顕正会では破門されて以降、朝夕の勤行は基本的に大石寺の方向を向いて行う「遥拝勤行」をすすめておりますよね。
その根拠としては弘安元年の「千日尼御前御返事」を引用し、遠く離れていてもその心は仏様に届いていると教えられます。
しかし、これは大間違いなのです。
だって…、
千日尼は遥拝勤行していなかったのですから…。
令和6年3月15日追記
この記事を書いた2018年当時は気づかなかったのですが、既に4年前に同様の破折を顕正会に向けて発信されている方がおりました。
このブログの管理人であるミミさんとはリアルでお会いしたことはありませんが、ネット上では何かとお世話になっておりまして、年齢的には私の方が遥かに年上なのですが心の底から尊敬しているお方でもあります。
この記事を書かれているのが顕正会から日蓮正宗に移って1年半しか経っていない時点である事にも非常に驚くのですが、とにかく勉強熱心で感性が鋭いところは他の追随を許さないのではないかとも思って居ります。
遅ればせながら該当記事をリンクし紹介させて頂く次第でございます。
遥拝勤行の心構え
基礎教学書には「遥拝勤行の心構え」として以下のように記述があります。
写真では文章を確認しづらいので、テキスト化してみました。
遥拝勤行の心構え
遥拝勤行とは、冨士大石寺にまします本門戒壇の大後本尊を、わが家より遥かに拝みまいらせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じである。
遥拝勤行において大切なことは、我が家と戒壇の大御本尊といかに距離があろうとも、眼前に大御本尊まします、直接拝みまいらせる、との思いに立つことである。信心に距離は関係ない。もし信心がなければ眼前に御本尊ましますとも通ずることはなく、もし信心があれば、千万里を隔てるとも直ちに御本尊に通じて大功徳を生ずるのである。
ゆえに大聖人は、身延より千里を隔てた佐渡に住する千日尼に対し
「讐えば、大月は四万由旬なれども大地の池には須史に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須良に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事)
と仰せ下されている。「心こそ大切に候へ」と。まさに日蓮大聖人を恋慕渇仰し奉る信心こそ大切なのである。
(基礎教学書113ページ)
一見すると非常にもっともらしいことが書かれてありますね。
たしかに日蓮正宗においても、正式に御受戒を受けられた方が御本尊様をご自宅にご安置できる環境が整うまでの一定期間、暫定的処置として大石寺に向かって朝夕の勤行を行うように勧められます。
これは三宝への帰命を御宝前においてお誓いして、御本尊様を頭の上に頂戴した上で御当代の御法主上人猊下への信をもたれている方にあてての化儀ですから、その前提条件の無い方が形だけ真似をしても御本尊様は心に宿らないことは言うまでもありません。
今回のお話はそこに論点があるのではないため話を先に進めます。
上記の昭衞さんの文章を読むと、あたかも千日尼が佐渡の地において大聖人様おわします身延の地を遥拝して朝夕の勤行に励んでいたかのように取れますね。
しかし、それはあまりにも短絡的であり、かつ情報弱者としてのわが身を露呈する愚かな姿に他なりません。
これ以上無知な姿を世間にさらすことなく、私の言葉に耳を傾けて下さることを祈ります。
千日尼は阿仏房の奥さん
上記のページでは「千日尼」とだけ表記されているので、この女性がどういった立場の方かご存じ無い顕正会の方も多いかもしれません。
そんな方においても「阿仏房」という人物は耳にした記憶があるのではないでしょうか?
大聖人様が佐渡に流された時に御夫婦で大聖人様をお護りし、身延にお移りになられた後もご高齢の身でありながら三度も身延へとご登山参詣された篤信の信者さんですよね。
この阿仏房の奥さんこそが「千日尼」と呼ばれるご婦人なんです。
阿仏房ご夫妻は御本尊様を頂いていた
この阿仏房ご夫妻…、
実は昭衞さんが引用されたお手紙を頂く以前にすでに大聖人様から御本尊様を賜っていたのです。
当然のことながら、それ以降は賜った御本尊様に向かって朝夕の勤行を申し上げていたことは想像に難くありませんね。
その証拠は大聖人様のお言葉からも確認できます。
あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづる事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給ひてや日蓮を御とぶらひ給ふか。不思議なり不思議なり。此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまかせたてまつり候ぞ。別の故はあるべからず、あるべからず。宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ。委しくは又々申すべく候。恐々謹言。
(阿仏房御書 新編 793ページ)
これは大聖人様が佐渡を離れた翌年のお手紙です。黄色でマーカーした部分にて阿仏房にあてて御本尊様をお認め為されたことが分かります。また、最後の赤字にて千日尼も含めて御夫婦でこの御本尊様を護持していくべきこと、朝夕に勤行に励んでいくべきことがご教示されていますね。
つまり、そういうことなんです。
浅井さんが引用した部分は大聖人様が遥拝勤行をお褒めになった内容ではなく、実は顕正会員さんが口を極めて罵る「付け願い」をなされた千日尼の志をお褒めになったお言葉に他ならないのです。
千日尼御前御返事
せっかくですから、この昭衞さんが引用された千日尼御前御返事の内容を少しばかり見ていきましょうね。
少し長いお手紙なので、重要なところだけ抜粋してみました。
青鳧一貫文・干飯一斗・種々の物給び候ひ了んぬ。
仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生まれたり。仏に漿(こんず)をまひらせし老女は辟支仏と生まれたり。
(乃至)
佐渡の国より此の国までは山海を隔てゝ千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年々に夫を御使ひとして御訪ひあり。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、其の御心をしろしめすらん。譬へば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打てば須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来たれり。仏に成る道も此くの如し。我等は穢土に候へども心は霊山に住むべし。御面を見てはなにかせん。心こそ大切に候へ。いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。
(千日尼御前御返事 新編 1289~1290ページ)
最初の黄色でマーカーしてあるところは仏様に御供養する意義が説かれています。
そして、赤字で示した部分に「千日尼ご自身の登山は為されてはいないが、そのお気持ちは阿仏房を通してしっかり届いております。」と前置きされたうえで昭衛さんが好んで引用する「たとえ距離はあろうとも関係ない。」とのお褒めの言葉があるわけです。
最初の供養の大事はまさに現代において御開扉を受ける際の「御開扉冥加料」にあたり、赤字の人を介して志をお届けする姿は「付け願い」に相当するわけです。
まさに大聖人様御在世当時とその意義において何ら変わることない化儀こそが、現代の御開扉の姿なのですね。
顕正会の皆様はそのあたりをよくよく心静めて考えた方がよろしいかと思います。
阿仏房家のその後
阿仏房はこの最後の登山のあと、翌年3月に霊山へと旅立たれました。
大聖人様にも最後の御挨拶をすませて心残りは無くなった阿仏房は、「あとは一生成仏を遂げんのみ!」と一心にご自宅の御本尊様に唱題申し上げたことでしょう。その後ろには苦楽を共にしてきた千日尼も夫と共に唱題に次ぐ唱題を重ねていたと思われます。
どうでしょうか…?
昭衞さんの仰られる姿とは全くの別物ではありませんか?
御書に残されているお言葉をつなぎ合わせていっただけでも、顕正会で行っている遥拝勤行の片鱗も見ることは出来ないのです。むしろ現代の日蓮正宗の姿を肯定するものしか出てきません。
これが現実なんです。
「御在世の信心に戻る。」なんて格好いい言葉で飾ってみても、御在世の信心の姿は今の顕正会に見ることは出来ません。むしろ日蓮正宗に…、大石寺に脈々と生き続けている姿こそが「御在世の信心。」の姿なのです。
求道心のかけらでも残っているならば、勇気を出して大石寺に来てください。私たちはそんな皆様を心よりお待ち申し上げております。
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