コロナ禍と仏法

コロナ禍から学ぶこと

新型コロナというものに翻弄されて既に1年半が経った。昨年からこのことに関して書こうとは思っていたのだが、下書き段階で何度も中断し今に至る。

なにゆえ中断を繰り返してきたのかというと、このコロナ禍の全貌が未だ見えなかったがゆえ、それを仏法の観点から見た時にどのように解釈すべきかに迷いを生じていたからである。

当初より政府もマスコミも理解に苦しむ言動を繰り返しており、そこに微かな違和感を感じながらもその指さす方向を疑わずに一国民として従ってきた。しかしながら彼らの行為は日を追うごとに支離滅裂になり、現時点においては緊急事態宣言を出しながらオリンピックを強行し、飲食店や社会的弱者への集団リンチを恥ずかしげも無く推し進めている。更には安全性が確保しきれていない未知の薬を国民に半強制的に接種しようと圧力をかけ、本来ワクチンの必要性の無い若者や子供達にもリスクを負わせようとしている…。

完全に狂っている…。

ここまでの狂った姿を見れば、この新型コロナというものが単なる疫病ではなく、疫病という姿を借りた人為的なものではないかという疑問に誰しもが到達することであろう。

ことの真偽はまだ分からない…。だが、自然災害であってもその原因は心によるものであると説くのがこの仏法である。いわんや人が為した災害であるならば、その原因となった心とは何か…。そしてそれへの対処方法は…。

まさにこのコロナ禍への解決方法は大聖人様の仏法に存在するのである。

それを未だ知らぬ人に伝えていくことが先んじて御本尊様に縁した我々の使命でもあると思う。

しばらくはこのことに関して書いていきたい。

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