今から5年前に浅井さんは松野殿御返事の御書講義をなし、それを一冊の書籍として会員に販売いたしました。
その中に先日の門内摂受に引用された一節が含まれるのですが、その解釈はいつものごとく浅井さんにとって都合よく改変されたものでした。
御書を手にしない顕正会員の皆さんは「そういうもんなんだ…。」と何の疑問も抱かずに受け入れてしまい、御宗門への誹謗にさらに拍車をかけるわけですが、大聖人様の御教示はまったく別物であり、むしろ浅井さんが当時為した所業はこの松野殿御返事の大聖人様の御指南に真っ向から反するものであるがゆえに破門へと至ってしまったわけでございます。
この講義における該当部分において、浅井さんはその自身の謗法行為をどうにか正当化しようと致します。
ここに浅井さんの卑劣な姿勢が見て取れるわけでございます。
それでは今一度この講義を再点検したうえで、大聖人様の仏法を信仰する信徒としてはどうあるべきだったのか…、浅井さんはどこでどう間違ってしまったのか…。それを確認していけたらと思うものです。
まずはこの講義の該当部分を見ていきましょう。
大聖人の心に背いて唱えても功徳はない
此の経の心に背きて唱えば、其の差別有るべきなり。(中略)
―ただし、此の経の心に背いて唱えるならば、いかに唱えても功徳はない―と。この仰せは、まことに重大ですね。
「此の経の心に背く」とはどういうことか。その元意(究極の意)は、日蓮大聖人の御心に背くことです。
具体的にはどういうことかといえば、「(中略)」の部分において、大聖人様は法華経譬喩品の「十四誹誇」を、妙楽の記の五の文を引いて示された上で
「此の十四誹膀は在家・出家に亘るべし。恐るべし、恐るべし。乃至、之を以て之を思うに、忘れても法華経を持つ者をば互いに毀るべからざるか。其の故は、法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀リては罪を得るなり。加様に心得て唱うる題目の功徳は、釈尊の御功徳と等しかるべし」
と仰せられている。この御意に基づいて、日興上人は御遺誡に
「身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如敬仏(当に仏を敬うが如く)の道理に任せて信敬を致すべき事」
あるいは
「弘通の法師に於ては下輩たりと雖も、老僧の思いを為すべき事」
あるいは
「下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば、仰いで師匠とすべき事」
等と定められている。つまり、自分より目下の者でも、信心のけなげの人、仏法の道理を弁えた人を、バカにしてはいけない、軽んじてはいけないということです。
では、大聖人の御心に背いて唱える功徳なき題目とは、どういうものか。これを今日に当てはめて具体的に言えば、次の三つになる。
一には、身延等の邪宗日蓮宗、あるいは立正佼成会や霊友会等です。これらの輩も題目は唱える。しかし彼等は大聖人出世の御本懐たる戒壇の大御本尊を信ぜず、誹誇している。だからいかに唱えるとも全く功徳はない。かえって悪道に堕ちるのであります。
二には、たとえ正系門家に身を置いていても、大聖人様の一期の御遺命に背いて唱えるならば、功徳はない。これが今の学会・宗門の姿です。御遺命たる国立戒壇を捨て、偽戒壇・正本堂を作ったことが、どれほど大聖人に背き奉ることになるか。国立戒壇建立を御遺命あそばした一期弘法付嘱書には「我が門弟等此の状を守るべきなり」とある。これに背くことは師敵対となる。だから功徳を失うのであります。
三には、顕正会員であっても、自分のひねくれた心や修羅の心で、けなげに御奉公する同志を軽んじたり、憎んだり、怨嫉したり、恨んだりすれば、たとえお題目を唱えても功徳を失うのです。
いいですか。自分のひねくれた心から、親切に指導してくれる人を軽んずる。あるいは修羅の心から、同志を自分の部下や子分のように思って威張ったり、思うようにならなければ憎む。そのような信心では功徳を失うのです。
ゆえに生死一大事血脈抄には
「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云うなリ」と仰せられる。
だから私は常に「共に尊敬し、励まし合い、いたわり、麗わしい団結で」と言うのです。素直に柔和質直の心で唱え奉る。そのとき、大聖人様がお唱えあそばすお題目の功徳と、我等の唱え奉るお題目の功徳は、等しくなるのであります。
所詮、感情にまかせてまじめな同志を軽んじたり憎んだりするのも、仏法を求める心が薄いからです。
ここに大聖人様は、雪山童子が仏法を求めるためには、鬼神すら敬い、命すら惜しまなかったという故事をお示し下さるのであります。
松野殿御返事」を拝し奉る 14~17ページ
いかがでしたでしょうか?
実際に御書を手にできる日蓮正宗僧俗の皆様方におかれては何となく違和感がぬぐえなかったのではないでしょうか?
「大聖人様はそんなこと言ってたっけ…?」
とまぁ、こんな具合でしょうね…。
それではこの講義を細部にわたって検証して浅井さんのずるい部分をあぶりだしていきましょうね。
先ずは御書の原文ではどのように書かれているかを見てみましょう。
但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修行に重々のしなあり。其の大概を申せば、記の五に云はく「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ。有る人此を分かって云はく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし。過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。何に況んや持てる在家出家の者をや。此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり。或は「若実若不実」とも説かれたり。之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。
加様に心得て唱ふる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし。
御書1046ページ
これが大聖人様のお言葉の原文ですね。
しかし、色分けしてみて私は改めて驚きました。
この赤色の文字で挟まれた箇所がすなわち功徳の出ない題目の理由を述べた部分なんですが、そのほとんどが削除されているわけです。
言うまでも無くこのお手紙は信心してまだ日の浅い松野殿へのお手紙ですから、御僧侶であるお弟子さんに宛てるような難解な御法門を書いているわけではありません。むしろ信仰して日の浅い者でも理解出来うるよう懇切丁寧に噛み砕いた御説明をされているわけですから、浅井さんが省略したこの緑の部分をそのまま引用した方がよほど理解しやすいわけですね。
しかしながら浅井さんはバサッとその部分を削除した…。
なんでか分かりますか?
そこには当に浅井さんが破門された理由が書かれちゃっているからなんですよ。
どうしてもそこは顕正会員には知られたくない…。大聖人様さえ「それをやっちゃあ、お終いよ!」と仰せになっていることを自分たちはやってしまったからこそ、現在の状況があるのだということを何としてでも知られたくなかったのでしょうね。
次にこの省略した部分を一つ一つ確かめてみましょう。
御書には先日のような段落で区切られていますが、見やすいように途中で細かく区切ってみました。
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但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。
此の経の修行に重々のしなあり。其の大概を申せば、記の五に云はく
「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ。有る人此を分かって云はく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。
此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし。
過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。
法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。
何に況んや持てる在家出家の者をや。此の経の四の巻には
「若しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」
と見へたり。或は「若実若不実」とも説かれたり。
之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。
加様に心得て唱ふる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし。
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黒の太字で挟まれたこの部分こそ、唱える題目に功徳が具わるか否かの要点なんですね。
そして赤字で示した部分が当にその物差しであるわけです。
この十四誹謗とはどういったものかというと、
①憍慢(きょうまん)(驕(おご)り高ぶって正法を侮(あなど)ること)
②懈怠(けたい)(仏道修行を怠(なま)けること)
③計我(けいが)(自分勝手な考えで仏法を推(お)し量(はか)ること)
④浅識(せんしき)(自らの浅はかな知識で、深く広い仏法を判断しようとすること)
⑤著欲(じゃくよく)(欲望に執着して正法を軽んじ、求めようとしないこと)
⑥不解(ふげ)(仏法を正しく解(わか)ろうとしないこと)
⑦不信(ふしん)(正法を信じないこと)
⑧顰蹙(ひんじゅく)(正法を非難すること)
⑨疑惑(ぎわく)(仏法を疑い、迷うこと)
⑩誹謗(ひぼう)(仏法を謗(そし)り、罵(ののし)ること)
⑪軽善(きょうぜん)(根本善である正法を受持する者を軽蔑(けいべつ)し、莫迦(ばか)にすること)
⑫憎善(ぞうぜん)(正法を受持する者を憎むこと)
⑬嫉善(しつぜん)(正法を受持する者を怨嫉(おんしつ)すること)
⑭恨善(こんぜん)(正法を受持する者を恨(うら)むこと)
ということなのです。まさに当時の浅井さんが学会や御僧侶方に対してとった態度そのものではないでしょうか。そこにおいて主張している内容が正論であるか否かはこの場合は関係ありません。たとえ正論であってもこのような態度をとっては罪をつくるのです。
これがこの信仰の怖いところなんです。
次の赤字の部分に関しては
「さらに過去の不軽菩薩の礼拝(らいはい)行を例に挙げ、法華経(三大秘法の御本尊)を持(たも)つ者をお互いに謗ってはいけない。その理由は、法華経(御本尊)を持つ者は皆仏であって、仏を謗れば罰を受けるのは当然だからである。このように心得て唱える題目の功徳は仏の唱える題目と等しいと御指南されています。」
これは言い換えれば、浅井さんのように当時同じ信仰をしている学会員、ましてや御僧侶方に対して誹謗中傷したうえで唱えている題目には全く功徳は無いのだということになりますよね。
どうでしょうか?
浅井さんは自書で「では、大聖人の御心に背いて唱える功徳なき題目とは、どういうものか。これを今日に当てはめて具体的に言えば、次の三つになる。」と言いましたが、今日に当てはめてもまったくの無意味なのです!
大切なのは、、当時に当てはめてそこに瑕疵はなかったのか?これを冷静に考えてみなくてはならないのです。
顕正会の皆さんどうですか?
破門直前の浅井さんは大聖人様のこの教えに反していませんか?
そんな状態で唱える題目に功徳はありますか?
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