「有徳王・覚徳比丘」の一節は守護付嘱のことって気づいてました?

異体同心

前回、最後に引用させていただいた「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」の浅井さんの文章の中で最近聞いた覚えのあるフレーズが入っていたのに皆さん気づかれましたか?

 

なに?気づかなかった???

 

そんなことだからいつまでも浅井ファミリーに良いように使われてしまうんだよね…。

 

まるで鵜飼の鵜のようでなんとも気の毒になっちゃいます…。

 

bird_ukai

そういえば今月は広布御供養の月でしたよね…。顕正会の活動の為に仕事場では白い目で見られ、満足な給料ももらえない中で必死に生きていくための微々たるお給金を何とか頂戴したにも関わらず、それを「オェ!」と吐き出させられてしまうのですよね…。

 

二日酔いだったら吐くと楽になるんだけど、お金の場合は吐き出すと余計に苦しくなるんですよね…。

 

うん…、分かるよ…。痛いほど分かる…。

 

 

ってなわけで話はあさっての方向にぶっ飛びましたが、強制的に引き戻しまして冒頭の「聞き覚えのあるフレーズ」ってのは何でしょうか?

 

 

平成28年8月度総幹部会講演

 

今年の8月度総幹部会で浅井さんは以下のように述べています。

 

守護付嘱

 

もしこの重大意義がわかったら、日本国の国主および国民は、この大法を命かけて守護し奉らんとの決意に立つに違いない。

 

そもそも仏法有縁の国土の国主・万民は、仏法を守護する義務があるのです。これを守護付嘱という。

 

ゆえに大聖人様は立正安国論に、仁王経・涅槃経を引いて、守護付嘱を次のごとく御教示下されている。

 

「仏、波斯匿王に告げたまわく、是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず、何を以ての故に、王のごとき威力無ければなり」

 

「今、無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。正法を謗る者をば、大臣・四部の衆当に苦治すべし」と。

 

このように、仏法の守護だけは僧侶には付嘱せず、国王ならびに力ある在家に付嘱されているのです。なぜか。僧侶には仏法を守護する実力がない。ゆえに国主ならびに力ある在家にこれを付嘱するということです。

 

国立戒壇建立というのは、まさしくこの守護付嘱に、国主・国民が応え奉る姿なのです。

 

ですから、国立戒壇の建立は、政治権力が宗教を利用するということでも、宗教が政治権力を利用することでもない。そのような低劣そして卑しいものではない。

 

正法堅持の貫首上人も不惜身命、仏法を守護する国主・国民も不惜身命、ともに貫くは大聖人様に対し奉る大忠誠のみ。

 

かくて一国に戒壇の大御本尊を守護し奉らんとの大気運が満ちたとき、国立戒壇は建てられるのであります。

 

(顕正新聞 平成28年9月5日号 4ページ)

 

この黄色でマーカーしてある部分、を前回の「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と比べてみましょう。

 

有徳王・覚徳比丘の振舞いを見よ。正法を説く覚徳比丘も不惜身命、覚徳比丘を守る有徳王も不惜身命、そこには微塵も利己がない。ともに法を惜しむ大道念あるのみである。

 

このような、仏法のためには身命も惜しまぬ護法の大道心が一国に満ち満ちた時、戒壇を建立せよと、大聖人は定め給うたのである。

 

 

どうでしょうか?そっくりでしょ?

 

しかしそれは当たり前なんです。この「有徳王・覚徳比丘」の一節は「護法」の精神を述べたものに他ならないからです。

 

その「護法」の在家側の役目といえば「外護」であり、そのルーツをたどると「守護付嘱」である。ということなんですね。ですから浅井さんの三大秘法抄の解説と守護付嘱の解説がそっくりになるというのは当然のことであり、そのあたりの整理が頭の中でついてきますと全体像がハッキリと見えてくるわけです…。

 

さらには浅井さんが意図的に隠している僧侶の存在が大聖人様の仏法には必要不可欠ということもまた見えてくるわけです。ここまでくるとあと一歩です。じきに貴方の心の中の浅井顕正会への執着も氷解し、やがて大聖人様から「早く登山して私(戒壇の大御本尊様)に御目通りしなさい!」とお呼びがかかることでありましょう。

 

これらの整理をつけるには以前に紹介しました大白法の記事が最適ですので、再度掲載いたします。

 

護法とは

 

護  法

 

「護法」とは、仏法を護持することをいいます。

 

私たち法華講員にとって「仏法」とは、日蓮大聖人の末法下種・三大秘法の大正法であり、これを「護持」するということは、日蓮大聖人の教えを固く受持し、令法久住・広宣流布に向かって折伏弘教に励み、日蓮正宗を外護していくことです。

 
護法には内護と外護がある

 

護法には、伝持付嘱をもってなされる「内護」と、守護付嘱をもってなされる「外護」の二つがあります。

 

涅槃経に、

「内に弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」

と説かれているように、護法は僧俗の和合一致によらなければ、その目的を正しく全うすることはできません。

 

内護とは、「内には弟子有って甚深の義を解り」とあるように、内にあって正法を護る御僧侶の立場をいいます。

 

日蓮正宗における伝持付嘱とは、日蓮大聖人以来、歴代御法主上人の法水瀉瓶、唯授一人の血脈相承によって、法統連綿として伝えられるところの法体・法門の伝持をいいます。

 

そしてまた、日蓮正宗の御僧侶が御法主上人猊下に師弟不二の信をとって、甚深の正法正義の極理を学びつつ、伝法・伝持していく姿勢をいいます。唯授一人の血脈を伝持あそばされる時の御法主上人猊下に信伏随従し奉り、確固たる信念と絶対無比の法力を得て、教法の研鑚錬磨、言論・文筆をもって正法の興隆に努めることを内護というのです。

 

次に、外護とは、「外には清浄の檀越有って仏法久住せん」とあるように、外から正法を護る信徒の立場をいいます。

 

僧団の外にあって、経済的な財力、勢力をもって仏教を保護すると共に、種々の障害を除いて令法久住し、布教伝導の便宜を図ることをいいます。

 

私たち法華講員が、それぞれの仕事や家庭生活を営む上において、本門戒壇の大御本尊を根本に、時の御法主上人猊下の御指南のもと、純粋な信仰心をもって折伏、唱題、御供養等に励み、広布の進展を図っていく姿勢を外護というのです。

 

このような内護と外護を「二護」ともいいます。

 

 
 内護と外護は鳥の両翼、車の両輪

 
内外一体の護持は、鳥の両翼、車の両輪のように、立場を異にする僧俗の二者が、互いに信頼し合い、尊敬し合いながら、よく自身の本分を全うしてこそ、護法の目的が達せられるのです。

 

法華経の『見宝塔品』に、

「諸の仏子等 誰か能く法を護らん 当に大願を発して 久しく住することを得せしむべし」(法華経 350頁)

と説かれているように、仏弟子の流類たる私たち僧俗は、互いに力を合わせて、令法久住、正法弘通のために大願を発し、さらに精進することが必要です。

 

私たちが日蓮大聖人の三大秘法の仏法を信ずる身となることができたのは過去からの宿縁のいたすところであり、それは日蓮正宗の一門として広宣流布、令法久住の使命を遂げんがためであり、そのために、まずもって自分自身が正法護持への決意を固めるべきです。

 

日蓮大聖人が、

「大願とは法華弘通なり」(御書 1749頁)

と仰せられ、また日興上人が『遺誡置文』に、

「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(同 1884頁)

と示されているように、三大秘法の広宣流布は御本仏の御命です。故に、我々は身命を賭して日蓮大聖人の大正法を弘通していかなければなりません。

 
護法の功徳

 

日蓮大聖人は『開目抄』に、

「涅槃経の疏に云はく『出家・在家、法を護らんには、其の元心の所為を取り、事を棄て理を存して、匡しく大経を弘む、故に護持正法と言ふは小節に拘らず、故に不修威儀と言ふなり』」(同 575頁)

と、僧俗を問わず正法を護持せんと折伏を行ずる者は、戒律等の威儀を修めずとも、それは立派に護法の人であることを仰せられています。

 

また、護法の功徳については『佐渡御書』の中で、

「及び余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯護法の功徳力に由る故なり」(同 582頁)

との般泥洹経の文を引かれ、正法を信受する護法の功徳によって謗法の宿業を転じて軽く受け、現世の苦を免れ、その重罪を消滅することができると御教示されています。

 

日蓮正宗は、本門戒壇の大御本尊を奉りて七百二十二年、厳として謗法を許さず、宗祖日蓮大聖人の正系の法統を継がせ給う御開山日興上人の嫡流として、厳粛に信行を続けてきた宗門です。

 

日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(同 1389頁)

よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し」(同 1314頁)
と御指南のように、私たち僧俗は、唯授一人の血脈を承継あそばされた御法主上人猊下の御指南を拝し奉り、内護・外護の両面より一致団結、異体同心して日蓮正宗の正義を令法久住、広宣流布していかなければなりません

 

御本仏日蓮大聖人の大慈大悲を常に拝しつつ、私たち日蓮正宗の僧俗は、正法正義による世道人心の救済のため、心を合わせて固い団結のもとに、明年の法華講三十万総登山達成に向け、本年の折伏誓願貫徹、奉安堂建立御供養に精進してまいりましょう。

 

(大白法・平成13年3月16日)

 

どうでしょうか…?なんとなく全体像がうっすらと見えてきませんか?

 

浅井さんは僧侶も在家も不惜身命で法を護る決意に立ったときと意義付けしてますが、そこには自ずとそれぞれの法を護る役割の違いが存在するということと、それだけではまだまだ条件としては足りなく、実はその僧侶と在家が心を一つにして異体同心することが条件になっているということに気が付くことと思います。

 

ここの部分がポイントなんですね。

 

それでは次回はこの「有徳王・覚徳比丘」の部分を御宗門ではどのように解釈しているかに踏み込んでいきたいと思います。

 

 

 

 

 

コメント

  1. 暖楽鳥 より:

    お寺で、副御住職様の奥さまに声をかけて頂いた時にこう言われたのです。

    『暖楽鳥さんのように、お寺を外護していく姿勢は大切なんですよ!』

    と…

    その時私は、『ゲゴ??』ってなんじゃ~。

    と思ってましたが、この度記事を読ませてもらい『内護』もあるとは!!!

    >それぞれの法を護る役割の違いが存在する

    これは、本当に感じます。

    御僧侶は命をかけてご本尊様にお仕えし、日々私達の想像もしてない細々してる事をされてる様子ですし、私達が変わりにできる事ではないです。

    私達はその御僧侶方、菩提寺を支えて、共に広宣流布を見つめて異体同心させて頂く事が大切なんだ!!!

    と感じてます。

    御僧侶方も私達信徒を常に大切に想って下さってると感じてます。

    巧みな話法で顕正会員を騙す浅井会長ですが、調べていけば、つじつまが合わず今は崩壊寸前の様に感じます。

    • 桜梅桃李 より:

      暖楽鳥さんへ

      以前に布教部長さんが「僧侶だけでは広宣流布は出来ない。かといって在家だけでも広宣流布は出来ない。」とおっしゃっていたことがあります。

      これは単なる表面上だけのことでは無く、僧俗の異体同心が秘める仏法上の意義というものがそこには存在するのではないかと私は思うのです。

      それが何かは、各々が体験を通して悟っていくものなんでしょうね。

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