御遺命は破壊されているのか?

簡単に分かる顕正会の誤り

 

先日の日記において“御宗門における御遺命破壊などという事実は最初から無かったのである!” とは書かせて頂きましたが、厳密に言えばそうとばかりは言えない部分もあるわけです…。

 

それがゆえに浅井さんはあそこまで暴走してしまったわけですし、顕正会の間違った部分は理解しているにせよ、未だに顕正会から離れられずにいる古参会員も大勢いるのでしょう。

 

というわけで、なにゆえ妙信講が解散処分を受け、現在のような状況になってしまったのかを顕正会初心者にも分かるように書いてみたいと思います。

 

 

最終的な正本堂問題の争点

 

 

昭和40年よりの10年弱、正本堂問題は紆余曲折致しましたが、最終的に妙信講が破門に至った戒壇義の争点とは、

 

正本堂は現在においては御遺命の戒壇では無いが、広宣流布後は御遺命の戒壇になる建物である。」

 

このような認識が当時の宗門内に強く浸透してしまっていた…。

 

ということだったのです。

 

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広宣流布以前に建立は可か?

 

はたして広宣流布以前に御遺命の戒壇は建立しても良いのでしょうか?

 

これに対する御隠尊猊下の明確なる御指南がございます。それは、

 

マタ御遺命ノ広布ノ戒壇ヲ建物ノミ前以テ建立スルナドノ論モ、徒ラニ功名ニ走ル我見・邪見ニシテ、カツ時ヲ取リ違エタル迷論ニ過ギザリシナリ。」

 

(百六箇種脱對見拝述記 319ページ)

 

ということです。「広宣流布以前に前もって御遺命の戒壇を建てておくというのは間違いだ。」と申されているのです。

 

こういった観点からは、昭和47年の訓諭に対する妙信講の抗議は正当だったと判断できます。

 

しかしながら、その異議申し立ての仕方が間違っていたのです。暴力に走り、力でゴリ押ししようとした…。

 

これで全てが台無しになってしまったのです。

 

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御遺命は破壊されてない!

 

妙信講の破門理由が「暴走」であったことは分かった…、しかし御宗門には咎は無いのか…?

 

こう皆さんは感じられているのではないでしょうか?その点について考えてみましょう。ただ、正本堂の件に関しては一つ一つを検証していきますと、非常に複雑になりますので、今一度全体像を整理しておきたいと思います。

 

そもそも正本堂というのは、それ以前の大御本尊様を御安置されていた奉安殿が手狭になってきたが故に、より多くの方が御開扉を受けられるようにと計画されたものと私は捉えております。

 

確かに、池田会長としては当初よりそれ以上の思惑があったかもしれません。しかしながら、それらは表に出されたものではありません。

 

ゆえに御宗門としては、あくまでも奉安殿の延長戦としての建物の御供養として捉えられ、謹んでこの申し出を受けられたのです。

 

しかしながら、戦後から当時にかけての学会による折伏の勢いは凄まじいものがあり、もしかすると正本堂が完成するころには広宣流布は出来てしまうのではないかという雰囲気もまた存在したのです

 

学会内部では、正本堂完成までには名実共に広宣流布を達成しようと、更なる会員への鼓舞がなされていたと、当時学会員だった方からは聞いております。

 

また御宗門としても、そのような学会のやる気を慰撫教導する意味からも、余計な水は差さずに温かく見守っておられたのです。

 

そのような状況でありましたので、昭和40年台前半の宗内においては、正本堂が御遺命の戒壇になるのではないかという認識が、僧俗共に広く浸透していったのでございます。

 

しかし、ここで注意しなければならないのは、いくら世論がそのような認識に席巻されようとも、御法主上人たる日達上人だけは、正本堂を御遺命の戒壇と決定づける御発言をされなかったということなのです。

 

そのような状況下のなか、事態をこのまま放置しておれば、誤った認識が根付いてしまうと危惧された浅井氏が、昭和45年3月25日に“「正本堂」に就き宗務御当局に糺し訴う”という一書を御宗門に提出致しました。

 

それを受けて、御法主日達上人猊下は直後の御虫払の御説法において、

 

「而しながら有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。」

 

とのお言葉を述べられ、正本堂は御遺命の戒壇ではないこと、広宣流布は未来のことであるということを、内外に示されました。

 

これによって、それ以降は宗内において正本堂を御遺命の戒壇と捉える認識は一掃されたのです。

 

これが事実なのです。

 

 

しかしながら学会はそれ以降も正本堂を御遺命の戒壇として内部に喧伝しておりました。

 

それに対して浅井氏は戦っていた訳です。

 

つまり、昭和45年4月以降の戦いとは、学会に対する戦いであり、御宗門はそれ以降現在に至るまで、御遺命破壊と責められる謂われは無いということなのです。

 

この一点が非常に大事なのです。

 

現在の顕正会では、この部分を混同せしめ、あたかも御宗門は学会と共謀して“正本堂を御遺命の戒壇としようとした。”と会員を洗脳しておりますが、事実は全く違います。

 

御遺命は破壊されていないのです。

 

御遺命が破壊されていないとするならば、顕正会の存在意義自体が無くなってしまいます。

 

それが浅井氏は怖いのです。

 

ゆえに事実をねじ曲げ、日達上人、日顕上人を悪者に仕立て上げ、自らを正当化しようとしているのです。

 

 

顕正会員の皆さん!早く目を覚まして下さい。大聖人様の仏法は、戒壇の大御本尊様、御法主上人猊下を離れては存在しえないのです。

 

 

あなたがたのやっていることはなんちゃって仏法なのです。

 

いくら熱心にやっても成仏は出来ないのです。

 

戒壇の大御本尊様は生きておわする大聖人様です。あなた方が仮に正しいのならば、既に戒壇の大御本尊様はお目通りを許されます。

 

未だお目通りが許されないこと自体が、顕正会は間違っているとの大聖人様の御裁断なのです。

 

 

顕正会員の皆さまにおかれましては、一日も早く懺悔され、仏様の御前に座られることを心より御祈念申し上げます。

 

 

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顕正会版日寛上人本尊は本物とは紙質が相違します。

顕正会版は現代の製法で作成される紙を使用しています。

昭和30年代当時の紙を再現するところまでは、さすがの浅井さんでも不可能だったのです。

 

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