「国教では無いから国立戒壇は無い」に触れましたので、ついでに「世界宗教だから国立戒壇はない」に関して述べてみましょう。
これもまた顕正会の試験問題にはよく出てくる設問であり、「なぜ学会員は功徳を失ったか」等にも書かれているものですね。
それではいってみましょう。
昭衞さんの主張
『阿部教学部長はいう
「大聖人の仏法は、一国に跼蹐するものでなく、広く世界民衆を救済する世界的宗教の最たるものである。この点から国立戒壇論の執見を教訓したい」(悪書1)
「世界宗教としての大聖人の本質より見て、苟も狭い一国の枠における国家主義的な執見に囚われてはならない」(悪書2)と。
これも逆さまの論理である。世界宗教だからこそ国立戒壇が必要なのである。』
(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む196ページ)
一読して意味の理解できる者はいるのでしょうか?
はっきり言って私には理解できません。
特に赤字の部分は浅井会長お気に入りのフレーズなのでしょうが、まったくもって意味不明です。
また、この後の説明部分においても、法義的に裏付けの無いことや、勝手な独断で論を進めており、何ら説得力の無いものと化しております。
結局、浅井会長の言いたいことを推測するに、
「日本国として仏法を守護する姿を示すことによって、全世界への広宣流布は進むのである。そのような世界に広める仏法であるからこそ国立戒壇が必要なのである。」
ということなのでしょうか?
言いたいことは分かりますよ。言いたいことは理解できますが、何もこれは国家としての戒壇建立や国教化をしなくても成し得ることではありませんか。
ましてや浅井会長が根拠として出してきた守護付嘱は、国主に対してのものであり、これを直ちに国家と捉えることはあまりにも強引すぎるのではないでしょうか。
国家、国家、国家…。
何でもかんでも国家と結びつける思考回路が、真実を見抜く目を曇らせてしまうのです。たしかに正本堂の一件はとてもではないが一国広宣流布とは程遠い段階での戒壇堂の建立であり、これをもって御遺命の戒壇とするにはあまりにも強引な主張です。
それに対する「それ御遺命の戒壇ではないでしょ!」というのが当時の昭衞さんの主張の背景であり、そのための「国家的スケールでの建立なくして御遺命の戒壇とは言えない。」というのがこの論のそもそもの始まりだと思うわけです。さればその要点だけを批判すれば良いのであり、そこから国主を国家とすり替えて自論を展開するのは「はみだし」であり、「行き過ぎ」なのでございます。
昭衞さんはまず教行証御書や報恩抄の一節を引いて、この仏法が全世界に広まることを提示し、その上で以下のように申します。
『このように、全世界の一切衆生が成仏を遂げさせて頂ける大法、全人類が信じ唱え奉る「本門戒壇の大御本尊」を守護申し上げるのが、三大秘法有縁の日本国の使命なのである。これを「守護付嘱」という。そしてこの付嘱の責務を果す具体的顕現が、実に国立戒壇なのである。』
(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む197ページ)
この赤字の部分が多少強引かと思われますが、守護付嘱を引っ張り出してきたのは天晴れかと思うわけです。
この守護付嘱は国主たる者に別して与えられた付嘱であり、そこには勿論のこと、仏法を守護するためには国主のみに許された権限を行使することを念頭に置かれているのは疑う余地はありません。
この後に昭衞さんが引用した立正安国論の一節の前には、
「其の上去ぬる元仁年中に、延暦・興福の両寺より度々奏聞を経、勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ。」(御書 243ページ)
として、勅宣と御教書が念仏の邪義を誡めるために出された事例を示されております。
すなわち、国主には我々国民が持ちえない権力が認められているがゆえ、その国主がこの信仰を持ち、三大秘法抄の「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」との不自惜身命の想いの上に、麗しき僧俗一体の姿を顕した時こそ、真の仏国土が実現するということでありましょう。
そこには、いざとなれば仏法守護のためには、国主としての持ちうる権限を行使することも当然のことながら含まれていると考えるのが自然でありましょう。
まぁ、なんだか昭衞さんを擁護するような内容になってしまいましたが、賛同できるのはここまでであります。
昭衞論を破折す
「では、なぜ守護を国家がするのかといえば、立正安国論に守護付嘱のいわれを説いて云く
「是(こ)の故に諸(もろもろ)の国王に付嘱して、比丘(びく)・比丘尼(びくに)に付嘱せず。何を以ての故に、王の威力無ければなり」と。
人類にとってかけがえのない御大法(ごだいほう)を守護するにおいて、比丘(僧侶)・比丘尼ではその実力に欠ける。ゆえに国家がその責務を全(まっと)うし奉るのである。」
(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む197ページ)
昭衛さんが言いたいのはこの文を根拠に、
「僧侶には法を守護する資格は与えられていない!ゆえに国主が国家権力をもって法を守護せねばならんのじゃ!」
ってことでしょうか?
残念ながら間違いです!
こんな簡単なことをうのみにするから顕正会員は馬鹿にされてしまうのですよ…。元顕正会員としては本当に悔しいですね…。
現役顕正会員さんも少しは御書を自分で拝読したほうが良いですよ。
この引用部分の次にはなんと書いてありますか?
「涅槃経に云はく『今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし』と」(平成新編御書 245ページ)
と書いてあります。
これは国王にも付嘱するが、国王のみならず、さらに大臣や宰相、四部の衆にも付嘱をするということです。「四部」というのは、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷です。この「比丘・比丘尼」とはまさに僧侶ではありませんか。
すなわち、国王とさらに多くの方々に付嘱をし、その国民的意義において、もし正法を毀り、背く者があったならば、これをまさに「苦治すべし」、つまり懇ろにその悪心を治むべきであると示されるのです。
つまり、守護付嘱は国主のみに与えられたものでは無いということです。この時点で浅井会長の論は間違いであると証明されました。
それでは何故国主を別して取り上げられたのかというならば、
「結局この国王への付嘱という趣意は、正法を護り弘めるための、王様に対する特別な意味を述べておるのです。」(立正安国論212ページ)
との御隠尊日顕上人猊下のお言葉に明らかなように、国主のみが持つ権力が正法護持のために活用されることを念頭に置いたうえでの別しての守護付嘱なのでありましょう。
しかしながら、昭衞さんはなんとしてでも国家を強調したいがゆえに、僧侶には守護する力が無いから国主のみに守護付嘱をしたのだとの、とんでも発言をしただけにとどまらず、美術品を例に挙げて大いに笑わせてくださるのであります。
とりあえずここで顕正会員の皆さんに考えてもらいたいのは、昭衞さんは御書でさえも自身に都合の良いように切り刻んでいるということです。
自分に都合の良いように解釈をし、都合の良いように会員に教え込んでいるということなんです。
顕正会員の皆さん、ぜひとも自分の目で御書を精査してください。
すぐに昭衞さんのボロが発見できるはずですよ。
そして、昭衞さんに騙されていた自分自身が情けなくなると同時に、何としてでも大聖人様の御心に叶う信心をしたい!と切に感じるはずです。
弘宣付嘱・伝持付嘱
私が前項において、浅井会長が間違っていると言ったのは、
1.守護付嘱を国主のみに与えられたものであると誤解せしめていること。
2.「人類にとってかけがえのない御大法を守護するにおいて、比丘・比丘尼ではその実力に欠ける。」との表現を用い、間接的に御僧侶を…、なかんずく御法主上人猊下を在家よりも下に見るような言い回しをしていること。
以上の二点においてであります。
1に関しては、浅井会長の引用部分の直後には涅槃経の長寿品を引かれて、国主以外の者への守護付嘱がなされており、ましてや比丘、比丘尼と断りを入れているわけですから、御僧侶に守護付嘱がなされていないとは口が裂けても言えますまい。
ただ、“四部の衆には国主のような権力が無いがゆえに、権力を行使しての守護は期待するべくもない。”というのが正確な捉え方でありましょう。
正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求むにおいても、そのように正確に書けば良いのであります。それをわざわざ会員に誤解を招くような言い回しにしているところに、浅井会長の腹の底が透けて見えるような気がするわけでございます。
次に2に関してですが、この一説を読んだ顕正会員は“国主のみが大聖人様の法を護る任にあり、御法主上人猊下はじめ御僧侶方は守護する力を持ち合わせていないために歯牙にもかけられていないのである。”との誤解を持つことでありましょう。
しかしながら、大聖人様の仏法においてはその立場立場において役目が決められているのです。
御僧侶方には、「法を学び伝え、内側から法を守っていく。」という役目がございます。一方で在家の檀那衆には、「法を外から護り支える。」というのが役目なのであります。ですから、宗内においては在家の我々は「お寺を外護する。」という言い回しを普段よりしているわけであります。
つまり、守護付嘱はその中心として国主に授けられてはいますが、一方で弘宣付嘱、伝持付嘱は二箇相承をもって日興上人に付嘱されているわけです。
当然のことながら、日興上人にとどまらず代々の御法主上人猊下はこの任に当たっていると捉えるべきでありましょう。
すなわち、別して与えられた国主への守護付嘱は、それをもって御法主上人猊下を凌駕するものではなく、ただ単に在家としての役目からその任に当たっているに過ぎないわけであり、御法主上人猊下には弘宣伝持という大事な役目が付嘱されているのだと知るべきであります。
昭衞さんはこれを知っているにも関わらず、あえて会員に誤解を招くよう誘導しているところが、何ともいやらしい部分なのであり、私はこれを批判しているわけでございます。
国主から国家へのすり替え
そもそも「世界宗教だから国立戒壇はない」との根拠は、昭和45年4月22日の日達上人の御説法にあります。
『又、国立戒壇ということについては、大聖人様は国教ということを言っておりません。日本国に広宣流布するということは言っている。日本を土台として、「日蓮は此の国に生を受けたり、あに我が国を思わざらんや。」大聖人様が、この国を以って土台として縁あるが故に、ここに戒壇の御本尊を建立遊ばされた。そして、その御本尊は一閻浮提の第一の本尊である。世界の人がここに集まって信心をするところである。その戒壇である。決して国教ではない。日本の国教だけならば、世界の人が信心するわけはないはずであります。だから、国教でないものが、国立がありえないのである。国教であれば、国立ということがあり得るかもしれないが、それがなければ我々の大民衆が集って、この正本堂を建立して事の戒壇として、今日において少しも恥ずることはないと私は信ずるものでございます。』
と、このように御指南くださいました。
これを素直に拝聴すれば、“日本国を中心とする広宣流布、戒壇建立の御遺命ではあるが、一閻浮提の一切衆生を救う大法であるがゆえ、国教化をして一国の殻に閉じこもるのでは布教の妨げになる。大聖人様が「国教化」を命じているなら話は別だが、そうでない以上、国家が大聖人様の仏法を公式に国教として定めるのは、一切衆生を救おうという御仏意に反する行為であり、その国教化が無いのであれば、また国立戒壇という考え方も否定されるのである。”ということが理解できます。
この考え方が根本にあって、御隠尊猊下の「国立戒壇論の誤りについて」と「本問事の戒壇の本義」は執筆されたのであります。
そのうえで昭衞さんの反論を見ていきましょう。
まず彼は守護付嘱を持ち出してきました。確かに日本国の国主には守護付嘱がなされています。その意味するところは、“国主独自が持ちうる権力を行使してでも仏法を守護する。」という考え方が含まれているのは前回説明した通りです。
ここにおいて四部の衆が守護付嘱の範囲外であるとする彼の珍説に関しては、まったくの誤りだと言っておきます。
話を戻しまして、国主独自の権力が念頭にあるならば、彼の論もまた正しいと思うかもしれませんが、そこにおいては公式にそれを宣明するのか、もしくは国主たりといえども一信徒として大聖人様の御意を拝して私的に信仰を深めていくところに、所作振る舞いが仏法の理にかなうところへと変化し、国主という立場上、それが国家の行く末に善き結果として反映されるのか、というところに存在するのであります。
すなわち、後者の考え方は立正安国論をはじめ様々な御書にその根拠を見ることが出来ますが、前者においてはそこまではっきりとした根拠を見つけ出すことはできないということでもあります。
そして、この守護付嘱に関する一番の彼の誤りは、
守護付嘱をされたのは“国主”であり、“国家”では無い!
ということであります。
彼は自説を押し付けるために、国主を国家に勝手にすり替えているのです。
結論
前項の「国主を国家にすり替えている。」というのは、昭衞さんが終始一貫つらぬいている会員を誑かすテクニックです。
以前に山門入り口さんのブログで書きましたが、国家安泰の方途は正報たる国主がこの法を立てるがゆえ、その国主が住する国土は安泰になるのであり、この国土自体は自らが意思を持つ有情ではなく、あくまでも正報に依存してその報いを決定する依報であります。“非情は有情に従う”の原則とはまさにこれであり、立正安国論を貫く依正不二の原理もまたそうなのです。
つまり、依報たる国土の安穏を祈るならば、まずはその原因たる正報の心を改革せよ。
というのが大聖人様の教えなのです。
ところが、昭衞さんの手にかかるとそのあたりが混乱してくるのです。
昭衞さんは国家を有情であると捉えています。一個の人格を持つ生命体だと捉えているのです。ここが大きな誤りなんです。
国家とはその国土に住する有情の集合体です。これは一念三千の観点から見れば衆生世間であります。そうです、衆生世間と国土世間は依報に立てわけられるのが一念三千の法門なのです。
それを無視して浅井会長は、非情であり、依報である国家をまるで生き物のように扱うが故に、会員は混乱してしまうのです。
この守護付嘱にしてもそうなんです。あくまでも守護付嘱を受けたのは国王であり、国主なのです。
それを何の断りも説明も無しに「国王=国家」として論じ始めるところに誤っていく根本原因があるのです。
“正法による国王の心の変化が、国家安泰への道である。”
という大聖人様の仏法の一番根本的な考え方が浅井会長の論には欠如しているのです。
以上、長々と書いてまいりましたが、御宗門としましては一貫して「国主の正法受持に起因する心法の変化によって依報たる国土の安穏がはかられるのであり、公式に国教としなければならないとまでの解釈は踏み込み過ぎである。」との姿勢でございます。
そこには日本国の広宣流布の後に訪れるであろう一閻浮提広宣流布の戦いをも視野に入れ、四悉檀の上からの配慮もまた見て取れるわけです。
ゆえに枝葉の小さな観点に執着し自説をごり押しする昭衞さんの論は誤りであるとここにハッキリと宣言するものでございます。
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