化儀と化法

最初に知って頂きたいこと

顕正会の皆様が日蓮正宗関係者と接触した際に「化儀」という言葉を耳にされたことは多いかと思います。

 

特に最近は「不敬の御開扉」との皆さんの投げかけに対してこの言葉が返ってくることが多々あるのではないかと思われます。

 

本日はこの「化儀」とそれに対する「化法」の意味についてお話ししましょうね。

 

お医者さんと患者さん

 

そもそも仏様と呼ばれる方は一切衆生を苦しみから救うことを願いとされています。この苦しみにあえぐ一切衆生とは我々ですよね。つまり私たちは病気で苦しんでいる「病人」なのです。一方で仏様はその病を治す「お医者さん」です。

 

ここに

 

仏様=お医者さん

病人=私たち

 

という関係が成り立ちますね。これを頭に入れておいてくださいね。

 

 

薬と投薬方法

 

お医者さんである仏様は私たちの病気を治すために一つの薬を与えてくださいました。この薬を飲めば病は治るわけですが、それを一日何回飲めばよいのか?何錠飲めばよいのか?食前か食後か?などなど正しい服用の仕方というものがありますよね?

 

その人の病気の重さや軽さ、置かれた環境などによって、一番最適な薬の飲み方は変わってくるのです。これを自分勝手に服用してしまえば、せっかくの良い薬がかえって体を害する毒薬になってしまいます…。

 

この薬と服用方法の関係こそが化法と化儀の関係なのです。

 

つまり、

 

薬=化法

薬の服用方法=化儀

 

 

ということなのですね。

 

現在の顕正会が主張している御開扉が不敬か否かも、妙信講問題(顕正会問題)の争点たる「国立戒壇」に関しても、突き詰めていけばこの「化法と化儀」の立て分けで全てが理解できる問題にすぎないと私は思います。

 

というわけで、少し踏み込んで「化法」と「化儀」を考えていきましょうね。

 

 

化法は変わらないが化儀は変わる

 

上記のたとえで考えるならば、病を治す薬の成分自体は時代が変わろうとも変化はしません。また、変えてはいけないものですよね。仏様が遺された最高の薬なのですから…。

 

ただし服用方法はその時代その時代の環境と、服用する患者さんの状態次第でいくらでも変わっていくものですし、むしろ条件次第で臨機応変に変えなくてはならないものですよね。

 

しかし、この薬を作られたお医者さんは既にこの世にはおりません。(常住此説法という考え方がありますが、仏様からの直接のお言葉がかかるわけでは無いので、ここではスルーします。)

 

それでは誰がその服用方法を決めるのか…?

 

大聖人様はその役目を日興上人に託されました。ご自身が滅に非ざる滅を現じたとしても、直接に患者さんたちに服用方法を的確に指示できるように重々の御配慮をされていたわけですね。

 

そして日興上人はその任を日目上人へとお譲りされ、日道上人、日行上人と代々引き継がれ、現代は御法主日如上人猊下がその任にあたっておられます。

 

ですから私たち患者さんは時の御法主上人の御指南(薬の服用方法)に素直に従い、大聖人様の遺されたお薬を飲むことによって、はじめて病を癒すことが出来るのですね。

 

 

御開扉を考える

 

さて、この方程式のもとで御開扉の件を考えてみましょう。

 

上古の御開扉と現代の御開扉の違いは先日書かせていただきました。詳しくは「顕正会主張『不敬の御開扉』を斬る!」をお読みください。

 

昭衞さんの主張する「上古は厳しく現代は甘い」との認識は全くの正反対だということは分かって頂けたかと思うのですが、どうしてこのように途中から厳しくなっていったのでしょうか?

 

それは世の中の状況が更なる動乱の時代へと突入し、戒壇の大御本尊様へ直接危害が加えられる危険性が増したというのが一番の理由であろうことは誰しも簡単に想像がつくものです。

 

このような時代になれば「戒壇の大御本尊様にお参りして、無始以来の罪障消滅をはかり成仏を遂げていく。」という薬の成分自体を変えてはいけないけれども、必然的に服用方法は変えなければならないわけですね。

 

ゆえに時の御法主上人猊下がその権限のもとにおいて蔵の中におしまい申し上げて内拝という形に切り替えたのでしょう。

 

現代においてもその路線は踏襲されております。しかしながら、もし仮に…仮にではありますが、今後もっと平和な時代になり、かつ大御本尊様の安全がゆるぎないものになったとしたならば、大聖人様、日興上人の御在世当時のような肩ひじを張らないお参りの仕方に戻る可能性もまた否定できないのではないでしょうか。

 

彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり。参詣遥かに中絶せり。急々に来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし。

(新編 1569ページ)

 

上記の南条殿御返事に代表されるような「仏様にお目通りをすること。」という部分はまさに薬の成分であるがゆえに決して誰人も手を加えてはならない「化法」なのですね。歴代の御法主上人でさえもこの部分には一切手を加えるようなことは致しません。しかしながら、「どうやってお参りするか。」は時代の状況によって変化する「化儀」の部分なのです。

 

そして大事なのは、その化儀を決定できるのは唯授一人の血脈を所持される御法主上人のみということなのですね。

 

どうですか?

 

昭衞さんの言っていることは「化法」にまで口を出し…、というか大聖人様が遺された「戒壇の大御本尊様にお目通りする意義」というものを真っ向から否定しちゃってますよね?これを謗法と言わずして何を謗法というのでしょうか?

 

かつ一切の権限もないのに「化儀」を勝手にあーでもないこーでもないと偉そうに述べて、多くの顕正会員さんを戒壇の大御本尊様から引き離していますよね。このような行為は仏様の御眼も恐れぬ傍若無人の振る舞いだということが理解できましたでしょうか。

 

そして一番恐ろしいのは…、

 

皆さま顕正会員さんがその大謗法の片棒を担がされているということなんです。

 

薬は正しく服用いたしましょう

 

このように大聖人様は薬を遺されただけではなく、その服用方法のルールもお決めになっているのですね。

 

私たちはそれを素直に受け止め、ちゃんとルールに従って教えられたとおりに薬を飲んでいくことが何よりも大切なことなんです。

 

自分勝手に薬を飲めば、必ず体を壊してかえって苦しみを増すことになるのです。

 

薬の存在しか教えられていない顕正会員の方々においてはこの「化儀」ということの大切さが実感しにくいとは思いますが、「化儀即化法」ですからその実際の振る舞いの中には大聖人様の仏法の深い意義がまた含まれているものなんですね。ですからけっして「化儀」を軽く考えてはいけないのです。

 

大聖人様の遺された薬を正しく服用して真の幸せをつかみたい…。

 

こう感じた方はぜひご連絡ください。

 

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