日達上人が戒壇建立の御遺命を一旦表から引っ込めた正当性を論証する記事を書いていたのだが、昨日Twitterにてデタラメオヤジさんが鋭い突っ込みを入れていたとのことで、それに関して本日は記事を書いてみたく思う。
オヤジさんのツイート
昨日のオヤジさんのツイートはこれ
ここで存在感を示すチャンスが来た。この際学会と国立戒壇で勝負が出来ないかな。出し抜かすことができれば俺に風が吹く。よーし「国立戒壇」を押すぞ。あれ、タンカを切ってみたけど効き目が悪いな。ならばもう少し押し捲るかー。あーあ、解散処分になってしまった。この際行くところまで行くか
— デタラメオヤジ (@bakaaitenisezu3) January 23, 2021
顕正会員にとっては単なる悪口にしか映らないだろうが実はそうではない…。
昭和47年の10月から破門される昭和49年迄の妙信講の動きというのは端的に言ってしまえばオヤジさんの仰る通りなのである。
確かに浅井氏は「戒壇建立の御遺命を護るため。」との大義名分を掲げてはいたが、戒壇論に関しては昭和47年9月にて決着は既に付いており、「御遺命を護る」もへったくれも無いのである。
されば何が当時の妙信講の論点であったのかといえば、戒壇建立の御遺命を表舞台から引っ込めて蔵の中に一旦おしまい申し上げるという日達上人の御判断に対して浅井氏は異議を唱えたのである。
まぁこれ自体が信徒として絶対にやってはいけないことなのだが、その行動の真の目的は学会員を妙信講に引き抜くという所にあったと強く感じる…。そしてこれもまた日蓮正宗の信徒団体としては絶対にやってはいけないことなのである。
これらの御法度を立て続けにやらかし、再三の御宗門からの注意にも耳を貸さずに暴走したがゆえに浅井氏はじめ妙信講は破門という結果を自ら招いてしまったわけである。
破門後は何だかんだと戒壇論にかこつけてイチャモンをつけてくるわけだが、テメエで蒔いた種だろうがブゥワ~~~カ!と私は常に感じている次第である。
とりあえずこれを読め!話はそれからだ(笑)
とにかく顕正会員は戒壇論の解釈の違いで首を切られたと思い込んでいるがそれは違う。
戒壇論とは全く無関係な理由で浅井氏はじめ妙信講員は首を切られたのである。
ゆえに顕正会との対論で戒壇に関して論ずる必要性は微塵も無い。
戒壇論で相手をするということはプロレスの場外乱闘をしているのと同じ類なのである。そこでいくら相手をボコボコにしてもそれで勝ちになるわけではない。本当に顕正会の息の根を止めるならばリング上でねじ伏せてスリーカウント取るしかないのである。
そのためには浅井が首を切られた本当の理由を徹底的に攻めあげるべきであろう。
以下はトチロ~氏が以前にアップした記事であるが、ここに全ては説かれている。
次回はこの記事を前提にして少し詳しく述べてみたいと思う。
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