正本堂が建ちあがり、再び妙信講の騒動が起こる昭和49年5月までの一年強というものは特に目立ったこともおきずに穏やかに時間が流れたように見えます。
しかしながらその間に松本さんから妙縁寺の御本尊様を譲り受けたり、本部会館建設等を行っており、うがった見方をすれば将来の独立のためにその準備を進めていたのではないかということも考えられます。
しかしながら、あくまでも妙信講(顕正会)目線から見るならば、そうとも言えないようにも感じるのです。
昭和48年5月に登山申請した際に「国立戒壇を主張する間はゆるさず。」として御内拝をお許しいただけませんでした。けれども正本堂が建ちあがってから妙信講が御遺命の戒壇に関して発言しているのは、講中の内部に向かってのものしか見当たりません。
これは講中を統率していく上では当然あってしかるべきものであり、そこまで干渉されても困ります…というのが本音でしょう。けれどもその後の妙信講の動きを見ればその指示に従ってできるだけ御遺命の戒壇に関しては触れないよう努力した形跡が見られます。
そのうえでの昭和49年4月に再度登山のお伺いを立てるわけですが、ここでも上記理由から却下されました。
このことが最終的に妙信講の暴走に火をつけたわけです。
今この経緯を客観的にみると、そこまでして拒否しなければいけないことだったのか?という疑問がわいてまいります。
この登山拒否という一件が無ければ、その後の状況もまた全く変わったものとなっていたと私は思います。
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