昭和五十年九月二十六日
今回、日寛上人二百五十遠忌にあたりまして、宗門といたしまして大法要を執行いたしましたるところ、法華講総講頭、創価学会会長池田先生が参詣せられ、また学会代表者、法華講代表者、みな御参詣くださいまして日寛上人の御報恩謝徳ができましたことを厚くお礼申します。
日寛上人は、本宗におきまして中興の祖と申し上げるお一人でございます。まず宗門では、日有上人(第九世)とこの日寛上人を中興の祖と昔からあがめておるのでございます。日有上人は信行学のうちの信と行を中心として、全国を布教せられた方でございます。その残された書物というものはほとんど見当たりませんけれども、この日有上人の述ベられたことは「化儀抄」百二十一ケ条――。南条日住という人が書きとめられたのと、そのほか本是院日叶とかいう方々が、日有上人の説法を聞かれて書きとめられだのが残っておるのでございます。
この日寛上人は信行学のうちの、もちろん信行は当然でありますが、学を中心とせられて宗門の行学の中心をなされ、富士の教学の復興をし大成をせられた上人として、我々はあがめ奉っておるのでございます。幸いにして今回、二百五十年、ちょうど一昨日の秋の彼岸の中日がこの日寛上人の御正当の当日にあたるのでありました。きょうは旧暦の八月二十一日でございますから、十九日が日寛上人の御正当の日でございます。
幸いにして天気もよく大ぜい御参詣あって宗門もいよいよ学会の力を得、あるいは法華講の授助を得て、かくのごとく盛大になってきたことを私は常々、感謝をもってありがたく存じておる次第でございます。
日寛上人のことにつきまして今回、教学郎で「日寛上人伝」を細かく作って、きょうの記念として、あす皆さまに差し上げることになっております。
それにつきまして、今まで日寛上人は上州の館林に、八月八日のお生まれということになっておりますけれども、今回、日寛上人が御入滅なる十日ないし十五日ぐらい前にお書きになった「口上書」というものが学林の図書館から見つかりました。それはお弟子の日因上人がお写しになったのでございます。それによりますと、寛文五年乙巳八月七日ということでありまして、またお生まれになったのは、厩橋、今の前橋。前橋の酒井雅楽頭の家中だということに、はっきり決定いたしました次第でございます。
それは「口上書」にお書きになっておることをもって、なおすのでございます。これは「口上書」では寛文六年となって乙巳となっていますが、乙巳は五年の間違いでございます。それは寛師が六年と書いたのは、この乙巳からいけば明らかに五年の間違いというこどははっきりしております。だから寛文五年八月七日にお生まれになっておるということは明らかでございます。
日寛上人のことにつきまして、日寛上人がこの「報思抄文段」にこの富士天生原に戒壇を建立するということがございます。それをもって、ある人は日寛上人が国立戒壇を思っておるのだというふうに、考えておる人がございます。そういうことはちっともないのでございまして、富士山天生原というのは今日、あそこに見える天母山と違うのでございます。そのずっと前に第九世日有上人の末期になって、本是院日叶という方が大石寺ヘまいりまして、日有上人のいろいろ説法を聞かれ近所を歩いたのでございます。この方がはじめて天生原、富士山のふもとの天生原に六万坊を建てるということを、理想とせられた言葉が残っております。
そののち、またそれから百年ばかりのち、今から四百年以上前ですが、日寛上人よりも百五十年はど前になりますか、京都要法寺の出の日辰という人がこの富士ヘまいりまして、この方は北山の本門寺を中心として二回ぐらいきております。長い間、そこにおりまして、東の天母山に登って、ここが戒壇の霊地である。富士は戒壇の霊地ということは昔から富士系の人々は考えておりまして、ただその場所の選定ということにおいて、天生原である。あるいはこの日辰という人は天母山であるということの違いがあるのでございます。
天母山と天生原とは大変意味が違うのでございまして、わが大石寺の派においては天生原で、向こうの北山系においては天母山という違いがございます。これは過日、昭和四十五年六月、この天生原について(大石ケ原と天生原についての)私の一考祭を発表しております。それをご覧になると分かると思います。これはもっとはっきりいえば、「富士一跡門徒存知の事」に「駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり」とございます。四神相応というのは、北は玄武、東は青竜、南は朱雀、西は白虎という名前において、これはもと天の星からきたそうでございますが、こういう風景の地がなくてはならない。天母山にはそういう地がないのである。わずか小さな山であって、東には川が流れておりません。青竜は川を表わす。北・玄武というのはもちろん山でありますが、また西・白虎というのは道でございます。この相当した道もございませんが、この大石ケ原はきちっと合っているのでございます。東はお塔ケ原の川、西は白糸ヘ通ずるところの道、あるいは北は富士山のふもとから、あるいは天子一帯にかけての山々であります。南は、上野の南条家の南は湿地帯でこざいます。朱雀というのは湿地帯を表わしておるそうです。これらをもって、四神相応の地は、この大石ケ原であるという理想のもとに、歴代の法主が大石ケ原を天生原といっております。
ただ、この広蔵日辰という人が天母山をもって景勝の地である、そこに六万坊を建てるということをいわれたことにおいて、あの天母山に国立戒壇を造るんだということをある人は言い出しております。
この国立戒壇ということは、明治になって田中智学というー般的日蓮宗の学者がおりました。この方が本山ヘきたことがあるのでございまして、日霑上人の時に本山ヘまいられてお話をしております。しかし、彼はこの日霑上人の話に飽き足らなかったのか知りませんが、戒壇ということを知ったうえで、三保に、今の清水市の三保に最勝閣というものを建てて、そこに戒壇を造る。いわゆる富士の国立戒壇はここであるということを言ったのでございまして、私ども若い小学校四、五年の頃、その最勝閣ヘ、この辺でも評判になりそこヘ行った人もございます。
しかし、それは、御本尊がない、何を、どの御本尊をもって国立戒壇にしようかというところに難しい問題があったのでございます。その当時、田中さんという人が非常に知恵者でございまして、たくさん本も出す。そのために、日本国中に田中さんの説が流布されました。わが宗においても、この田中さんの言葉を利用して、この三保に国立戒壇を建てるならば、こちらにこの戒壇の御本尊があるんだから、大石寺こそ、戒壇の御本尊の中心である。その言葉を借りて、国立戒壇という言葉を使いました。しかし、この田中さんのいう国立戒壇という意味と、大石寺の我々の方のいう意味と少し意味が違ってくると思います。それは本山はこの戒壇の御本尊を中心とした戒壇である。どこまでも。一応、国立といってもその根本は御本尊がなければできない。末法総与の御本尊をもって戒壇の本尊、これが事の戒壇の本尊であるというところに、この国立というととを付加していったのでございます。
しかし田中さんの方は本尊がない。ないけれども国立戒壇という名義をとって、天皇から建ててくださるという名義をとって、そこに今度は本尊をもってくれば国立戒壇の立派なものになるという考えであったのでございます。それもただ国立戒壇というのは、明治に、そういう一つの波に乗って申されたことは事実であります。これは過日、昭和四十五年に、私は今後、宗門として国立という言葉は使わない、国立戒壇ではないということを申し上げたのでございます。それは宗門の公けの決定によって決めた言葉でございまして、我々はどこまでも戒壇の御本尊を中心にし、戒壇の御本尊ましますところは、いずくいずかたでも事の戒壇であるというところから、申し上げておるのでございます。で、今、日寛上人のことをこの「報恩抄文段」にある「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に建立する戒壇堂なり、御相承を引いて云く日蓮一期の弘法(中略)富士山に本門寺の戒壇を建立せらるベきなり」といってこの御文を引いて戒壇は国立戒壇だと、日寛上人も国立戒壇を思っているんだという人もございます。しかし、これは違うのであると、その日寛上人の御入滅する前に、この御本尊の御供養のお金を貯めて、それで御宝蔵にお金を納めております。この金というのはただの金ではない。日寛上人は御本尊の冥加料を集めて、それをもって戒壇のために、戒壇を造るために納めた金である。
日量上人がこのことを「日寛上人伝」にお書きになって「六月中句師在職中授与せしむる所の御本尊の冥加料金銀都合三百両なり、内二百両を金座後藤に遣し人手に渡らざる吹立の小粒金に両替し筥に入れ封印して御宝蔵に納め置き以って事の広布の時に戒壇を造営するの資糧に備ふ」とあります。
それで二百両の金の粒八百粒を御宝蔵ヘ納めた。封印して納めた。すなわち事の戒壇の造立のためである。もし国立戒壇ならば、何も、貯める必要はないわけであります、やってくれるんですから。だけど自分たちがつくらなければならんというお考えがあったから貯めて、御本尊の御供養を貯めて、ここに戒壇をつくろうという厚い遺志があったのでございます。これを日亨上人が同じ「日寛上人全伝」に戒壇造立資金の準備であるとお書きになっております。「金座から吹立ての二百両の小粒とともに残し置かれたるに覚書には『水く寺附の金子と相定』とも『此の小がね変じて御本尊と成らせ給う時此金を遣うベし』と意味深幽になっておる、明らかに戒壇資金とはないが量師が伝にそれが書き給えるのは詳師以来の言い伝えであったろうと思う」と、はっきり掘猊下も戒壇を建てるための金であると、言い伝えにあるというふうにおときになっております。そうしてみると、国立戒壇ということか、明治以前の方々には少しもない。明治中の人も一応そういう言葉を使ったけれども、今でいう国立戒壇とは大分ニュアンス、心において違いがあると思うのでございます。また更に日量上人が「本困妙得意抄」にこう書いてあると、日量上人の「本因妙得意抄」を引いて事の戒壇は国立であるというようなことをいう人もございますが、それはまったく違うのである。
事の戒壇とは、といって事の戒壇のことを述ベられておりますが、それもただ三大秘法の御書、一期弘法抄の御書を引いてあるのであって、最も大切なことはその最後に「法華本門宗要抄に云く我、日本無双の名山富士山に隠籠せんと欲すといえども壇那の請によって今この山に籠居す。我が弟子のうちにもし本門寺の戒壇の勅を申し請けて戒壇を建てんと欲せばすベからく富士山に築くベし」と「法華本門宗要抄」を引用されております。ではこの「法華本門宗要抄」という御書は、大聖人の御書と一応言われますけれども、それは大聖人の御書ではあリません。それは日興上人が富士ヘ移られてからの富士系の人の宗要抄ですからその宗が建ったときのその要となるところの書さ物でございます。富士系の人が作ったということは明らかであります。しかも、日興上人御在世ごろに作られたということも想像することができます。
それによりますと、今の「一期弘法抄」「三大秘法抄」の「勅宣並に御教書」は決して国立ではないということは明らかである。なんとなればそれにある通りに本門寺の戒壇の勅を申し請けて戒壇を建立せよとあります。お許しを頂戴して造れということでございます。伝教大師が比叡山に迹門の戒壇を造ろうと思って、あの嵯峨天皇の時に再三お願いしたけれども、天皇から許可がなかった。伝教大師が入滅してわずか一週間のときに嵯峨夫皇がその弟子・義真に許された。許されたので直ちに国立とはいえない。天皇から援助は受けたけれども、やはり自分の力で建っている。これを見ると今の勅を申し請けてとは、今の言葉で申請です。明らかに申請という言葉を使っております。
これが「三大秘法抄」並びに「一期弘法抄」の「勅宣並に御教書」の解釈として最も古いと思われるのでございます。そうすると明らかに申請である。今日もそうである。今日も建築申請を出さなければ許可にならない。ここでは勅宣といっています。今でも同じことです。ちゃんと総理大臣の決まったところから許されなければ建築許可になりません。そこで本山の建物、みな建築許可、申請をして申し請けてそして建っている。してみると決して国立じゃない。どこに国立という言葉があるか。近ごろ、ある人は国立ということを国家的建築と書いておるようにも思われます。
これは先代の日淳上人が国家的に建てるというようなことをおっしゃっております。だからそれをとって国家的ということはすなわち国立だ、ということをいっております。国立というのは国が建てて国によって管理する。これが国立である、国家的というのは、国にふさわしいという意昧である。日本国にふさわしいということで、すなわち国家的という意味である。それは九世日有上人が「化儀抄」に「法華宗の御堂は日本様に作るベし(日本の姿である)、唐様に作るベからず」ということをおっしゃっております。日本のお寺を建築するなら日本式に建てなさい。唐様というのはその当時、禅宗が盛んであった。禅宗の本堂の建て方、ああいうのじゃいかんということをおっしやっている。
そうすると今の正本堂が外国式じゃないかという人があるかも知れません。それは違う。それは建築が進歩して日本の建築がそうなっている。そこに日本式の、形は洋式であっても日本式である。そこに重大な意昧がある。しかもそれが我々の力、総講頭・池田先生が皆さんの力を集結して、そしてつくった。どこに悪いところかあるか。これほど立派な荘重なるところの戒壇はない。そしてまた私は、戒壇の大御本尊は富士山本門寺の本堂ということを申したら、戒壇堂をすりかえて本堂にしているということを言っている人があります。それは違う。一番古い「百六箇抄」に三秘の本尊を安置する場所を示して「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」とおっしゃっている。決して戒壇堂といっていない。それを後で利用して、今度は分かりやすく戒壇堂という方もありますが、その趣旨は本堂である。今、正本堂にこの本門事の戒壇の御本尊が安置まします、このところこそ事の戒壇であることは少しも間違いない。みなさまが安心してお参りに行ってしかるベきと思うのである。
また日寛上人が先程、天生原ということを言われたということに殊に力を入れて国立だと言うならば、これは日寛上人の「寛師抜書雑々集」という本が残っています。これは主なことをちょいちょいとお書きになったんでございます。これには「相伝に云く富士山天生原において戒壇を建つ、岩本実相寺のところにおいて惣門を建つ云々。もししかれば戒壇の方面自ら分明なり、何ぞ地形に従うベしといわんや更に検する」とお書きになったものが残っております。
これはもっと古い、日興上人御在世に三位日順というお方が「本門心底抄」にお書きになった。「戒壇の方面は地形に随ふベし、国主信伏し造立の時に至らば」国主が信伏するというのは国主が信心して、いよいよ建てるという時機がきたならば「智臣大徳宜しく群議を成すベし、兼日の治定後難を招くあり、尺寸高下注記する能はず」今、こういうふうに勝手に定めて言うことはできないけれども、これは地形によって智臣大徳みなが相談して建てなさい。それは富士山である。富士山といえば広い。広いからその一応天生原。天生原とは大石ケ原のことであります。というふうにはっきりお書き残されておって、少しも不思議はないのでございます。国立戒壇じゃなければいけないとか、いうようなことに惑わされないで、どこまでも戒壇の御本尊を中心にして信心に励まれんことをお願い致します。
また、しょっ中、私のところに公開質問だとか、何だかだといってきます。私は今後、そういうものを相手にしないでおこうと思います。したってムダである。不毛の論争でありますから。
昔、舎利弗という人は、釈尊教団において最も知恵の深い人であった。この人をやり込めようと思ってある外道が大ぜいの人々の前で論争をふきかけました。いろいろ難しい論争ばかりふきかける。しかし舎利弗は一言も答えなかった。なぜなれば仏法というものは、我々の生死の問題である。いかにして我々の苦を救い、悟を得て仏の世界に入るか。あるいは自ら仏になるかという重大なる問題である。それを単なる論争にふけって、論争のための論争、詭弁のための詭弁を繰り返して何の意味があるか、として舎利弗は一言もそれに対して反ばくもしなければ答えもしなかった。しかし周囲の人々は、それを見て舎利弗を決して馬鹿にしなかった。舎利弗が黙っておっても、舎利弗を馬鹿者とも思わない。舎利弗の偉大なることをみなともに知っておった故です。
そういうふうな論争を今日もして、ー生懸命にふっかけても、不毛なる論争をいくらしても役に立たない。もし国立戒壇が正しい、大聖人の教えが国立戒壇であるというならば、その人は世間に向かって言えばいいのです。新しく宗旨を立って国立戒壇宗というものを建ったんだ、といって世間をどんどん折伏して広げてくだされば結構だと思います。
どうか、今後ともそれらのくだらない論争に惑わされず、本当の大聖人の教えに従い戒壇の御本尊を中心として信心に励まれんことを、きょう、日寛上人の御正当会にあたって、皆さまにお願いする次第でございます。よろしくお願いします。
コメント
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