

 

お山に於て、浅井先生は「十万世帯をやる。」とお話を下されましたが、私はいつ命果てるか分かりませんが、ただただ妙信講の指導にそい、講頭先生・浅井先生に付き切って戦う決意でございます。

 

(板橋支部加藤班組長)

 

(富士昭和45年11月号 37ページ)

 

 

入信して即御下附も当然のことだったのです。

 

以下は同じ号の冨士に掲載されている体験発表である。

 

現在の顕正会では御本尊下附が基本的には出来ない。(自前のニセ本尊云々はあるがここでは無視する…。)

 

基本的に無理であるがゆえに会員さんには御本尊下附がさも特別なことのように教え込んでいる。たしかに御法主上人が直々に御認めくださる常住御本尊様を頂くにはそれなりの信心が認められなければ無理ではあるが、御形木御本尊に関しては入信間もない状況に於いてもお持ちし、日々御給仕していくところにこの信心を確固たるものにしていくための理由があるわけである。

 

妙信講も破門前はこの道理の通りに動いていた。その証拠が以下の登壇記事である。

 

 

これを読むと登壇者は御受戒を受けて即妙縁寺にて御本尊下附を受けている。

 

現代においても日蓮正宗では当然のことではあるが、顕正会では絶対にあってはならない事態ではなかろうか?

 

日蓮正宗が変わったのでは無い!顕正会が変わってしまったのである!

 

何故変わらざるを得なかったのか?

 

破門され、それまで通りの化儀が執り行えなくなったがゆえに、正宗には無い己義を浅井さんは唱えているに過ぎないのである。そこんとこにいい加減気づくべきなんです、顕正会員さんは…。

 

 

 

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コメント

  1. たんぽぽ より:

    久々のコメントさせていただきます。
    また この記事をさせていただきましたm(__)m
    この記事面白いです。
    またよろしくおねがいたしま~す(*^▽^*)

    • 桜梅桃李 より:

      たんぽぽさんへ

      先日はお疲れ様でした。

      御同行されていた女の子も明るくて理想的な法華講員さんでしたね。うちの御住職様も褒めてらっしゃいましたよ。

      寛師会にはいらっしゃるのでしたっけ?

  2. ありの金吾 より:

    かなり興味深い記事ですね。

    >ただただ妙信講の指導にそい、講頭先生・浅井先生に付き切って戦う決意でございます。

    妙信講や講頭先生・浅井先生じゃなくて、ここは御法主上人や御住職(指導教師)でしょう。
    御法主上人や御住職に師弟相対できなかったから、解散処分を受けるハメになるんです。

    ていうか、この当時から「講頭先生・浅井先生」なんですね(苦笑)
    そりゃ信心おかしくなりますよ。
    昭衛氏は会長になる前から「先生」なんですね。
    二大巨頭制?

    現在の顕正会は、「不敬冒涜の御開扉を中止し、近き広布の日まで秘蔵厳護し奉れ」と主張していますが、『顕正会「試練と忍従」の歴史』ではビックリするようなことを書いてます。

    「以来、妙信講は総本山の御会式に参詣も叶わず、正月登山も出来ずにおります。およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります。」
    (『顕正会「試練と忍従」の歴史』36ページ下段)

    浅井氏はここで、「御開扉が受けられなければ死ねと云うことだ」とまで述べています。

    「私共の思いには、御開扉を許す許さぬは、昔より血脈の御一人の為されるところにして、一般僧侶すら口にする所ではないと。」
    (『顕正会「試練と忍従」の歴史』30ページ下段)

    浅井氏は、御開扉を許可する許可しないは、血脈付法の御法主上人の権能であり、「一般僧侶すら口にする所ではない」と述べています。
    「一般僧侶すら口にする所ではない」のなら、在家教団の顕正会が「不敬冒涜の御開扉を中止せよ」と主張するのは言語道断ということになりますよね?

    「御遷座の翌年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。」
    (『日蓮大聖人の仏法 改訂版』255ページ)

    この記述は、戒壇の大御本尊が正本堂に御遷座された翌年の昭和48年に、妙信講が正本堂にて御開扉を願い出たことを証明するものです。
    現在の顕正会は「宗門は正本堂を御遺命の戒壇であると断言した」と主張し、最近では正本堂のことを「偽戒壇」と呼んでいますが、妙信講(顕正会)はその正本堂においてさえ御開扉を願い出ているのです。

    さて、『顕正会「試練と忍従」の歴史』ですが、現在の顕正会では販売中止になったみたいな噂を聞きましたが、本当なんでしょうか?

    • 桜梅桃李 より:

      ありのさん、御無沙汰いたしております。

      販売中止になっているかどうかは存じ上げませんが、最近の書籍とは自語相違するところも出てくるでしょうから、積極的には販売しないのではないでしょうかね…。

      「昔の機関紙を辿るとぼろが出る。」っていうのが顕正会の常ですから…。

      私のもう一個のブログでその辺りを少し書いてみますね。

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