戒壇建立の御遺命は護られている

戒壇論

昭和45年5月以降に戒壇建立の御遺命が表舞台から消えたことの正当性に関して書こうかと思っていたのですが、現時点でも戒壇建立の御遺命は御宗門の中に厳然として護られていることを先に書いておきたいと思います。

そもそも私が顕正会を辞めて日蓮正宗に入ろうと決意したのは、日蓮正宗の御僧侶とお話しした際にその会話の中から「日蓮正宗には戒壇建立の御遺命は今だに生き続けている…。御遺命破壊だと教わっていたのは間違いだったのではないか…。」との思いが湧いてきたからにほかなりません。

御遺命が破壊されておらず今でも宗内で護られていたならば、なにも顕正会などにしがみついている必要はありません。

おそらく現在の現役顕正会員の皆さんも同じ気持ちだと思います。ですから戒壇建立の御遺命が今でも存在しているのか、それとも既に消失してしまっているのかは顕正会破折においては最重要事項なのです。

本日は戒壇建立の御遺命はちゃんと守られていますよということに少し触れてみたいと思います。

三大秘法義

戒壇建立の御遺命が生き続けている証拠は様々な場所で確認できます。

 

先にも申しましたが、御大会や御会式における申し状奉読は王仏冥合を為政者に勧めるものに他なりません。その儀式を今でも行っていること自体が御遺命を護っている証拠でもありましょう。

 

また私の娘が参加させて頂いた2014年の中高生の合宿においては、そのテキストに御遺命とは戒壇建立のことであるとハッキリと書いてありました。

 

更に今でも確認は容易に出来ますが、寶物殿の出口直前には戒壇建立が御遺命であることを示唆する掲示物が存在します。

 

積極的に外部に宣揚することは無くなっても、内部においては確実にその意義は伝承されているということです。

 

最後に三大秘法義における日顯上人の御指南を紹介します。三大秘法義は近年まで富士学林大学科において日顯上人自らが御講義されていた内容です。それは御当代日如上人猊下もお認めになられているのであり、御当代から戒壇建立の御遺命に関する御指南が未だ一言も発せられていないことを受けて「御当代が御指南されていないのだから過去の猊下の御指南など無視して良い。」とはならないはずです。当然のことながら相反する御指南が御当代から発せられれば、それに従うのが信心でしょう。しかしながら未だそれがないというならば、日顯上人の戒壇建立の御遺命の御指南が現在の日蓮正宗の捉え方であると拝するべきかと思います。

 

事の戒壇を大聖人の大慈悲の実際的、具体的顕現たる広布の事相に約すれば、御一期において『三大秘法抄』のほかには全く秘して説かれなかったところの「王仏冥合」の御文である。ここに、王仏冥合の条件の上に本門戒壇の建立を示されたのが、まさしく御仏意であり、御遺命の一大事が存するのである。

すなわち、本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件が具備した時、戒壇を建立するところに、本仏の志し給う「事の戒法」が成就するのである。

(三大秘法義 566~567㌻)

この「王仏冥合」とは政治と信仰の一体化であることは先の日亨上人のお言葉でハッキリしています。

 

顕正会の皆様どうお感じになるでしょうか?浅井さんが破門前に主張していた内容と変わりないのがご理解いただけましたでしょうか。

 

このように宗内においては脈々と戒壇建立の御遺命は語り継がれていっているのです。半世紀前に積極的に表に宣揚することがなくなった戒壇建立の御遺命も内部では大事に大事に護って現在があります。

 

非常に残念なことですが、顕正会の存在意義というのは半世紀前から既に無かったのです。

 

顕正会という組織にとらわれが無く、純粋に大聖人様の仏法を信仰されたいとのお気持ちがある方はお気軽に以下のメールフォームにご連絡ください。

 

 

コメント

  1. 顕正ラジオ より:

    こんにちは。私は顕正会男子部でユーチューブを少しやっている「顕正会の正義を訴えるラジオ」という者です。
    主さんの記事を読みました。「戒壇建立の御遺命は語り継がれていっている」とのことですが、その御遺命の定義が異なるから顕正会は今でも御遺命破壊だと宗門を諫めていると思います。顕正会のいう事の戒壇は御存知でしょうが国家意思の表明を以て建てる戒壇です。宗門ではそこまではいっていなくて、国主立という名称を使っても中身は民衆立です。それは大日蓮出版発行の近現代における戒壇問題の経緯と真義にあきらかです。また、顕正会がいう国立戒壇は間違いだと言ったことは正しかったとも言っています。その点は、どうお考えになっていますか?
    また、私の動画アドレスを記入したので、ご意見を頂けると幸いです。

    • トチロ~ より:

      顕正ラジオ様

      コメントありがとうございます。動画を拝見いたしました。

      「国家意志の表明」、これは昔から顕正会では主張されていることですね。しかしながら御宗門では「国家は非情であり有情では無い…、大聖人の御意は『人格を有する有情の意思をもって戒壇建立をすることである。』」というスタンスは半世紀の間全く変わっておりません。

      その上で第67代日顯上人は「しかして、この国主とは、現憲法下においては主権を持つ国民の意志であるが、国民の象徴としての天皇の意志も加わるものかと思われる。」(三大秘法義560)と仰せになられております。すなわちこれは日淳上人仰せの「大聖人は広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられるその戒壇を本門の戒壇と仰せられましたことは三大秘法鈔によって明白であります。」(日淳上人全集1039)との御指南と些かも変わらないものと捉えますが如何でしょうか?

      要は御宗門に於ける御遺命の戒壇の定義は変わっていませんが、顕正会主張の国家意志の表明と評する「国家を有情とみなしての考え方」が間違っているということなのです。国家的スケールの戒壇建立というのは御宗門も否定は一切しておりません。

      ご理解が難しいようならば実際にお会いしてご説明しても構いませんので、その節はメールフォームを使ってご連絡くださいませ。

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