天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察

日達上人御指南

 

 

               昭和四十五年六月二十八日
                  富士学林研究科の砌 

 

 私が話をする前に、ちょっとこのことでみなさんに申し上げておきたいと思います。

 

 日興上人の『遺誡置文』の中の

  時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之れを用うべからざる事。(法主全書一―九八)

 これをとって、私が己義を構えているようなことばかり言う人がありますし、それをまた信者の人でまねをして言う人がある。

 

 過日は、高知の大乗寺の檀家で総代であったなんとかという者が、一生懸命にこれを書いて、人のところへ手紙を寄こす。大乗寺の事件において私は己義を構えたことなんか少しもない。それを「己義を構えた、己義を構えた」と言ってますね。これについて少し説明したいと思います。

 

 私は自分で勝手に己義を構えて勉強しているわけではないのです。やはり若いときは日亨上人について勉強もしたし、日開上人について勉強もしてるんです。決して己義を構えてかってなことを言いたいほうだいに言っているのではない。

 

 その前に、

  下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
                      (法主全書一―九八)

 これに対して、そのあとに、

  衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。
                      (法主全書一―九九)
とあります。

 

 それで、「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えたならば、」さきほど誰かが言ったが、構えたか構えないかは誰が判断するんだということになるんですね。そうすると、すぐに、「御書によってだ、」あるいは、「先師のおことばによって、」となる。じゃあ、先師のおことば、あるいは御書に相違しているかは誰が見つけるかということになる。そこで問題です。御書はあるにきまっているので、これは鏡です。憲法があって、悪いことをしたとする。それは憲法があるからと言ったってただそれだけでは仕方がないでしょう。悪いことをしたから、その憲法に照らしてどのくらい悪いかを調べるのが裁判官である。だから、現に泥棒がいてつかまったって、これは容疑者としてつかまえているのであって、はじめから、これはこういうことをしたというのではない。裁判にかけてこそ、はじめてこれは泥棒であったとか、こういうことをしたからこれだけの罪があるとかというのである。御書があるといったって、御書と貫首の言ったことを誰がそれを裁判するのか。末寺の住職が裁判する、とここに書いてあればよい。あるいは隠居さんがしろ、と書いてあればよい。しかし、何もないじゃないですか。ところがこっちにはあるでしょう。「下劣の者たりと雖も我より」と、ちゃんとあきらかに第一人称がある。「我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事」自分より勝れている者は、たとえ下劣の者たりといえども、師匠としなさい。こちらもそうです。「衆議たりと雖も仏法に相違あらば貫首之を摧くべき事」と明らかに第一人称があります。ところがこれはないでしょう。ないにもかかわらず、すぐ貫首が己義を構えた、なんてとんでもないことを言ってるわけで、これは少し考えてもらいたい。

 

 これの意味は、「貫首であっても、仏法に相違して己義を構えるそういう者を用いてはいけない」というんです。貫首は誰を用いてもいいんだ、誰でも用いられる。どういう役にでも、あるいは自分の補処にでも、何にでもできる。しかし、仏法に相違して己義を構えた者はこれを用いてはいけないと書いてあるんです。だから、ぜんぜん話が違う。それを、ただ、貫首が仏法に相違したからこれを用うべからずなどと、何を言うんだかさっぱりわからない。これはよく考えてくれなければ困る。そういう解釈がちゃんとある。一つはふつうに今まで言ったとおりにしてもいちおうは通るにしても、もうひとつ深い意味があるということを考えてもらいたい。その例があるでしょう。

 

 今、聖教新聞の人間革命によく出ている小笠原慈聞がそうじゃないですか。小笠原慈聞がはじめ処分された。処分されてまだ処分の期限が切れないのに、あれを採用してしまったんです。それだからあんな事件が起きてしまった。だから、神本仏迹などという、仏法に相違して、己義を構えた者は、これを用いてはいけないのである。それをかまわず用いたからああいう事件が起きた。ちゃんといい実例がある。これをよく考えてもらいたい。

 

 では、さきほどの論者のことについて少々論じてみます。永済房のは、私の意見をとって別にこれということはないと思います。

 

 で、今、お二方の戒壇論に対して、お二方は、私と次元が違う点において論じられているんです。先ほど、総監が質問したとおりですね、ぜんぜん次元が違うんです。ただ、お二方とも、三大秘法抄ならびに一期弘法抄でいうところの戒壇を論じてるんです。私はそこまで言ってないんです。今の現在の正本堂は、現時において事の戒壇であるから、これを大事にし、ここにおいて即身成仏の本懐を遂げなければならない。三秘抄や一期弘法抄の戒壇は、未来に属していることである。今それを、ああでもない、こうでもないと言ってもしょうのないことである。

 

 だから、それは言わない。だから、私は常に言うとおりに今日を完成して、今日をはっきりつくりあげて、そして、明日を開く。今、我々がここにおいて、戒壇の御本尊において信行し、そして広宣流布にはげみ、そして未来に及んでいって、未来の三秘抄の戒壇に及べばいいんです。別に私は、四月の時からでも、いつも、三大秘法抄の戒壇を非難したこともないし、論じたこともない。現在を言ってるんです。現在を言うことが未来に渡るんです。三時異なることなし。現在において、未来もそこに含んでいる。それを現在を忘れてしまって、現在の戒壇が理の戒壇だ、義理の戒壇だからと言ったら、なにも本山までお詣りに来ることはない。本山に誰も来るなということになってしまう。そうじゃないでしょう。現在の戒壇が、事の戒壇であるからして一生懸命に拝んでこそ即身成仏の本懐を遂げられるということは、もう私の戒壇論に何回も言ってるはずなんです。それをよく読んでいただければわかるんです。それをどう勘違いしてるのか、己義を構えているようなことを述べられるのは、まことに残念です。

 

 直道房、あなたのおっしゃっていることは充分わかっています。けれども、今ここで余分に言う必要はないけれども、広宣流布ということは法華経から出ている。薬王品に令法久住のために広宣流布という言葉が出てきて、ただ、御書に、いちおう、権大乗を広宣流布した後は、実大乗の広宣流布があると、こういわれてますね。それは、四重の興廃のごとく、迹門が立てば爾前が亡びる、本門が出れば迹門が亡びる。その意味でただ広宣流布ということばを使われたに過ぎないので、それは、この間、お手紙をあげたとおりにおわかりだろうと思う。だから、そのことを言っておるのではない。今の戒壇の考えも、あなた方は、最後のりっぱな戒壇を論じておられる。ありがたい話です。しかし、私はそれをいっているのではない。現時をいっているのです。

 

 では、先ほどの諦量房のお説法のうちに、「末法万年の事の戒壇、天母原」ということは、雪山書房のどっかにあるが、これは誰が書いたかわからんというから、これは消しちゃって。

 

 それから、奏聞ということがありますね。五人が、「先師何れの国、何れの所とも之れを定め置かれず」というのに対して、日興上人が、富士山の名前をとって奏聞したということを言ってますね。ところが、これを、諦量房は、幕府あるいは朝廷へ奏聞したんだとこう言いますね。私は、これは大聖人に奏聞したと解釈します。ことばの字義からいけば、奏聞というのは、上の人へやるんだけれども、大聖人はこの時は亡くなっておられる。だから、仏として、その仏に、大聖人様に奏聞したと取って差しつかえないと思う。また、これは、五人が「大聖人様は言われないぞ」という質問をしたのに対して、よそに奏聞したなんて言ったってなんの役にも立たないでしょう。だから、大聖人様に奏聞したというのは、これは順当な解釈だろうと私は思います。

 

 それで、大聖人様に奏聞して、それがゆえに、一期弘法抄において、「富士山」という名前が出てきたと、こう解釈するんです。これは私の解釈ではありません。先師の説法にもそう言っております。

 

 それから、「国立については本宗では言わない、」ということは、国立という言葉が現在不適当だというからして、「今後言わない」というだけのことであって、なにも国立という精神の、国立ということばは王立でもよい、そういう精神の戒壇を立つとか立たないとか、そんなことは論じてない。私は「言葉」「名称」と言ってます。国立という名称は、現在不適当だから今後言わない。私は、今後言わないということを五月三日に言った。三年、四年前に、国立と言ったからといって、それを非難したって、どうも私は責任持てません。今後言わないと言ったんですから。

 

 それから、淳師のことをおっしゃってますね。淳師が国立であるとおっしゃっていたと。北尾日大との論争において、民衆ということは言わないと。あれは、終戦前、昭和四年か五年の国家の盛んな時代の時のことで、今の終戦後の思想とちょっと違ってきておる。今、これを論じても仕方ないですね。先ほど、永済房が言った論争もそうです。そのとおりだと思います。

 

 それから、先ほどの紫宸殿の御本尊ですね。先ほどちょっと申し上げました。それは、現在となれば富士門徒の大石寺の理想である。願望である。そういうりっぱなところへ納まればりっぱであると。そういうわけで紫宸殿の御本尊と今でも申し上げておりまして、別に私がつくったことでもないし、また、大聖人様がそうおっしゃったわけでもない。先ほど言ったところのような名称になってきておるんです。

 

 それから、諦量房が、大聖人様が広布が早く来ることを願われていると。早く来ることを願われているというのは、これは、またちょっと語弊がありますね。「今、日蓮が時盛んに広宣流布するなり」とおっしゃっている。今、やっているのである。早く来ることを願っているというわけではない。今現在もある程度広宣流布、未来も広宣流布。これを、学会の会長が「時の流れ」ととった。それを非難する人があるけれども、必ずしも、非難する必要はないと思う。「流布」なんだから。「流布」ということは「流れ」なんです。それを、一方の言葉尻を捉えて非難したって、これははじまらないと思います。

 

 王仏冥合に対して。王仏冥合は「王法仏法に興じ仏法王法に合して」とのおことばである。それを、仏法をもって、仏法が政治をし、仏法が社会に立ってやるからいけないというんです。なにも、政治・社会・実業そういうものに対して、仏法の精神をもってそういう人が働くのは結構なんです。仏法そのものをもってやれば非常に弊害があるからいけないというんですね。王仏冥合という言葉はもっともっと深いんです。仏法は体のごとく、世法は影のごとし、と、もっと深いんです。もっと精神をもっていかなければならない。その精神といえば、いろいろ考えられますね。「是法住法位世間相常住」と。この法華経をちゃんと第一義として持ち、みんなが信心されれば世間の姿もりっぱに備わっていく。これが王仏冥合のりっぱな姿じゃないですか。ただいきなり仏法そのものをもって世法をやろう。どこか、よその国みたいに、右手に剣を持ち、左手にコーランを持って、信心をしなければ殺すぞというような、そういうやり方じゃあいけないから、まちがえやすいというだけのことなんです。この仏法の信心を持っておるりっぱな人が、政治をやるのは結構なことなんです。そういう点が、今の社会の人と違うのである。

 

 学会が折伏をやらないと言ったからといって、非難していても、諦量房がちょっと言ったけれども、やるやらないは、その時の人々の統制上、今しばらく休んでいようと言ったって、それを我々が非難することもないし、別にちっともおかしくないですね。

 

 それから、今の直道房のお話。私はただ国立の名称を使用しないと言っただけですね。国主ということは言っておるけれども天皇陛下とは決して言ってないですね。先程、永済房が言ったとおり。だから、それはその時の時代によるということは永済房も言っておる。

 

 直道房、あなたを指してばかりではなくて、ここでは一般に言ってるんです。だから、ただ天皇ということを言わないから、といっては困る。大聖人様も「仏陀は既に仏法を王法に附し給う。しかれば聖人賢人なる智者なれども王にしたがはざれば仏法流布せず」と言っておられる。「或は後には流布すれども始には必ず大難来る」(四条金吾殿御返事・新定一―八八七)と、こう言われてます。必ずしもその国の国王によってのみ仏法が広まるとは言っておりません。国王によらずとも仏法は広まるということをちゃんとおっしゃっております。そういう点もここにあるということを申しております。妙蓮寺文書の四菩薩のことは、あとで説明します。

 

 それから、本門の寺。「本門寺」じゃなくて「本門の寺」と読むと。それはまあ直道房の説で、それはそれで私がいけないとか、良いとかということもありません。ただ、本門の寺というとばく然としてしまいますね。次に上行院ということも出てくる。上行院は本門の寺ではないのか、ということになったらおかしいことになるから、やっぱり本門寺は本門寺というべきでしょう。先師方も「本門寺と号す」と言われている。だから「の」を入れるか入れないかだけれども、ちょっとそれは、今ここで良いとも悪いともはっきり申し上げかねます。

 

 先ほど、民衆立ということは有り得ない。民衆立ということは、御書の明文をもって知らせよと、まあ口がすべったんだかどうかわかりませんが、そうおっしゃったように聞いたけれども。それなら、天皇が戒壇を建立せよと言ったことは御書のどこにあるかということと同じことになりますから、これはまあやめておきましょう。

 

 誰れかここにいた二、三人が大日蓮へ、正本堂を事の戒壇と、また、広布の時至るかと言われたと非難されますがそれはそれでいいと思います。今の正本堂が事の戒壇と私は申している。今、現時においての広宣流布の姿と、こう言われても私は別に非難することもないと思う。その入の考えが、現時はもう広宣流布に入ってるんだ、ある程度広宣流布まで行ってるんだ、この時点において正本堂を事の戒壇として拝すると、こういうふうに解釈してその入が論文を出されたからといって、私は差しつかえないと思う。

 

(前川慈肇師=奏聞という言葉をもう少しご説明して下さい)

 

 それは生きていらっしゃった時に申し上げたことを、亡くなられた後にみんなにこれを論じてるんですから、あの時に奏聞したんだよとおっしゃって差しつかえないと。奏聞という言葉を使って差しつかえないと思います。とにかく、大聖人様に申し上げたというだけのはなしです。三大秘法抄の時にはない、だから、五人の人が先師はどことも言ってないじゃないかと言ったのに対して、だから自分はそれについて富士山が一番いいと申し上げた、奏聞した。だから結局、その後の一期弘法抄には富士山と仰せられたと、こういうような順序がいちばんいいんではないかと私は解釈した。先師もそう解釈しておりました。

 

 私はさきほど差しあげた資料について述べてみたいと思います。

 

 この天生原、天生山、六万坊と、こういう名称がたくさん出てきます。これをどういうふうに会通していったら良いかということを、一考察として今日述べてみたいと思うのであります。

 

 まず、いちばん古い文献としますれば、『百六箇抄』の附文、これにまず

  四大菩薩同心して六万坊を建立せしめよ。(新定三―二七一八)

と附文にあります。その前の百六箇の本文の四十三に、

  下種の弘通戒壇実勝の本迹。三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。(新定三―二七二二)

と、こう書いてありますね。で、百六箇の附文は、弘安三年正月十一日におけるおことばが百六箇ですね。その後に付いている文がもし偽書ならば聖典に書かなければいいじゃないかと言います。だから、そのために、これは段を設けて下へ書いてあります。字も小さくして一段下げて書いてあるわけです。これは前の本因妙抄を論じた時にもこれをその意味で言っておいたはずです。

 

 これを見てもわかるとおり、ちゃんと段を小さくして、その前にちゃんと年月があってですね。

 

  弘安三年庚辰正月十一日 南無妙法蓮華経南無霊山浄土久遠実成多宝塔中大牟尼尊 上行菩薩日蓮日興に之れを授与す。(新定三―二七一八)

 

と、はっきりそこで切れている。その次は、結成口決、後の人が受けついで、後の人がまたそれを解釈して、次の人に勝手に告げて言った。ここが問題ですね。

 

 だから、これは恐らくは日尊師です。この百六箇は尊師が持って京都へ行ったのですから。尊師が亡くなったのは弘安三年(一二八〇)から六十二年後の興国三年(一三四二)ですが、この年に尊師が日大・日頼に百六箇を相伝しております。その時に口決としてこういうことばがつけ加えられたと思うんです。その中には非常に不思議なことばがたくさんあります。まずその中の一、二をとってみますと、「鎌倉殿より十万貫の御寄進有りしを縁として」(富要一―二二)大聖人様は身延へ入ったとあります。そんなばかなことは考えられないです。大聖人様は三度諫めて聞かないから身延へ入るという御書はいくらもある。それなのに鎌倉から十万貫文もらったと。どうもあまり大聖人をばかにしすぎてますね。

 

 それから、その次にもずっとあるけれども、その次の「大将の日蓮をも見失いけり。日興日朗なくば某が大陣もあやうく見えけん」、なんていうのはおかしいですね。「日興先をかくれば無辺行菩薩か、日朗後にひかうれば安立行菩薩か、日蓮大将なれば上行菩薩か、日目は毎度幡さしなれば浄行菩薩か。又新田卿公日目は」、ここがおかしいです。「日目は新所建立と云い」と。日目上人の新所建立は弘安七年ですね、弘安七年以後でしょう。もし、弘安三年とするならば、弘安七年以後のことがここに出るわけがない。そういうところがおかしいから、おかしいと言ってるんですね。後から出できたことがはっきりとしてます。

 

 それからまた、この妙蓮寺にある「四大菩薩同心して六万坊を建立せよ」と。第一のことばが後になって出てきている。だから、妙蓮寺所蔵の広宣流布中四菩薩出現の事というのは、結局、この百六箇の附文の、「又広宣流布の日は上行菩薩は大賢臣となり、無辺行菩薩は大賢王となり」おかしいでしょう。上行菩薩の日蓮大聖人が賢臣となってしまって、お弟子の無辺行菩薩が大賢王となってしまう。こういうところもちょっとおかしいですね。まあ、我々の大石寺流の考えではないということが分る。これに、その四大菩薩同心して六万坊建立ということばが出てきます。この六万坊ということは大聖人様の時代にはない。後のことだということがはっきりしております。また、この六万坊のことは後に出できます。

 

 それから、その次に、大石寺棟札の裏書きというのが出てきます。これは正応四年となってます。表は御本尊様で、これは論ずることはやめます。

 

  「本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑寅之勤行無怠慢可待広宣流布、国主被立此法時者当国於天母原三堂并六万坊可為造営者也。」

 

と、こうありますね。「自正応二年至三年成功 正応四年三月十二日」と、こうなっている。そのこっちにまた、「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺 領主南条修理太夫平時光法号大行之寄附也」こうなってますね。これが一番古い書物に出てるということに言われるんですが、これもちょっと考えなければいけない。これは第一、丑寅勤行について、「日興跡条々事」に、「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(法主全書一―九六)とありますね。それと同じようだけれど非常にイメージが違ってます。「日興跡条々事」は元徳二年でしょう。これよりも約四十年も前にこれがあったということになる。おかしいです。とにかくまた書く字もおかしいですね。この日興という字もおかしいでしょ。日興上人は「日●」とこうお書きになっているんですね。ところがこれにはもう一つ多い、一つ二つ三つ四つ五つ「日●」とこうなっている。そういうところがおかしいし、また、「日興日目等」というこの文句が少しおかしいですね。もしお書きになるなら、自分が書くんだから、「日目」でいいんですよ。今の譲状と同じことです。「御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し」だから、「日目等代々加修理」というのなら分かるけれども、自分の名前を「日興日目」と書く必要はない。

 

 それから丑寅ですね。昔は丑寅とはっきり書いたものです。これには「丑とら」と書いてある。これが徳川時代の特長。字もよく見れば、お家流といいますか、非常に字がなだらかに書かれている。日興上人の字とは見られない。だから、それからいくと、この「当国」これもどうも信用できない。もし、大石寺が正応三年十月十三日に完成したのならその時に棟札を入れるわけでしょ。それから半年も後の正応四年三月十二日、これもちょっとおかしくなってきますね。

 

 それよりもっとおかしいのはこれです。「駿河国富士上野郷内大石原一宇草創以地名号大石寺」これはいいです。「領主南条修理大夫」南条さんが修理大夫という名称をいつもらったのか、おかしいですね。それから「法号大行」これは法号となっている。もし、この時にそういう法号があったならば、南条さんはこの時三十三歳、三十三歳で法号大行なんていただくのはちょっと早すぎますね。

 

 「寄附也」これもおかしい。鎌倉時代なら「寄進」と使うわけですね。「寄進状と」か「寄進」、これは「寄附」となっている。この点も変です。

 

 今、この修理太夫ということは、よく調べれば、それは大昔からあるんですね。修理太夫という名称は、群書類従に出てきます。群書類従に寛平年間(寛平四年、八九二)ですから、この時代から四百年、五百年も前に、在原友子が修理太夫をもらっている。

 

 この時代では、南条さんの主人筋の北条さん、北条執権第十五代の北条貞顕ですら修理権太夫であったのですね。それを家来すじの南条さんが修理太夫というのはおかしい話です。修理というのはお城を修繕する役、太夫はその長官。だから、まあ、この時分にはただ名称だけになったかも知れないけれど、それにしてもその長官という名前をもらうことはおかしいし、また、現にその時代の北条時政の子時房ですら修理権太夫となっている。「権」の字がついておる。そういう点からいっても、これは後から出来たものと思うのである。御伝土代ですら南条次郎左衛門時光、左衛門です。修理太夫という名前じゃない。父は南条七郎兵衛ということになってますね。

 

 その南条左衛門時光という名前は延慶年間でも南条左衛門時光となっていて大行などとは言っておりません。南条修理太夫という名前はどこから出たかというと、私がちょっと調べたところが、大石寺明細誌に出てきてますね。大石寺明細誌はずっと新しいですね。文政六年、日量上人がお書きになった「大石寺明細誌」に「同二年己丑春南条七郎修理太夫平時光の請に応じて駿州富士郡上野郷に移る、今の下之坊なり」(富要五―三二一)と、これは大石寺明細誌です。さきほどの明細誌はいつかという問題はこれがいちばん古いんでしょ。日量上人の文政六年(一八二三)だからずっと後のこと、徳川時代でもずっと後、今から百五十年前くらいにできております。だからそれからみると、あるいはもう少し古いというかも知れないけれど、とにかく徳川中期以後にこれが出来たと思います。

 

 だから、ここにあるところの「天母原三堂并六万坊」という言葉は昔からあるもんじゃない。もっと後のものだということがわかります。

 

 それから、法号大行という名前ですね。法号大行という名前はもっとずっとおそいですね。こんな正応四年の時分にはなかった。正和五年に初めて時光が大行といってます。正和五年の南条さんの譲状に「沙弥大行」という名前が初めて出てきてます。だからずっとおそいことです。だからこの六万坊という話は昔のものではないということがわかるのであります。その時は南条さんは五十八歳ですかね、正和の時は。少なくとも五十四歳か五十八歳です。五十いくつかにならなければ自分の法号なんかもらうわけもないし、また、自分でつけるわけもない。

 

 それから、堀猊下もこれを論じておりました。私はこの文章から言いますけれど、堀猊下はこの字体から言っております。「この小本尊を模刻して薄き松板に裏に御家流のやや豊かなるふうにて薬研彫りにせるも文句は全く棟札の例にあらず。また、表面の本尊も略の本尊式なるのみにて、又棟札の意味なし、ただ頭を角に切りで縁をつけたることのみ棟札らし」、このお家流というのは、すなわち徳川時代という意味です。「石田博士も余と同意見なり」、石田博士というのは石田茂作さんのことです。石田茂作博士も同意見だ、徳川時代のものと、こうはっきり書いております。だからこれは信用することはないと。

 

 次に、日興上人滅後十六年、三位日順が『本門心底抄』に、

 

  戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。(富要二―三四)

 

 これですね。これが「戒壇の方面は」これはふたとおり考えられます。簡単に「地形によれ」、天母山みたいなああいう地形によれというように簡単に考えてしまっては困る。方面と地形、方面というのは、「それについて」という意味がとれます。普通は「それについて」「戒壇については地形によれ」とこう解釈できます。もう一つあります、それは「戒壇の方面」ということは「四角」という意味です。四角あるいは六角でもいい、そういう形を言っておる。地形(ちけい)は地形(ちぎょう)である、地形(ちぎょう)と言いますね、今、地形(ちぎょう)とも読める、地形(ちぎょう)です。こう土地をならしたりどうとかする、そういう地形によらなきゃならん、こういうふうにもとれる。そういう場合には全部智臣、大徳寄って相談せよ。だから「寸尺高下」と言ったわけですね。段をいくだんにしろとか、あるいは低くしろ、高くしろ、そういうことは注記できない。「兼日の治定」前々もってそういうことを相談するということは、定めることは、後難があるから、そういうことは言えない。と、こうもとれる。またあとで出てきますけれどもいちおうそういう解釈もある、ということを考えてもらいたい。ただ方面によって、あっちの方だ、こっちの方だ、そういう格好はあっちの格好による、こっちの格好によるというだけじゃない。その物体によってですね、建物によっても、こういう意味があるんだ、と、こういう解釈もある。

 

 だから、戒壇の場所は富士山であって、それでいいわけです。そのほかのことはどことも言ってないです。富士山ということは言っているけれども天母山とは言ってない。また六万坊のことはここにはまだない、古いから。

 

 それから、その後、本是院日叶の『百五十箇条』の八十四に、

 

  答テ曰ク、此戒院は広宣流布の時御崇敬有り、最も六万坊を建立有るべしと。(富要二―二二〇)

 

 はじめてここで正式に六万坊というのが出てきたわけです。それはこの人は京都の要法寺系の人である。出雲に生れて要法寺系の人である。だから、日大、日頼、これらの説をだんだん継いできておることがはっきりしています。だから、この人がはじめて富士へ来て、これを申した。本是院日叶、これは昨年だか一昨年だか、本是院日叶と左京日教との同人か異人かということで話し合ってみました。で、異人とも同人ともはっきり言えませんが、いちおう名前が二つあるんだから二つ使い分けておきます。京都要法寺の十六代、住本寺の十代の日広という人の代理として、幕府へ諫言状を上げた人である。だから百六箇を相伝したことはっきりしているだろうと思う。その百六箇の附文にあるところの「六万坊を建立」という言葉をここにもってきたんじゃないかと思うのであります。

 

 それから次に左京日教ですね。左京日教が「当家には本門の戒壇院」(富要二―三二三)と言っておる。その次に、「下種の弘通の戒壇実勝の本迹」、これは百六箇をここに引いているようです。「富士山本門寺の本堂なり」それから、「下種の戒躰の本迹」これも百六箇です。その次が、「天生カ原に六万坊を立て法華本門の戒壇を立つべきなり。六万坊と申せばとて六万多に非ず、一己独に非ず、只表示の釈なれば一人也とも正信ならば六万坊建立に成るべきなり。」と、こう言ってますね。で、「天台の釈の意なり。」と、こう次に書いてあります。天台の釈の意というのは円融の義です。円融の義だから、たとえ一箇所でも六万坊といえるという意味なんです。だから六万坊全部たくさん建てろという意味でもない、とここでは言っているんですね。これは円融の義をとってますから、だから「天台の釈の意」と言ってます。叡山では「叡山塔中三千坊」というとおり、そんなに三千坊の寺はなかったと思います。だけど三千坊と言っております。それと同じです。本山においても一つの塔を建てて六万塔と言っております。それは宝永年間(一七〇四)に御影堂の裏に六万塔が建っております。それは上行菩薩等の四菩薩の名前を出している。真ん中に宗祖日蓮大聖人と書いて四菩薩の名前をあげた塔があります。これはその当時の法華講が立てたもので、たったひとつでもこれを六万塔といっております。そうすると、必ずしも六万坊といっても六万がそのまま建つと考えることはできません。

 

 また、この「類聚翰集私」に、「此の法華経の名字の戒壇を立るならば」、名字の妙法ですから、戒壇を建つるならば、「日本乃至漢土月氏。一閻浮提。人毎に有智無智を嫌わず一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(富要二―三二五)。日本乃至漢土、月氏、一閻浮提と言ってますね。全部の世界の人が南無妙法蓮華経、それが名字の戒壇を建てるのである、建てる時であると。さらに「三秘抄」を引用して説いておる。それで、「私に云く」と、これはやっぱり日教のことばです。

 

  霊山浄土に似たらん最勝の地は南閻浮提第一の山・駿州富士郡の大日蓮華山・先師自然の名号有る山の麓・天生(あもう)ノ原に六万坊建立有るべし差図の様を付属の事。(富要二―二五〇)



これは日教が自分で言ってるんですよ。決して他からきているわけではない、自分でこう言ってる。これは日教がやはり富士へ来た人ですから、富士へ来て富士の偉大なる所を見て、そこでこう感じてこう述べたんだろうと思うのであります。

 

 で、その次にそれから六十八年ばかり後に、京都の要法寺に日辰が出ました。日辰が出て、日辰が報恩抄の下ですね。日辰が日耀とともに重須に来たのが弘治二年(一五五六年、富士年表による)それから大石寺久成坊日悦を七月八日に訪れております。その後国へ帰った。さらに永禄元年十月一日、一五五八年ですから二年ばかり後に再度重須へ来た。そしてその時に一、二年重須に滞在しております。その時に、この前々からあるところの六万坊の説、天生原のこういうことを考えて、非常に雄大なる富士山の麓を見ていったんだと思います。それは日辰の『御書抄』に、報恩抄下、(一五六七年前後)、

 

  二ハ日本一同ニ順縁ノ広宣流布ノ時上行等ノ四菩薩国王国母大臣導師ト成テ寿量ノ妙法ヲ弘通シ玉フ時富士山ノ西南ニ当タリテ山名ハ天生山ト号ス此ノ上ニ於本門寺ノ本堂御影堂ヲ建立シ岩本坂ニ於テ二王門ヲ立テ六万坊ヲ建立シ玉フベキ時彼山於戒壇院ヲ建立シテ日本僧俗戒壇ヲ踏可事ヲ富士山本門寺ノ戒壇ハ云云

 

こういういうことばがはじめて日辰から出てきた。天生山ということばが出てきたのであります。だから天生山ということばは日辰が作った。まあそれ以前にあの山が天生山と言われたか言われないか、それはまだわからないが、おそらく名前がなかったんでしょう。

 

 しかも、岩本実相寺のあそこの坂に二王門を造ると。それはまあ雄大な考えですね。その間に六万坊を建立するというのだから雄大過ぎて困るけれども、非常に雄大だ。だけどこれは造像すなわち釈尊の像を中心として考えているので、だから岩本坂に二王門ということを言っておる。これは我々のいうところの本門戒壇御本尊中心の戒壇と違うんじゃないかと思われる。

 

 それを今度は、その後百四十年ばかり後に、日寛上人がそれをとって、『報恩抄文段』に、

 

  次ニ事ノ戒壇ト者即富士山天生原ニ戒壇堂ヲ建立スル也、御相承ヲ引テ云ク、日蓮一期弘法白蓮阿闍梨日興ニ之ヲ付属ス本門弘通ノ大導師為可国主此法ヲ立テ被レハ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セ被ル可シ時ヲ待ツ可キ耳事ノ戒法ト云フハ是也云云。(富要四―三七〇)

 

と、この「一期弘法抄」を引いて、これには「天生原」と、はっきり「山」とは言ってない。「天生原」と、この寛師の報恩抄文段には引いております。寛師は享保七年の時にはりっぱな方になったけれども、その前に勉強してますね。その時に寛師の抜き書きがあります。「本門心底抄」の抜き書きです。これは享保七年より前の勉強中です。この安置仏のことが出てますね。その後に、

 

  又相伝の富士天生原に於いて戒壇を建つ、岩本の実相寺に於いて総門を建つ、若し

 

こうなってますね。こういうふうに寛師はとっております。それで今、心底抄の日順さんの説の、今の日順師が戒壇の方面は不明である、地形に随うということは不明である。不明ということはどこまでも不明のことである。「地形に随うべし、何ぞ地形に随うや、」と。これは更に検するとなっていますね。なるほど心底抄にはこうあると。自分は、一往富士山天生原に戒壇を建てて岩本の実相寺に総門を建てるんだ。だけれども心底抄にはこうあると。今の戒壇の方面は不明である。地形に随うべしとある。これは更に考えようとなってます。決して否定しているんじゃない。自分がいま相伝して、相伝にはこの天生原ということがある。だけれども、もっと古い心底抄を見れば戒壇の方面は地形に随えという先ほどの話、だから更に勉強しなけりゃならんということをおっしゃっております。だから、この相伝ですね。今の報恩抄文段においてです、又どうして相伝と言われたかという問題が出ます。もし日興上人や日目上人等にそういう天生原とか天生山という相伝があるかということはないはずでしょう。それなのに日寛上人がここで相伝といった、というのは、日寛上人よりも前の十五代日昌上人がさきほど申したとおりに、京都の要法寺から来ております。そのためにこの戒壇説というものが京都の要法寺から入ってきておる。十五世日昌上人、それから日就上人、日精上人、日盈上人、日舜上人、日典上人、日忍上人、日俊上人、日啓上人、これですね。すなわち日昌上人はさきほどの日辰について勉強した人です。それから日就上人は要法寺の系統から来た人で要法寺の日シュウの弟子。それから日精上人もやはり要法寺の日瑤の弟子。それから日盈上人、この方だけが比叡山系。それから日舜上人が要法寺で出家した人、のちに日精上人に就いた。日典上人が要法寺日恩の弟子。それから日忍上人が要法寺において出家した人。それから日俊上人が要法寺日詮の弟子。それから日啓上人が要法寺二十八代日祐の弟子。それから日永上人がはじめて本山、この上野の人。しかし日典上人について学んだ。要法寺系の日典上人について勉強してます。こういうふうになってきています。それから日宥上人、日寛上人となる。この辺からほとんど要法寺系統の法門がはいって来ちゃって、それでこの時に、今の六万坊とか天生原、天生山という説が伝わってきた。それが相伝となってきたということが明らかであります。

 

 この日寛上人の、同時代の日東上人は日寛上人の法弟です。日東上人が明らかにこうおっしゃってますね。『観心本尊抄聞書』、日寛上人の時の観心本尊抄の説明、説法にこれを引用しております。

 

  折伏を現ずる時は賢王となる文、日辰抄折伏に二あり、化儀と法体となり、化儀とは仙予国王の如く、その化儀に対して摂受と云うなり、この文は折伏を現ずる時は聖僧となってあるべき事なり文、反倒するや、然るにもとより逆縁広布と順縁広布の二あり、逆縁広布の時は涅槃経の如く刀杖を帯する也、順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、辰抄の如し。(教学書一二―五六二)

 

日辰のことばのごとしと。

 

 同じくその時代に会玄という人がいます。寛師の「観心本尊抄」の解釈を、日東上人の聞き書きを更にくわしく分けて、それにも同じことを言っております。

 

  順縁広布の時は富士山天生山ニ戒壇堂ヲ建立シ六万坊ヲ立テ岩本ニ二王門立等也尤辰抄如也云云。(教学書一四―一四四)

 

と、こう言っております。みな京都の要法寺系の法門をそのまま引いておるのであります。

 

 ただし、歴代上人は天生山とは言っておりません。天生原とは言ってますが。ただ一つ異例があります。それは三十五代日穏上人が「一期弘法抄」を引かれ、

 

  戒壇の地を富士の天生山に選び置き、板本尊及び戒壇堂の額御真筆あり。(富要四―ニ○五)

 

ということを書いております。これは意味ははっきりしませんね。「戒壇の地を天生山に撰び」それはまあ意味はわかる。次に、「撰び置き、板本尊」はいいです。「及び戒壇堂の額御真筆あり」これはちょっとおかしいですね。その次に、「次の五人の門弟叡山に入りて授戒せし僧ありと云えり、この源は五人の伝教を祖師と云えるによって誤るなり」、とこう結んでおります。だから、五人の方で勝手に天生山があって板御本尊も持っておる、あるいは戒壇堂の額も持っておるとこう言ったと。そのためにまた五人の人々は叡山に入って授戒したという僧あり、とも言ってると。だからこの源は五人が伝教を祖師と言った。天台の沙門と言った。そういうところから、こういう迷いが来たんだろうと言っておりますが、この文面がはっきりわかりません。また、真書が無いが、「要集に」出ております。だからその点はもう一ペんよく再検討しなけりゃなりませんが、どうもその意味は、戒壇堂の真筆があり、というところからくると、あまり信用ができないと思います。

 

 このほかに天生山という説法は、当山においてはほとんど見られないと思うのです。字は「天生ずる山」とか、あるいは「天母の山」とか、「天生ずる原」とか、「天母の原」と書くこともあります。生ずるは母なりと云うところから「天生」を「天母」と書くといわれます。

 

 それから、堀日亨上人が『日興上人詳伝』に六万坊のことについて述べております。

 

  六万坊の伝説、あまりにも空大すぎる。一閻浮提中心の仏都となりてもである。考うべきことなり。ある人は、いま現在の万坊が原をさして六万坊につきあわせるも、これはあまりにも狭少すぎて、一千坊すら建たざるべし。ただし、この伝説の根源となるべき古文献は、百六箇抄に挿入せられしもの等であろう。(詳伝二六七)

 

と、先に読んだ百六箇の附文の最後に六万坊という言葉が出てきた。それはそこで挿入された、あとから挿入された形で、そういう話が出たんだろうと堀猊下はおっしゃっております。

 

 だから、結局、六万坊ということばはもう言われない。とる必要はない。天生山という説も本宗においてはとっていない。ただ、天生原という説は寛師がとられてから代々言われております。そこにはまた特別な意味があると思います。

 

 で、なぜその時分ですね、寛師の前後において今言ったこういう言葉が、相伝だと間違えるほど、要法寺の法門がはいってきたかというと、もうほとんど御書もなにもみな日辰そのものの御書を使っておった。『富士年表』を見ればわかるとおりに。年表の一六八八年、元禄元年八月の項に、

 

  大石寺什物京都要法寺日辰筆写の御書全部を京要法寺に寄す。(富士年表上 一五〇)

 

ちゃんと出ております。これは年表の方々がみな考えてお書きになった。この元禄の時代になって、今まで大石寺にあった要法寺系の本をいちおうみんな返してやった。要法寺じゃ無くなってしまった。代々偉い住職がみなこっちの住職として来ちゃったんだから、みな持ってきたらしい。だからそれほど要法寺の法門が本山へはいってきてるんです。今の紫宸殿の御本尊という名称もそうです。非常に法門が、純粋の富士の法門から抜けていってきた、ということを考えなければならない。だから、どなたがおっしゃったからといって、あながちそのままとっていいというんじゃない。やはり、日興上人、日有上人。日有上人までは立派な本宗のご法門である。それをとって、よくかみわけて進んでいかなければならない。

 

 今、天生山という言葉を考えるとですね。いちおう、天生原という言葉を考えてみますと、字源からみるとき、これは『諸橋大漢和辞典』、それからみて、字源からみると、

 

 天とは一と大との合わしたもの、至高、最高という意味である。天のこと、至上最上、あるいは無上、いわゆる我々の見る天のこと。意義からいくと、自然、真、姓、尊きもの、至極無上、あるいは偉大、こういう意義がある。

 

 こんどは、生ずる。天生の生、これは字源からいくと、草が地上に芽を出していく姿、形をのっとっておる。これは、生く、生まる、起る、生けるもの、それから、育つ、育てる、また、民という意味も出てきますね。それから、道、蘇生する、こういう意味がある。

 

 それから、原、これは字源からいうと、これは岩ですね、岩の下に泉がある、これが原。だから、岩の下に泉があるのが原。この意味は、源、あるいはたずねる、すなわち根本を追求する、こういう意味が出てくる。こうなってくると諸君も気がつくでしょう。

 

 それで、『富士一跡門徒存知事』に

 

  本門寺を建つべき在所の事。日興が云わく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於いて本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り、国王此の法門を用いらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり。(法主全書一―二二)

 

と、この富士山という言葉ですね。それとこの天生原ということは、どう思い合せていかなければならないか。それからまた門徒存知事には「四神相応の勝地」ということが出てます。その四神相応の勝地とはすなわち大石カ原であります。これは日興上人詳伝にくわしく出てます。

 

 また、日精上人の『家中抄』の日興上人の伝をご覧になると、

 

  下之坊に移り住し給へり。爰に北にあたりて原あり大石ケ原と名く、此の所に臨んで見給ふに景気余所に勝れて南北際涯なし東西に高山をみ、前には田子の海を呑み、後ろ富士野にいたる景明かに目に満ち、一空の皓月千里光を浮べて下化衆生の粧ひ眼前なり。無明煩悩の塵労悉くして上求菩提の気自ら成す、然る可き勝地なりと御覧して此に寺を建立し給ふ。広布の気を発する迄異地に移すべからずとて、所を以って寺に名けて大石を以って号を建て板本尊並びに御骨を此所に安置し給へり。(富要五――一六四)

 

と、言っております。広宣流布の時になって、広宣流布の気ができるまで、異地に移しちゃいけない、ここは立派な所である、という意味のことをおっしゃっております。

 

 また、寛師の「法華取要抄文段」の内、三大秘法を明す中にも出ております。

  既ニ是レ富山ハ本尊所住之処ナリ豈此処ニ戒壇ヲ起テ不ン乎。(教学書九―一四三)

という言葉を引いております。

 

 『百六箇抄』に、

  三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。(新定三―二七二二)
とはっきり言っております。勝地、三大秘法建立、すなわち戒壇の御本尊を建つる勝地は富士山本門寺の本堂なり。

 

 日寛上人は『文底秘沈抄』に、

  本門戒壇所在の処を本門寺と号すべし。(学林版六巻抄二二一)
と、おっしゃっております。

 

 また、四十四代日宣上人は、ご説法に、(文政五年)

  大聖人の御魂たる本門戒壇の御本尊在します所が即ち是れ道場にして常寂光浄土なり、然れば即ち今は此の多宝富士大日蓮華山大石寺広宣流布の時には本門寺と号す。

 だから、大石寺を広宣流布の時には本門寺と号せと、なっておる。



この寺即ち霊山浄土なり。

こう出ております。

 

 大石寺の地形はすなわち四神相応の説に合っておるということは、堀猊下が日興上人詳伝に述べられております。

 

 すなわち、大石ケ原、ここが大石寺、それから北は玄武、すなわち千居の原。東は青竜、すなわち流れる、御塔川。西は白虎、大きい道、狩宿に至る道路。ここは七池(なないけ)、南は朱雀、七井戸。これは汚地。こうなってますね。

 

 これは、これをもって大石寺のこの境内から、この地方、大石ケ原はすなわち四神相応の地である。ということをあらわされておるのであります。

 

 日寛上人が、『法華取要抄文段』のところに富士山をあげてますね。その富士山の解釈に、第四番目、徐福が不死の薬を求めて、得られなくて帰ったと、それがうそではないというんですね。

 

  今謂ク是徐福之詐ニハ非後ニ応ニ不死ノ薬有故ニ自然ニ預メ蓬莱山ノ名ヲ立ル故也是則霊瑞感通シ嘉名早立スル也今ハ現ニ不死ノ薬有リ蓬莱山ノ名豈虚立ス可ン乎、問フ不死ノ薬今何処ニ在リ耶答テ云ク本門戒壇ノ本尊即是不死ノ薬也。(教学書九―一四四)

 

とおっしゃってますね。

 

  問フ証拠如何、答フ寿量品ニ云ク是好良薬今留在此等云云薬王品重テ之ヲ説ク云ク此経則為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死等云云是好良薬ハ本門ノ本尊也本門本尊豈不死ノ薬非耶是故ニ兼テ其処ヲ蓬莱山ト名ル也寧嘉名早立非耶。(教学書九―一四四)

 

すなわち、この戒壇の御本尊ましますがゆえに、ここを富士の山というとおおせになっております。

 

 そうしてみますと、さきほど申した天生原を考えてみるときに、無限の生命の源を表わしておるところである。これは詮じつめれば、十界本有常住事の一念三千人法一箇独一本門の戒壇の大御本尊を意味することであると拝することができるのであります。なんとなれば、天は無上無限最高であり、生は蘇生の義であり、原は根源である。また、妙とは蘇生の義であれば、生とは妙なり。よって天生原とは最高独一の妙法の原、すなわち本門戒壇の御本尊であります。

 

 寛師の「本門戒壇の本尊即ち是れ不死の薬なり」と言われるとおりであります。ゆえに、百六箇抄に「三箇の秘法建立の勝地は」と申され、「富士山本門寺の本堂なり」と明示されておるのであります。

 

 今日、創価学会会長の申し出による大構想は、北は一の竹から南は妙蓮寺、下之坊に至る南北六キロ乃至八キロメートルに亘る大天生原の勝地で構成せんとしておるのであります。その中心をこの正本堂においてある。この正本堂を、事の戒壇、現時の民衆、衆生の懺悔滅罪即身成仏の大戒壇と拝して、少しも私は疑いないと思うのであります。

 

 いま、堀猊下が四神相応の地として、南は朱雀、汚地としております。今考えるとそれよりも南、下之坊の下の田尻の湿地帯があります。北は一の竹よりももっと北の朝霧から、あるいは毛無山、あれらの高原地帯を指してもよいのであります。

 

 この広大なる地辺こそ、すなわち四神相応の大石ケ原の大構想であると考える。天生原こそここにありと信ずることこそ、真実の我々の心である。

 

 我々がただ未来の大構想にのみとらわれて、今、衣裏の中にある珠を忘れて、よそにばかり求めることはない。この珠をいだいて、そこにおいてこそ、真実の戒壇堂が建立できると、真実の信心をもって励ましていっていただきたいと思うのが私の考えであります。

 

 以上、時間を費して原稿もなくて、ただこういう参考書ばかり集めてきたものですから、話がだんだん飛び飛びになって、お聞きにくかったことはまことに申しわけありませんけれども、また、もし分らないところがあったならば、またお話ししたいと思います。

 

 今日はこれで失礼させていただきます。

 

 

コメント

  1. 石山巌虎 より:

    生まれて初めて全文拝読しました。

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