門外折伏・門内摂受

顕正会の破門について

浅井さんの除名処分の最大の理由は破和合僧なんです。

 

たとえ自身が正論を主張する立場であったにしても同じ信徒間において争うというのは御法度なのです。

 

ましてや法の上から身分の上下が定められている御僧侶に在家が攻撃するなどあってはならないことですし、更には御法主上人に対して意見をさしはさむことなど言語道断でございます。

 

もし、このようなことをすれば即刻罪業を積むのであり、正論がどうのこうのなんてのはその後の話なのですね。

 

これが大聖人様の仏法を信仰していく上での方程式でありまして、破和合僧を為してしまった浅井さんはその方程式通りに戒壇の大御本尊様とのパイプを打ち切られてしまったのです。

 

くどいようですが、これは何も御法主上人が云々、学会が云々という問題ではありません。仮に浅井さんに一分の咎も無いならば大御本尊様がそのお力で浅井さん を大石寺に呼び戻します。しかしながら40年経っても未だに「戻ってきなさい。」とのお許しが大御本尊様から無いのです。

 

これは何ゆえか?

 

この破和合僧の罪に対する反省懺悔が未だに浅井さんには無いからなのです。

 

猫も杓子も折伏すれば良いというのではありません。同じ信仰をたもつ同志に対しては違う接し方が必要なのです。それを「門外折伏・門内摂受」と言います。

 

顕正会の皆さんにおいては初めて耳にする言葉だと思いますので、まずはこの言葉についての講演をご紹介いたします。

 

 

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門外折伏・門内摂受               全国布教師 早瀬義久

 

平成20年4月6日
御霊宝虫払大法会の砌
於 総本山仮御影堂

 

皆様、こんばんは。

 

ただいま御紹介いただきました、静岡県浜松市・正説寺の早瀬義久でございます。

 

本日、宗門の二大法要の一つであります御霊宝虫払(むしばらい)大法会が御法主日如上人猊下の御もと、桜花爛漫(らんまん)のなか、厳粛かつ盛大に奉修され、皆様には支部を代表し、高い志に立たれての御登山、心より尊く思うものでございます。

 

私もまた、この大法会に出仕を許され、その上、布教講演の大任まで仰せつかり、身の引き締まる思いでおります。

 

「門外折伏・門内摂受(しょうじゅ)」と題し、お話をさせていただきます。

 

信心の誠を尽くそう

 

本題に入ります前に、総本山の総合整備事業について、私が感じておりますことを少々述べさせていただきたいと存じます。

 

現在、総本山では総合整備事業が進められております。御承知のとおり、耐震を考慮しての御影堂の大改修をはじめ塔中十八カ坊の新築工事等で、考えてみますと大石寺が開創されましたのが正応三年、一二九〇年ですから、開創より七百十八年が経過いたします。

 

大石寺開創七百十八年の歴史のなかで、最大規模の整備改修事業が進められているわけでありまして、今を生きる者として、総本山万代のため、一分なりとも御奉公できますことを心より喜びとするものであります。

 

総本山第二十六世日寛上人は、金沢の御信徒に対し、一通の書状を送られております。そのなかで、

 

「かならずかならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候ひて御供養候とも、若(も)し信心なくばせんなき事なるべし。たとへ一滴一塵な りとも信心誠あらば大果報を得べし。阿育王の因縁など思ひやられ候べく候。かならずかならず身のまづしきをなげくべからず。唯信心のまづしき事をなげくべ きにて候」(松任次兵衛殿御報・妙喜寺蔵)

 

通称『信の一字の御消息』と言われる書状であります。この御指南にありますように、私達は正法厳護のため、総本山護持のために、一層、信心の誠を尽くしてまいりたいと思うのでございます。

 

私達の信心の姿勢

 

さて、本題の「門外折伏・門内摂受」について、お話しさせていただきます。

 

「門外折伏・門内摂受」、皆様には聞き慣れない言葉かと思います。

 

このお言葉は、総本山第五十九世日亨上人が第九世日有上人の『化儀抄』百二十一箇条を解説された折に、大聖人様の御教示をふまえて私達の信心の在り方、姿勢を、一言に「門外折伏・門内摂受」と説かれたものであります。

 

その元は、『化儀抄』第五十七条の、

 

「法華宗の大綱の義理を背(そむ)く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背(けはい)の別名なるが故なり云云」(日蓮正宗聖典九八三㌻)

 

という、日有上人の御教示を敷術(ふえん)されて「門外折伏・門内摂受」と説かれるのであります。

 

門外、つまり宗門の外部に向かっては、勇猛果敢に折伏を進めなくてはいけない。

 

  対して門内、宗門内の僧俗間に在っては「法華宗の大綱の義理」、正しく仏法僧の三宝を崇(あが)めるということでありまして、仏宝として大聖人様を御本仏 と仰ぐ、法宝として本門戒壇の大御本尊様を根本の御本尊と定める、そして僧宝として二祖日興上人以来、血脈付法の御歴代上人を大聖人様のお代理として、そ の御指南を拝する。また、他の一切の宗教を邪宗邪義として捨てる。これが「法華宗の大綱の義理」ということであります。

 

 この「大綱の義理」に背かないかぎりは、広い心、寛容の心をもって、些細(ささい)なことには目をつぶり、その人の長所、すばらしいところを敬い、励まし合い、異体同心の絆(きずな)を固めていく。これを「門内摂受」と説かれるのであります。

 

そこで、御書をとおし一歩深く、「門外折伏・門内摂受」とおっしゃった御心を拝してみたいと思います。

 

折伏の精神は不軽菩薩の振る舞いに

 

まず「門外折伏」。

 

外部に向かっての折伏ということでありますが、これについては今、改めて申すまでもありません。

 

御法主日如上人猊下の御教導のもと、宗門僧俗挙げて、明年、平成二十一年の御命題である「地涌倍増」を目指し、各支部が真剣に取り組んでいる姿、これが「門外折伏」であります。
敢(あ)えて申せば、大聖人様は折伏の精神として、不軽菩薩の振る舞いを挙げておられます。『聖人知三世事』という御書に、

 

「日蓮は是(これ)法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に。軽毀(きょうき)する人は頭(こうべ)七分に破(わ)れ、信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん」(御書七四八㌻)

 

と。

 

同様の御文は数多くありますが、末法の修行は折伏にある。また折伏する際の精神は不軽菩薩の振る舞いにある。

 

大聖人御自身の振る舞いも、不軽菩薩の精神を紹継する、その精神を受け継ぐものであると御教示されております。

 

御承知のとおり、不軽菩薩は法華経の常不軽菩薩品第二十に、釈尊の過去世の姿として説かれ、どのような方であってもけっして軽(かろ)んじない、すべての人に尊い仏性があるとして、ひたすら礼拝(らいはい)の行に勤めたというのであります。

 

このことを、大聖人様は『崇峻天皇御書』に、

 

「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ。穴賢(あなかしこ)穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」(同一一七四㌻)

 

と説かれ、仏法で説く修行の在り方は、不軽品に示される人の振る舞いにある。相手を軽んぜず仏性を拝むという振る舞いこそ大切である。この思いがなければ、

 

「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(同五七九㌻)

 

という畜生の境界となんら変わらないと、『佐渡御書』に、私達を諭(さと)されるのであります。

 

この不軽菩薩の精神、振る舞いについては、御法主日如上人猊下が再三、御指南されるところであります。その要所を少し御紹介させていただきます。

 

「不軽菩薩の振る舞いは、今日の我ら本宗僧俗が折伏を行ずるに当たって心得るべきまことに大事なことが示されていると思います。一つには、不軽菩薩はど れほどの悪口罵詈(あっくめり)、非難中傷、杖木瓦石(じょうもくがしゃく)の難に値っても礼拝行をやめようとせず堪え忍び、礼拝行を続け、 六根清浄の大果報を受けたことであります。折伏も同様でありまして、相手からいかに悪口罵詈・非難中傷されようが、根気よく、あきらめず、続けていくこと が肝要であります。そのなかで、特に銘記すべきことは、折伏は相手を救う尊い慈悲行であるとともに、自らも過去遠々劫からの罪障を消滅し、仏道を成就する ことができる最高の仏道修行であるということであります
(中略)
二つには(中略)折伏は順逆二縁ともに救っていく偉大なる力を 存しており、たとえ相手が耳をふさごうが、反対しようが、我々に対して悪口罵詈しようが、時には杖木瓦石をもって迫害しようが、我々の折伏の声は必ず相手 の心に届き、やがてそれが縁となって救われるのであります(中略)すなわち、『毒鼓(どっく)の縁』と同じであります(中略)折伏こそ順逆二縁ともに救っ ていく一切衆生救済の最善の慈悲行なのであります。

 

三つには、不軽菩薩は一切衆生には必ず仏性があるとして、すべての人に対して軽 (かろ)んぜず、心から相手を敬い礼拝行を行ったことであります。折伏は相手の人格を攻撃するのではなくして、間違った考えを指摘して救うことでありま す。したがって『一切衆生悉有(しつう)仏性』の経文を心肝に染めて、相手を軽んずることなく、心から相手の幸せを願い、心を込めて折伏をすれば、やがて その心は相手に通じて折伏成就に至るのであります。

 

ただし仏性は、仏性があるというだけではその用(はたら)きを示せません。末法 においては人法一箇の大御本尊の縁に触れてこそ、仏性が仏性としての用きを示すのであります。したがって私達の折伏は、順縁、逆縁ともに選ばず、いかなる人にも下種結縁していくことが大事であります」(大日蓮・平成一八年九月号四二㌻)

 

以上、引用が長くなりましたが、折伏は、一つに自らの過去世からの罪障消滅のため、二つに順縁逆縁共に救う慈悲行である、三つに相手の仏性を信じ、仏性を拝むということであります。

 

したがって、折伏が実る実らないは別として、「因果倶時」という言葉がありますように、冥(みょう)の照覧を信じ、折伏に努めることが大切であります。

 

仏法には「怨親(おんしん)平等」という言葉があります。世の中には怨(うら)むべき、憎むべき人は一人もいない。怨み憎むかのように自分に辛く当たる者、逆に自分に親しく大事にしてくださる人。共にかけがえのない大事な方である。これが「怨親平等」ということであります。

 

大聖人様が佐渡御配流のなかで認められた『富木殿御返事』に、

 

「但(ただ)生涯本(もと)より思ひ切り了(おわ)んぬ。今に翻返(ひるがえ)ること無く其の上又違恨(いこん)無し。諸の悪人は又善知識なり」(御書五八四㌻)

 

とおっしゃっておられます。まさに「怨親平等」、仏性を拝まれる崇高な御境界を拝することができるのであります。

 

この大聖人様の深い御精神を拝するならば、相も変わらず宗門に対し口汚く攻撃し続ける団体がありますが、仏法の眼から見れば、既に敗北者と言わざるをえません。仏法を語る資格はありません。

 

私達は、相手を見下さない、どのような方であっても敬うという、人としての王道を歩まなければなりません。

 

和気藹々、歓喜みなぎる講中に

 

次に、「門内摂受」。

 

「門外折伏」の精神においてすらそうでありますから、まして「門内」、同志間に在ってはお互いに助け合い、励まし合って進んでいかなければなりません。ここを「門内摂受」と説かれるのであります。

 

「摂受」、摂引容受(しょういんようじゅ)という言葉を略したもので、摂は「おさめる、包み込む」という意味があります。仏法の根本に背かないかぎりは、相手に仮りに誤りがあっても、それを許し、包み収めて少しずつ導いていく。

 

『四条金吾殿御返事』に、

 

「此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ。大人にいのりなしまいらせ候べし」(同一三六二㌻)

 

とあります。

 

同志間に在って、自分にとって不本意な、不愉快なことがあっても、見なかったこと、聞かなかったことにして、ことさら人に吹聴(ふいちょう)しない。大人の分別をもって、穏やかに、相手の成長を願うことが大事だと諭されるのであります。

 

自分の信心が弱っている、惰性の信心に陥(おちい)っている。また支部の活動が停滞していますと、自然と淀(よど)んできまして、他人(ひと)の欠点ばかりが目につき、それが批判や怨嫉(おんしつ)となって、個人はもとより支部全体に歓喜がなくなります。

 

そこで、私達は『松野殿御返事』の御指南を深く拝さなければなりません。

 

「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持(たも)たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひ しなり。法華経を持たざる者をさへ若(も)し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。何(いか)に況(いわ)んや持てる在家出家の者をや (中略)忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀(そし)るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(同一〇四六 ㌻)

 

また『日女御前御返事』には、

 

「法華経の行者を或は貪瞋癡(とんじんち)により、或は世間の事により、或はしなじな(品品)のふるまひ(振舞)によって憎む人あり。此(これ)は法華経を信ずれども信ずる功徳なし。かへりて罰をかほ(蒙)るなり」(同一二三二㌻)

 

とあります。

 

特に、ここに御参集の皆様はそれぞれの支部を代表した、かけがえのない大事な方々ばかりであります。「門内摂受」、まずは同志間、温かく励まし合い、学び合って、お互いに大きな、広い心をもって、怨嫉のない、和気藹々(わきあいあい)とした磐石な支部にしてまいりましょう。

 

どうか「門外折伏・門内摂受」、第五十九世日亨上人の、この御指南を心に置き、共に明年、平成二十一年を目指し力強く前進してまいりましょう。

 

以上、布教講演とさせていただきます。

御清聴、まことに有り難うございました。

 

(はやせ ぎきゅう・正説寺住職)

(大日蓮平成20年8月号)

 

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さて、「門外折伏・門内摂受」についての御僧侶のお話しを御紹介したのですが、あらためて門内摂受についての大聖人様の御教示を確認してみたいと思います。

 

『四条金吾殿御返事』
此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ。大人にいのりなしまいらせ候べし」(御書一三六二㌻)

 

『日女御前御返事』
法華経の行者を或は貪瞋癡(とんじんち)により、或は世間の事により、或はしなじな(品品)のふるまひ(振舞)によって憎む人あり。此(これ)は法華経を信ずれども信ずる功徳なし。かへりて罰をかほ(蒙)るなり」(同一二三二㌻)

 

『松野殿御返事』
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持(たも)たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。法華経を持たざる者をさへ若(も)し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。何(いか)に況(いわ)んや持てる在家出家の者をや(中略)忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀(そし)るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(同一〇四六㌻)

 

またこの御講演では引用されませんでしたが、このような御教示もあります。

 

『阿仏房尼御前御返事』
浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。」(同九〇六㌻)

 

いかがでしたでしょうか?

 

「大聖人様がここにおわしませば何と御命令されるか。」と浅井さんはよく言いますが…、大聖人様は浅井さんの行動を全面的に肯定されるでしょうか?

 

私は違うと思います。かえって大聖人様は眉をしかめられるのではないでしょうか。

 

これらの御教示を拝読すれば、むしろ当時の日達上人が学会を慰撫教導されようとした真意が理解できるものですし、浅井さんの行動は気持ちは理解できなくもありませんが、やはりそこまでやってはいけないものであったこともまた理解できるのです。

 

ところで、上記の御妙判には顕正会員にも馴染みのある「松野殿御返事」が引用されていました。それでは同じ部分を浅井さんはどのように解釈して会員さんに教えているかを引き比べてみましょう。

 

そうすると何かが見えてくるかと思います。

 

 

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