顕正会教学部の根本的誤り

顕正会教学部対策

 

 

 

顕正会教学部が末寺訪問の際に伝家の宝刀のごとくに提示する文章に「御宗門のHPの記事」というのがあるらしい。

 

私もそれを改めて拝読したが、一見すると彼らが主張するように日達上人が述べられていた法体に約しての立て分けを表とする『戒壇の大御本尊の御在所はいつでもどこでも事の戒壇』と相違するように見える。しかしながらこの文章は文底秘沈抄を立て分けの物差しにしているがゆえ広宣流布以前の戒壇の大御本尊の御在所を義の戒壇とはしているが、文中には報恩抄文段や法華取要抄文段にみられる法体に約しての立て分けや、依義判文抄における「本尊所住のところ義は戒壇にあたる。」旨の日達上人の御指南をしっかりと踏襲しているものになっているのである。

 

この意を読み取れず、このHP記事をもって得意満面として御僧侶を誹謗中傷するバカな連中には「お前さんの目は節穴か!だったら銀紙でも丸めて突っ込んでおきなさい。」と言ってやれば良いのである。

 

日蓮正宗HP記事とは

 

問題の記事とは以下である。

301 Moved Permanently

 

このページの以下の部分が鬼の首を取ったかのように提示してくるものである。

 

画像では読みづらいのでテキスト化してみた。

 


「本門戒壇の大御本尊」とはどういうことですか。

 

“本門事の戒壇に御安置すべき究竟の御本尊”という意味です。
宗祖日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕された出世の本懐たる大御本尊には「本門戒壇」との脇書きがしたためられています。

 

この「戒壇」について、日寛上人は『文底秘沈抄』に、「事」と「義」との戒壇があるとし、「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処」(六巻抄 六一頁)、「事の戒壇とは一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり云云」(六巻抄 六一頁)と指南されています。

 

すなわち「義の戒壇」とは【各家庭も含めた】本門の本尊安置の所で、その義理が事の戒壇に相当するということです。そして、その根本となる「事の戒壇」とは、宗祖日蓮大聖人が「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(御書 一六七五頁)と仰せの、御遺命の本門寺の戒壇堂です。この「事の戒壇」に御安置申し上げる大御本尊でありますから、弘安二年十月十二日御図顕の御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げるのです。

 

(注)文中の【 】は管理人が勝手につけたもので原本には【 】書きは存在しない。

 

(「ニセ本尊」破折100問100答 28~29ページ)

 

ポイントは私が勝手につけた【 】書きの部分である。

 

黄色でマーカーした日寛上人の文底秘沈抄は「事相に約した立て分け」である。この物差しをもって「事・義」を判ずるのであるから、当然のことながら緑でマーカーした部分はやはり「事相に約した立て分けの説明」になっている。

 

これだけなら顕正会教学部の主張も一部認めることにもなろうが、ここに上記の【 】書きの部分を加えると、「法体に約した立て分け」をそこに混入していることになるのである。

 

言うまでもなく上記日寛上人の御指南は戒壇の大御本尊様御在所の一か所を取り上げて「事相に約した『事』・『義』を捌いている」わけであるが、報恩抄文段(文段 469ページ)の立て分けや 法華取要抄文段 (文段543ページ)の 「根源」と「枝流」との表現をもって論じられる戒壇の大御本尊様と嫡々書写の御本尊との「法体に約する」立て分けをここに【各家庭も含めた】という一語をあえて挿入することにより表現しているのである。

 

これすなわち日達上人仰せの「法体に約しての事・義の立て分け」の御指南を未だ忠実に踏襲している何よりの証拠であろう。この一語に気づかずに現御宗門は日達上人の仰せを否定するHPを作成したと胸を張る顕正会教学部は何を考えているのだろうか?

 

原文は平成6年作成

 

そもそもHPに掲載されているこの文章は近年になって突如著されたものではない。平成6年に「創価学会『ニセ本尊』破折 100問 100答」として出版された書籍の一部なのである。4半世紀も変わらぬ主張を表に出しているのである。それを何を今さら…。本当に連中はアホウである。

 

またこの文章の内容が顕正会の考える戒壇論と相違なきものであるならば、なにゆえ顕正会は破門されたままで外部におらにゃあならんのだ?という素朴な疑問も湧いてくることだろう。

 

ここ重要!

 

今一度それぞれが心静めてこの基本的問題を考えるべきである。

 

破門以前から戒壇論は一貫不変

 

このHP文書は平成6年のものであることは話したが、この戒壇の立て分けは妙信講破門当時も、またそれ以前においても一切変わらぬものである。

 

また日達上人の御指南も法体に約して説かれたものであり、これもまた日寛上人の仰せに違わない。更に御歴代御法主上人の御指南もまた統一されているのである。

 

顕正会教学部がどんなに脳足りんな頭で考えても未来永劫打ち破ることは不可能なのである。

 

 

 

コメント

  1. 石山巌虎 より:

    そうですか、平成六年ですか、それは知りませんでした。なるほど、そうすると顕正会が今頃になって大騒ぎしている理由がまったく見えてきませんね。相変わらずの行き当たりばったりのようです。

    ただし、各家庭云々に関しては拙ブログに記した通りでして、わたくしとしては承服しかねるところではあります。

    • トチロ~ より:

      理由なんて無いのと違いますかね…。誰かがフッと公式HPの記述を見つけて「これで論破できる!」と小躍りした。単にそれだけでしょう。しかしそこには上記記事のような穴が存在した、ゆえに既にこのイチャモンを彼らも口にすることは無くなった。これが真実だと私は捉えています。

      なお、各家庭の一言を入れてあるがゆえに今回のような顕正会の邪難をも斬り捨てることができたわけで、この文章を書いた方は先見の明があったと私は逆に感じます。

      なお、法体に約しての「事」「義」を否定するということは報恩抄文段における日寛上人の御指南も否定することに繋がりますがいかがでしょうか?

      https://kenshokai-hashaku.com/blog/2019/04/30/kaidan8/

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