顕正会流「事の戒壇 義の戒壇」を破す2

国立戒壇について

固有名詞ではない

それでは今度は少し違った角度から見ていきましょう。

顕正会では以下のように指導しております。

「第二は、本宗の伝統法義の上からは、広布以前に戒壇の大御本尊まします所を「事の戒壇」とは絶対に云えないのである。

まず本宗伝統の法義を示そう。本門戒壇における事(じ)と義(ぎ)とは、事とは事相(じそう)(事実の姿)の 意、義とは義理・道理の意である。すなわち、三大秘法抄に定められた条件が整った時に事実の姿として建立される戒壇を「事の戒壇」といい、それ以前に本門戒壇の大御本尊のまします所を「義の戒壇」と申し上げるのである。」

(正本堂の誑惑を破し懺悔精算を求む 179ページ)

どうでしょうか、前回までの私の話をもとに考えると、ここにおける比較相対の物差しは「戒壇の大御本尊様だけを範囲として、広宣流布の後と、前を比較している。」ということです。

これはこれで間違いではありません。

ただ、御宗門と争点になっているのは、比較相対の物差しが「戒壇の大御本尊様と、その他の御本尊様を範囲として、その御本尊様の意味合いの上からどちらが中心で、どちらがそれに準ずるものなのか。」ということを論じているのですね。

しかしながら、顕正会では前者の物差しだけをクローズアップして、後者の物差しはあえて触れないようにしているのです。

折伏理論書では多少触れてはおりますが、最後の二行にサラッと触れているに過ぎません。

これは何を意図しているのかとつらつら考えるに、おそらく「事の戒壇」「義の戒壇」という言葉を固有名詞として会員に認識させんがためではないかと感じます。

この「事」「義」とは形容詞なんです。「事実上の~」とか、「事実上の戒壇に意味合いは通じる~」というのが、この場合の「事」「義」の意味するところなんです。

顕正会では広宣流布後の御遺命の戒壇一点をさして、それだけが「事の戒壇と呼ばれる(固有名詞である)戒壇なんだ。」と主張し、それ以外は全て「義の戒壇と呼ぶ(固有名詞である)戒壇なのです。」と誘導しているに過ぎないのです。

比較する範囲と、その比較の物差しが違ったものであるならば、自ずから「何が中心」で、何が「枝葉」になってくるかということを考えさせないようにしているのです。

ここにトリックの根本があるのです。

二種類の義理

上記に顕正会のトリックと申しました。

これはすなわち日寛上人は、「義理が事に通じる戒壇」という表現を、広宣流布以前の戒壇の大御本尊様にも使用され、また在々所々の御本尊様にも使用されているため、本来は意味合いの違う「義理(意義)」であるのですが、それを混同して無理矢理「事相という意味合い」のみの物差しであると、会員さんに教え込んでいるのです。

ですから、私たちが認識すべき事は、日寛上人が申された二種類の「事と義」を正確に捉え、それぞれの物差しがどうなっているのか、何を意味しているのかを学んでいくことかと思います。(何を意味しているのかということの理解は、そのまま二種類の「義」の違いを正確に認識出来るということです。)

それでは、一つずつ説明していきます。

建物は無くても戒壇

まずは戒壇の大御本尊様の事と義に関してです。

日蓮正宗において戒壇とは、

本門の本尊に向かって唱える題目が本門の題目であり、その場所を本門の戒壇という。」

といった明確な物差しがあるのです。三大秘法を一番簡単に表現した言葉です。

つまり、御開扉を受けて我々がお題目を唱えるならば、そこが昔の御宝蔵であれ、今の奉安堂であれ、そこは本門の戒壇となります。

また、修行の場である各寺院の本堂も、本門の本尊が御安置されているのですから、本門の戒壇となります。

さらには各家庭の御本尊様安置の場所も本門の戒壇となります。

その上でですが、寺院に於いても家庭に於いても、それは正式に御安置されているのですから、その建物は戒壇であると私たちは簡単に認識できるのですが、戒壇の大御本尊様に於いては、その由来から、広宣流布の暁に御遺命の戒壇を建てて、そこにおいて初めて正式に御安置される訳です。

つまり、それまでは蔵におしまいしているという認識が正確であり、広宣流布以前は戒壇の大御本尊様には「戒壇という建物は無い。」ということなのです。

それでは、広宣流布以前に戒壇の大御本尊様を拝んでも功徳は無いのでしょうか?たとえ御開扉を申し出て内拝させて頂き、本門の本尊に向かって本門の題目を唱えても、肝心の戒壇は広宣流布以降に建てられる訳ですから、三大秘法は成就しない(そこにおいて形は整っていない。)わけですよね?

しかし、その考え方は間違っているということを日寛上人は申されているのです。

そこにおいて、冒頭の日蓮正宗における「本尊と、題目と、戒壇のとらえ方。」という基本的考え方が出てくるのです。

日寛上人の六巻抄の依義判文抄には、法華経の神力品を引かれて、「題目修行の場所や、本門の本尊所住の処は、戒壇という建物が無くても、その場所は義理に於いて(意味合いに於いて)戒壇と言えるのである。」と説明されているのです。

つまり、「戒壇の大御本尊様は広宣流布以前には正式な戒壇という建物は有りませんが、本門の御本尊がおわしますゆえ、その場所は義理に於いて(意味合いに於いて)戒壇だ。」と言ってらっしゃるのです。

これが広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所を「義の戒壇」と呼ぶ根拠なのです。

そういった理由で「義」と呼ばれているのだということを、ここでは徹底的に腹の中に落とし込んで下さい。

根源と枝流

前項は戒壇の大御本尊様のみを対象として、広宣流布の前は戒壇という建物は存在しなくても、その意味合いは戒壇と同じであるがゆえ、“義理において戒壇と言える”ということを説明致しました。

今回はもう一方の“義理”について説明します。

今回の対象は戒壇の大御本尊様と嫡々書写の御本尊様(在々所々の御本尊様)です。

そして一番大事なことは、今回の比較対象には広宣流布の前後という時の経過は一切考慮に入っていないということです。

それでは本題に入ります。

言うまでもなく戒壇の大御本尊様は「日蓮が魂を墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え」と仰せのごとく、大聖人様の仏様の御境涯を顕された、一切衆生を救う根本の御本尊様です。

一方、嫡々書写の御本尊様は、各地域の広宣流布の拠点として、地域地域の有縁の人々を成仏へと導く各末寺の御本尊様や、信徒さんが日々御給仕をしながら功徳を積み成仏へと導かれる、個人がお貸し下げ頂く御本尊様などです。

もちろん寺院の御本尊様や家庭の御本尊様も、御歴代の御法主上人猊下が、大聖人様から日興上人が譲り受けられた仏様の御境涯を顕されたものですから、等しく仏様として拝していくべきなんです。

また、我々は寺院や家庭の御本尊様を通して戒壇の大御本尊様を拝していくことが大切です。

そのように、仏様としての義理(意味合い)は、根源たる戒壇の大御本尊様に通じるものなのです。

しかしながら、嫡々書写の御本尊様はあくまでも枝流であり、その根源は戒壇の大御本尊様なのです。

ですから、日蓮正宗においては、大聖人様の時代から、登山して根本の仏様を拝していくことを勧められているのです。

かくいう日寛上人も「志有らん人は登山して拝し給へ」と申されているのです。

このように戒壇の大御本尊様と嫡々書写の御本尊様には明らかな違いがあり、それゆえに“嫡々書写の御本尊様御安置の場所は、戒壇の大御本尊様の御在所に、義理において(意味合いにおいて)通じる。”ということから、“義理の戒壇”と呼ばれているのです。

どうでしょうか?

同じ“義理の”と言っても、その義理は全くの別物であることがご理解頂けたでしょうか。そういった観点で、再度顕正会の書籍を読んでみて下さい。この“義理”を同列にして論じ、会員を煙に巻いているのが判るはずです。

まとめ

一通り説明致しましたので、まとめてみたいと思います。

日寛上人が義理の戒壇と仰せになったのには、2種類の義理(意味合い)があり、それぞれ別個に分けて考えなくてはならないのです。

そして”義理”とは、意味合いが“事”に繋がるということですから、2種類の“義”にはそれぞれに意味合いの異なる“事”が存在するのです。

戒壇の大御本尊様を対象として、広宣流布の前後を物差しとして(事相に約して)立て分けるならば、広宣流布後の御遺命の戒壇が“事の戒壇”となり、広宣流布以前は戒壇という建物は無けれども、御本尊様所住の所は即戒壇という解釈から、広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所は“義の戒壇”とされるのです。

一方で、御本尊様の性格といった観点(法体に約して)を物差しとして、戒壇の大御本尊様と嫡々書写の御本尊様を比較対象するならば、根源である戒壇の大御本尊様を“事の戒壇”とし、そこに意味合いの通じる嫡々書写の御本尊様は“義の戒壇”となるのです。

このように、何を物差しにして“事”“義”の立て分けをしているのかを正確に把握していけば、この問題はいとも簡単に解決してしまうのです。

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