御遺命守護の経緯 1

顕正会の黒歴史

そもそも顕正会に存在意義など無いのですが、平成10年4月10日以降は顕正会が日蓮正宗から離れていなければならない意味が完全に喪失致しました。

若い方や最近顕正会に入られた方においてはその点をハッキリと認識できていないと思いますので、それについて少し述べてみたいと思います。

正本堂問題の本質

顕正会員さんは「事の戒壇の定義」だとか「国立戒壇の語の放棄」をもって御遺命破壊だと主張します。しかしながら正本堂問題の本質はそこでは無いのです。「正本堂が御遺命の戒壇と決定されたのか否か」が御遺命破壊か否かを推し量る物差しであり、この基準をもって見ていけば正本堂問題の真実が全て見えてくるのです。

御遺命守護の変遷

顕正会では「御遺命は破壊された。」と教え込まれます。実際には破壊などされておらず浅井さんの主観で会員さんに個人的見解を刷り込んでいるにすぎないのですが、今回の論点ではありませんのでこれに関しては次の機会に譲ります。とりあえず多くの顕正会員さんが認識している「御遺命守護の戦い」の争点の変遷を今一度確認してみたく思います。

昭和40年~昭和45年3月

昭和40年に正本堂建立寄進の申し出がなされ御宗門はこれをお受けされることになりました。当然のことながら当初は奉安殿の延長線上の建物という位置づけでしたが、当時の広布進展の相から近い将来に広宣流布は現実のものとなるのではないかとの雰囲気が宗内を覆い始めたのも事実であり、ゆえに正本堂をもって御遺命の戒壇とするような言葉が少なからず存在するのです。ただ大事なのは御法主上人猊下のお言葉には正本堂を御遺命の戒壇と決定づけるものは一切ないのです。我々はこの現実を深く受け止めるべきだと思います。

 

そのような状況下に昭和45年3月に妙信講から「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」が提出され、それを受けて翌月の御虫払いの御説法で日達上人は「広宣流布は未来のことである。」との意を述べられ正本堂は御遺命の戒壇では無いと発表されました。

 

この時期の争点は「広宣流布は達成しているのか否か、達成していないなら御遺命の戒壇とは言えないではないか。」という非常に単純なものでした。

昭和45年4月~昭和47年4月

上記のごとく昭和45年の御虫払いにて「正本堂は御遺命の戒壇にあらず。」という日達上人の御見解が明らかになり、日蓮正宗僧俗はそれに従っていったのですが、学会においては正本堂を御遺命の戒壇と意義づけすることに固執しておりました。それに応ずる形で昭和46年には「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を浅井さんは学会に送りつけ学会と戦っていたわけです。

 

ここで重要なのは、この時点では既に日蓮正宗は御法主上人をはじめ僧俗一同が正本堂を御遺命の戒壇とする認識にとらわれていないということです。ゆえに昭和45年と昭和46年に妙信講は御開扉の申請をし、猊下様もそれをお許しになられているのです。顕正会員の皆さんはこのあたりの塩梅がピンとこないかと思いますが、御開扉を許されるということは御宗門と妙信講の関係が上手くいっていたという何よりの証拠なのです。

 

しかしながら学会との争いは何の進展も見ないまま昭和47年に突入致しました。しびれを切らした浅井さんは宗務院に「学会の誑惑を訂正させよ」と迫り、御宗門として訓諭を出す方向になりました。

 

この時期の争点とは「正本堂=御遺命の戒壇」としたい学会との争いであるということを顕正会員さんは今一度確認されるべきかと思います。

昭和47年4月28日~昭和47年9月28日

このような流れにより4月28日に訓諭が出されました。内容は学会への慰撫教導の表現も含むためにそれを不服とした浅井さんはまた異議を申し立てました。そこで日達上人は「解釈文」として訓諭を補足説明する文書を作成し事前に浅井さんにお見せくださいました。その内容は正本堂は御遺命の戒壇ではないことを明言しつつも「正本堂は法体に約しての事の戒壇」であることと、因果俱持の観点から現在は因に約しての広宣流布達成の意義を正本堂に認められたものでした。

 

そして浅井さんは多少の表現に対する異議は差し挟んだものの、大意においてはこの「解釈文」を了承したのです。ここは非常に重要です。現在においても顕正会では「事の戒壇の定義」やこの「訓諭」に関してイチャモンをつけてきますが、すべてはこの解釈文を認めたという歴史的事実の上にはそれらのイチャモンは全てが自語相違に陥ってしまっているのです。

 

幸か不幸かこの解釈文は表に出ることがありませんでしたが、学会との争いはエスカレートし最終的に昭和47年9月28日に妙信講学会双方間において確認書を交わすことで一旦の終息を得ました。

 

この第二の確認書(ご報告)の内容は正本堂を直ちに御遺命の戒壇とはしないものの、将来的には御遺命の戒壇となる可能性をいまだ残しているものとなっていました。つまり学会の誤った認識は訂正されることなく、そのまま継続されていたということです。

 

ただこれを良心的に解釈するならば、信徒同士で争うという筋目を無視した行動を一旦取りやめ、学会への教導は本来その任にある御宗門に全てお任せして妙信講は身を引くという信徒としての本心を取り戻した姿勢になったともいえるかもしれません。

 

このように、この時期の争点は「正本堂建立=御遺命の達成」としたい学会の思惑を打ち破るものであり、結果としては「直ちに正本堂を御遺命の戒壇とはしないが、広宣流布の暁には正本堂がそのまま御遺命の戒壇となる。」という学会の新たな正本堂の意義づけまでを打ち砕くことは出来なかったというものでありました。

 

しかしながら浅井さんはこの段階をもって「御遺命は守護された。」と結論付けました。私が冒頭で申し上げた「正本堂が御遺命の戒壇と決定されたのか否か」という物差しではかるならば、この段階で既に「正本堂は御遺命の戒壇にあらず。」ということを学会にも認めさせたわけですから、御遺命守護の戦いはこの時点で終わったとみるべきでしょう。上記の学会の新たな意義づけに関しては御宗門が教導していくわけですから、全てお任せしておけば良いのです。おそらく講頭である甚兵衞さんも御法主上人をはじめとする御宗門も、そのように捉えていたのではないでしょうか。

昭和47年10月

顕正会の書籍「御遺命守護の戦い」を見ると、この確認書が交わされた直後の冨士の巻頭言を最後に妙信講の動きは述べられず、一気に時代が繰り下がって昭和49年4月の御宗門への書状から話は再開されます。この一年半の間は特に何も問題が無かったかと一見思ってしまうのですが、さにあらず…。

 

実はこの間の浅井さんの言動こそが御宗門を本気で怒らせてしまった…、「浅井に信心は無いのだ。」と御宗門がハッキリと認識するに至った時期だったのです。

 

自身に都合の悪いことは「書かない、触れない、省略する。」というのが浅井さんの専売特許ですが、まさにこのスポッと抜けている時代もまたそのようなものなのですね。

 

 

第15回総会

この第二の確認書(ご報告)が交わされた直後に妙信講は第15回総会を開催しました。その壇上の垂れ幕には「御遺命の戒壇建立法華講精神」と書かれていました。

 

 

 

 

向かって左の垂れ幕です。画像が粗いので以下の記事が証拠になるかと思います。

 

 

 

 

また講頭の甚兵衞さんは、この総会において以下のようにも発言しました。

 

 

 

 

 

法華講の方々は違和感なく読めると思うのですが、現役顕正会員の人たちには少し違和感があるのではないでしょうか…。

 

そうです。それまで「国立戒壇」と呼称していた部分を「御遺命の戒壇」「本門戒壇」と置き換えているわけです。これは昭和45年5月に日達上人が仰せになった方針とピタッと一致しているわけであり、日蓮正宗信徒として何ら問題は無く、このままの姿勢でいるならばその後のあらゆる問題も起き得なかったわけです。

 

しかし昭衛さんだけは違いました。同じ第15回総会の席上で彼は以下のようにぶち上げました。

 

 

 

 

 

呆れて物も言えないとは当にこのことです。

 

第二の確認書(ご報告)に関して御宗門は「学会への教導は本来その任にあたる御宗門にお任せし、以後妙信講は日蓮正宗信徒のあるべき姿に戻り、信徒としての分を超えない。」との意であると受け取ったはずです。

 

されば時代の情勢を鑑みて信心修行の方向性を御指南下さる御法主上人の御意に信伏随従していくべきところ、いきなり「国立戒壇」ですから…。

 

最初の写真のスローガンである「御遺命の戒壇建立法華講精神」や、甚兵衞さんの「伝統たる本門戒壇の正義」との言葉は上記の「本来あるべき日蓮正宗信徒の姿勢」を体現化したものと受け取れます。しかしながら一方で昭衞さんは昭和45年5月の日達上人の御指南を一切無視して敢えて「国立戒壇」という言葉を使用しているのですから、これはある意味確信犯としか言いようがありません…。

 

御法主上人の御指南を軽く見ていますよね…。軽く見ているというよりも学会を屈伏させたその刃を今度は御法主上人に対して向けてきたと言っても過言ではありません…。

 

講頭である甚兵衞さんはさておき、昭衞さんに関しては今までの自身の行動に些かの反省も無い…、客観的に物事を見れていない。日蓮正宗信徒としての資質が基本から欠如している…。これは今後も注意深く監視しなくてはならない対象である。このように御法主上人はじめ御宗門の御僧侶方は受け止めたのではないでしょうか。

 

そしてこのような昭衞さんの姿勢がその後の登山申請却下へと繋がっていったと思われます。

 

長くなりましたので今回はこのあたりで一旦筆を止めます。

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