今回は、正月がなぜめでたいのか? 我々日蓮正宗の信仰をする者は、どういう心構えで新年を迎えなげればならないのかを、お話ししたいと思います。
頓知で有名な禅僧の一休が詠んだといわれる歌に、
「門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
というものがあります。
正月になると、門松が家の門前に立てられ、皆が口々に「明けましておめでとうございます」と言います。
これを一休は、
「人の人生を旅に例えると、正月に立てる門松は道程の一里塚のようなもので、正月を迎えて一つ歳を取ったということは、それだけ冥土(死後の世界)に近づいたということだ。それのどこがおめでたいのか」
と皮肉っているのです。
ところでなぜ、「正月を迎えて一つ年を取った」というのでしょうか。それは、昔の年齢の数え方が「満年齢」ではなく「数え年」であり、誕生日ではなく、お正月が来ると一つ年齢を加えていたからです。
「数え年」では、生まれたときは既に一歳で、何月に生まれようと、生まれてから最初のお正月が来れば二歳になり、二度目のお正月が来れば三歳になります。したがって正月が来ると皆、一同に歳を取っていたのですね。
しかしこの歌について、総本山第六十五世日淳上人は、
「此れは人生に於ける邪道であります。それを世間では仏法の悟りを言い表わしておるかの如く言う人もありますが、それは仏法の正道ではありません。大聖人の御教訓こそ真の仏法であります」
(日淳上大全集五一二取意)
と、一休の正月に対する考え方は邪道であると破折されています。
確かに、人には必ず寿命があります。どんな手段を使っても、どんなに良い人でも、絶対に死からは逃れられません。永遠に生きることは不可能なのです。
しかし、我々は死ぬために生まれてきたわけではありません。幸いなことに、私たちは今、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様の仏法と、それを正しく教えて下さる血脈付法の御法主上人猊下や末寺の御住職に巡り合うことができました。
これによって私たちは、この世に生まれてきた真の目的と使命を知ることができたのです。
私たちには、この法を護り(令法久住)、広く人々に伝えていく(広宣流布)という尊い使命があります。これによってのみ、真の世界平和が確立され、人類の幸福が叶うのです。
日蓮正宗の信仰をする人は、御本尊様を根本とした生活を送ることで、自身の境界を変えていくことができます。私たち自身が変われば、必ず私たちの周りの人たちも変わっていきます。
当然、そこには邪魔をしようとする働きが起こってくるでしょうが、強盛な信心を貫き通して魔を打ち破っていくことによって、私たちにも世の中を変えて仏国土を建設していくことができるのです。
ところで大聖人様はお正月について、『十字御書』に、
「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり」
(御書一五五一)
と仰せられています。この御教示は、大御本尊様に対する信心を根本として新年を迎える人の功徳を教えて下さったものです。
当抄は、雪深い身延山申におわします大聖人様に、お正月に当たって、蒸した餅やくだものを御供養申し上げた重須殿の女房(奥様)、すなわち南条時光殿の姉に与えられたお手紙です。
大聖人様は、正月を迎える心構えとして、「大切な人を迎えるようにしなさい」と仰せられ、その方法は、御本尊様に対する信心を根本としてお題目を唱えて正月を迎えることであると教えられているのです。
したがって、一年のはじめを大切に思い、南無妙法蓮華経のお題目を唱える修行は実に尊いことなのです。
そう言えば、東京五輪招致のプレゼンテーションで、滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」は記憶に新しいところです。やはり、もてなすということは全世界が認める日本の良き風習なのですね。
また大聖人様は正月について『秋元殿御返事』に、
「正月は妙の一字のまつり」(御書三三四)
と仰せです。私たちは正月を妙のまつりとして大切に思い、心より祝うことが大きな功徳となることを知るべきです。たしかに重須殿の女房は、お正月に大聖人様に心づくしの品々を御供養申し上げ、お正月を心からお祝い申し上げました。大聖人様はその真心の御供養を称賛
されたのです。
皆さんは、お正月を迎えるに当たり、自宅のお仏壇の掃除や御造酒、お餅などのお供えをお手伝いしましたか。
初登山や寺院参詣はできたでしょうか。また、家族と共に、真心からの御供養ができたでしょうか。このような志の積み重ねによって、徳も勝り人に愛されるようになっていくことができるのです。
そして、そのような立派な人格に成長していくならば「折伏」もできるようになります。
なかには受験生で、忙しい人もいると思いますが、だからこそ寺院に参詣し、御住職様に「合格祈念」をして頂くことがとても大切なことだと思います。
世の中の多くの人々は、正しい仏様も仏法も知らず、邪宗の寺院や神社に初詣し、一年の無事を願っています。本人たちは良いことをしていると思っていても、かえって悪業を積み重ねることとなり、不幸に陥ってしまうのです。
私たちは、このような人たちを救うべく、勇気と誇りをもって共々に精進してまいりましょう。
(妙教 平成26年1月号 48~51ページ)
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