前回は「戒・定・慧」はそのまま「本門の戒壇・本門の本尊・本門の題目」にあたるがゆえ、そのどれ一つを欠いても仏道を証得することは出来ない…。
換言すれば「広宣流布以前であるがゆえ直ちに御遺命の戒壇は存在しえなくとも、戒壇の大御本尊様の御在所は『義理において本門の戒壇』と拝すべきである。」ということを述べました。
これが「事相に約しての義の戒壇」の正しい拝し方であり、浅井さんの言うように「”事実の姿”として建立される。ゆえにこの御遺命の戒壇を事(事相)の戒壇というのである。」という表層的な認識から一歩踏み込んだ、より実質的な「義の戒壇」の「義理」を理解していただけたのではないかと思います。
今回はもう一つの「義理」についてお話ししていきたいと思います。
法体に約すとは
「法体に約しての事の戒壇」「法体に約しての義の戒壇」
法華講員と対論した経験のある顕正会員さんであれば一度は耳にしたことがある言葉でしょう。
これは日寛上人のお言葉を借りるならば、「戒壇の大御本尊様を根源」としたら「寺院や各家庭の御本尊様は枝流」にあたるということなんですね。
御本尊様である以上は全て仏様ではございますが、そこには自ずと「根源」と「枝流」の差別が厳と存在するわけです。
この「根源」たる戒壇の大御本尊様を「事」とするならば、「枝流」である寺院や各家庭の御本尊様は「義」となります。
その御本尊様の御在所というのは前回の道理から考えればいずれも「本門の戒壇」と相成り「三大秘法は整足する」のですから、戒壇の大御本尊様の御在所は「事の戒壇」、寺院や各家庭の御本尊様の御在所は「義の戒壇」となるのです。
これこそが日達上人が散々仰せになられていた「事の戒壇」であり、この道理から言えばそこが「御宝蔵」であろうと「奉安殿」であろうと、いわんや「正本堂」であっても「戒壇の大御本尊様をご安置する以上は『事の戒壇』である。」ということになるのですね。
ゆえに日達上人が御遺命を破壊したなどということは微塵も当てはまらないのです。
天月と水面に映る月
この法体に約しての立て分けを理解するにはお月様のたとえが分かりやすいかもしれません。
ただ、この先のお話はあくまでも私が個人的に理解するための方法として考えているものですから、日蓮正宗本来の考え方とは微妙にずれる部分もあるかもしれません。したがいまして法華講員の方々におかれましてはここから先のお話は一つの参考程度に捉えて頂き、あくまでも所属寺院の御住職様のご指導に従ってください。
本題に入りましょう。
仏様の本迹を論ずるとき、天に輝くお月様と池に映ったお月様を譬えとして出されますが、御本尊様の立て分けもまた道理は同じものだと私は考えます。
つまり根源である戒壇の大御本尊様は夜空に輝くお月様であり、寺院や各家庭の御本尊様は水面に映ったお月様であると…。
天の月はどこまでいっても一つしかありませんが、水面に映る月というのは水が存在するならばそれがたとえ数千だろうが数万だろうが同時に月の姿を映し出すわけです。
それは湖だろうと池だろうと、盃に注がれたお酒の表面だろうと、極端に言えば葉の上にある一滴のしずくでさえも月の姿を映し出すのですね。
天の月を直接拝するならば当然のことながら月の姿を知ることは出来ますが、たとえ水面に映った月であってもその姿を知ることは出来ますよね。
御本尊様もこれと同じだと私は思います。
天に輝くお月様を直接拝することがあるべき姿(三大秘法整足の姿)ではあるが、水面に映ったお月様を通して天の月を知る姿も義理において三大秘法が整った姿であるというのが法体に約しての義理だと私は捉えています。
ここで更に脱線をお許しいただけるならば、
唯授一人の血脈を「一器の水を一器に瀉すがごとく…」と日寛上人は表現されていますが、この御法主上人猊下が所持されている水こそが天のお月様を映し出すことの出来得るただ一つの水なのだと思います。
ゆえにいくら姿形を真似て作ってみても御法主上人猊下がお許しにならない本尊には天の月は映し出されない…。すなわち仏力・法力を持たない偽本尊と相成るのではないでしょうか。
話を元に戻します。
このように日蓮正宗においては戒壇の大御本尊様と嫡々書写の御本尊様の間にはしっかりとケジメがつけられているわけであり、戒壇の大御本尊様を根源としての「事」、嫡々書写の御本尊様を枝流としての「義」と立て分けるわけです。
これが日蓮正宗古来よりの伝統であり、「本尊所住の処は義理において戒壇である。」との道理から導き出されるのが、「戒壇の大御本尊様所住のところ事の戒壇」「嫡々書写の御本尊所住のところ義の戒壇」ということになります。
これが「法体に約しての事・義の立て分け」ということなのです。
本日はここまでにしておきましょう。次回は「法体に約しての事・義の立て分け」は日達上人が初めて言い出されたことではなく、古来より存在することを文証の上から見ていきたいと思います。
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