問う、事の戒法とは何ぞや?
答う、行者の側から見れば戒法であり、御本尊から見れば戒壇を指す。ゆえに戒壇と戒法は同義であり、事の戒法とは御本尊より見れば事の戒壇にあたる。広布以前は義理として事の戒壇といえる戒壇の大御本尊所住の処がそれにあたるが、それは「義理に於て事の戒法といえる」と釈すべきであろう。すなわち三大秘法抄ならびに一期弘法抄に仰せの戒壇建立をもって事の戒法は成就したというべきである。
以上が私の見解ではあるが、「お前の意見は聞いていない。」って返されるだろうから、その根拠を以下に示す。
反論を楽しみにしています。
事の戒法と申すは是なりとは、事といふは理に対する語で、諸法の法性真如の理法を理といひ因果の上の当体を事と称するのであります。それ故戒法に於ては五戒十戒等は事体の行動を規律づける故に事戒といひ、此れに対して大乗戒殊に迹門の義による一乗の円戒は観念的であるが故に理戒と申すのであります。
此れが通途にいはれる事戒理戒の義であります。しかし乍ら大聖人の本円戒は天台迹門の理戒に対して、事相の躰のところに妙法を受持し行体即妙法なる故に事戒と申されるのであります。此れは下種の機に下種の妙法を受持せしめられるが故であります。しかしてまた妙法受持は御本尊の受持にありますので、そのことが事の戒法になるのであります。しかし乍ら大聖人は一閻浮提広宣流布して仏国土の顕現を期し玉ふ故戒壇建立を以て事戒法と仰せ玉ふのであります。従ってそれ迄は義の上の戒法と申し上げるべきであります。
日淳上人全集491~492頁頁
法華本門の大戒は前に述べました如く大御本尊を受持し奉ることでありますから此れを戒壇と仰せられるのでありますが、大聖人は広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられるその戒壇を本門の戒壇と仰せられましたことは三大秘法鈔によって明白であります。それ故三大秘法の本門戒壇とは一にそのことであらせられると拝さなくてはならないのであります。戒と申しますれば個人の行動の規範でありますが此に於ては国家的の戒壇が戒法になるのであります。
日淳上人全集1039~1040頁
次に三大秘法鈔並に御付嘱状掲の御文に王法と仏法と冥合して国主が此の御法を御用ひの時は此の戒壇が建立せられる、それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますからその時の戒壇を事の戒壇と申上げるのであります。
(中略)
繰返して申しますと大聖人の御法に於ては戒壇建立を事の戒法と致し従って其の以前は義の戒壇であります。
日淳上人全集1028~1029頁
抑も戒壇とは本尊所在の処を名付け奉るので、行者が本尊を受持すれば必ず戒壇を要するのであって、その戒壇あるところ必らず戒法があるのである、それ故に戒壇と戒法は同義になるのである。然るに蓮祖は国立戒壇をもって本願とせられ、此れを事の戒壇と称せられた
日淳上人全集1211頁
今日はホンワカ路線でいこう…。
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