不遜なる「対決申し入れ書」を破折す(日達上人は御遺命の戒壇とせず)

対決申し入れ書

不遜なる「対決申し入れ書」を破折す

 

 

悩乱の沙汰、欺瞞に満ちた「対決申し入れ書」

 

 

すなわち、日達上人は、正本堂を御遺命の戒壇としようとする池田大作・創価学会の野望を、制御しつつ善導されることに全身全霊を傾けられたのであり、日顕上人もまた、この御化導に対し奉り、身に影の添うが如くにしたがって、お助け申し上げられたのである。したがって、日達上人御自身が、正本堂を直ちに〝御遺命の戒壇と認め〟ておられないのに、何故に貴殿に対して〝正本堂を御遺命の戒壇と認めないゆえ〟を理由に処分することがあろうか。

 

 

日達上人は、第一回正本堂建設委員会(昭和四十年二月十六日)における、

 

今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでこざいます。(大日蓮 昭和四〇年三月号一一頁)

 

との御指南から、七年後の「訓諭」(昭和四十七年四月二十八日)の、

 

正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
(大日蓮 昭和四七年六月号一頁)

 

との御指南に至るまで、共通・一貫して「謗法の人が多い」・「謗法の徒多き」、「広宣流布の暁」との言辞をもって、未だ広宣流布していないことを明言されている。その故にこそ、〝正本堂を御遺命の戒壇〟とすることに固執した池田大作・創価学会が背反していったのではないか。

 

ところで、謗法者は往々にして言行不一致であるばかりでなく、自らの不都合を他に被せる習いがある。貴殿も、どうやら御多分に漏れないようである。この際、貴殿の誑惑を徹底的に暴くこととする。

 

(”最後に申すべきこと”を砕破す  222~223ページ)

 

解説

 

この部分は非常に短いのですが、ことの本質が簡潔に表現されているものでもあると感じます。

 

顕正会員さんは認識されていないと思いますが、池田氏率いる学会が御宗門から離れていったのは「御宗門が正本堂を御遺命の戒壇と認めてくれなかった。」からなのです。

 

これが真実です。

 

されば浅井さんが常に申す「宗門は学会にへつらって正本堂を御遺命の戒壇と偽った。」というのはなんなのでしょうか?

 

そうなんです。

 

あなたがた顕正会員が日蓮正宗内部のことを知らぬのを良いことに、浅井さんは自身に都合よく事実を捻じ曲げ皆さん方に誤った認識を植え付け続けているのですよ。

 

これは後ほど詳しく述べますが、昭和45年の御虫払い以降は御宗門から「正本堂=御遺命の戒壇」という認識は一切なくなりました。そしてそれは現在まで続いております。

 

そのことに早く気付いて頂きたいものです。

 

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