日寛上人 戒壇の「事」「義」 9 (嫡々書写御本尊安置の処)

「事の戒壇」「義の戒壇」

いよいよ最後になりましたが、もう一人の顕正会員さんからの指摘について書いていきたいと思います。なお、この方とは実際に何回かお会いしているもので、文体もそれに合わせて変えさせて頂きます。先ずは彼の主張を再度確認してみます。

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これが彼の主張ですが、要約すると「嫡々書写本尊安置の処は三大秘法開合の相には入れるべきではない。」ということでしょうか。これは半分正解であり、半分間違いであると私は思います。その理由を以下に述べたいと思います。

文底秘沈抄は事相に約しての立て分け

まずは彼の主張がそのまま当てはまる事例を確認してみたいと思います。これまで長々と解説してきたように法華取要抄文段ならびに報恩抄文段は法体に約しての立て分けをしております。この場合は嫡々書写の本尊安置の処は「義の戒壇」として六大秘法の中に入れなければそもそも成り立ちません。一方文底秘沈抄においては「本尊所住の処、義は戒壇に当たる。」との物差しで「事」「義」を立て分ける「事相に約しての立て分け」をしておりますから、法体の性格を物差しとした「嫡々書写御本尊安置の処、義の戒壇」との概念は馴染まないのです。つまり文底秘沈抄の立て分けをするならば、彼の言う通り嫡々書写御本尊安置の処を六大秘法から外して考えなければ開合の相が成り立たないということになります。

 

文段においては法体に約しての立て分け

これとは逆に報恩抄文段では読んで字のごとく法体に約しての立て分けを示されております。また法華取要抄文段においては一見すると事相に約しての立て分けと誤解するかもしれませんが、最終的にはやはり法体に約しての立て分けを論じておられます。これらは「嫡々書写の御本尊」を比較の対象としているがゆえに六大秘法の中に入れて論じているのであり、この二つの文段の御指南を無視してはいけないと思います。

 

 

顕正会流の「事相に約しての立て分け」のみでこれらを拝していくとなると、どうにも説明がつかないところが発生してくるわけです。

 

 

つまり、法体に約した立て分けをした際には「嫡々書写御本尊安置の処」を六大秘法に含めて論じていかなければ開合の相は成り立たないということなんです。これが冒頭において私が述べたところの「半分正解であり、半分間違い。」の理由でございます。

 

南条抄

次に南条抄を引かれての反論に対してお答え致します。彼が指摘してきたのは以下の記事に対するものであるかと思います。

ここにおいて私は大聖人様の御在所を「現時に於ける事の戒壇」として拝すべきであり、自ずと上野殿の自宅に御安置されている常住御本尊とは性格が違う、ゆえに「登山参詣されよ。」と御指南下されているものとして提示致しました。彼の反論の前半部分はまさにこれを裏付けるものとなっております。

これですね。ここにおいては大聖人様のいらっしゃるところは御本仏のおわしますところであり、ゆえに参詣されよということですよね。これは日寛上人の「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊存する上はその住処は即ち戒壇なり、その本尊に打ち向かい戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱うれば即ち本門の題目なり。志あらん人は登山して拝し給え。」との御指南と当にピタッと一致するわけです。ところが彼の反論は後半に至って依義判文抄の 御指南を引用して、そこに「義の戒壇なり。」との表現があることを根拠として大聖人の御在所は義の戒壇であるとしています。

 

ここでの「義の戒壇」とは「塔を起つべき」義理が存在するということであり、法体に約しての「義理」とは全くの別物なのです。上記の寿量演説抄の御指南も私の主張もこの「法体に約した事の戒壇」を指しているのであり、日達上人が常々仰せであった「現時に於ける事の戒壇」もまた同じ趣旨での御指南であられる。これが法体に約しての立て分けというものであり、立て分けの物差し(義理)が二種類存在することが理解出来れば、これらの御指南も全てがスッキリと収まるものになるのです。

嫡々書写御本尊安置の処は六大秘法の外に置くべきか?

最後に表題の件に関して触れておきたいと思います。顕正会流開合の相では文底秘沈抄の事相に約しての立て分けのみを是としているがゆえ、嫡々書写御本尊安置の処は開合の相の外に置かなければ論は成り立ちません。

しかし六大秘法は三大秘法に、三大秘法は一大秘法へと収まっていくことを考えた時、嫡々書写御本尊安置の処の義理すなわち題目修行の処の義理をもまたそこに意義として入っていなければ、全てを具えたるところの一大秘法とはなり得ないのではないでしょうか。

 

 

 

顕正会流解釈は「題目修行の処の義理は説明がつかないがゆえに開合の相から外す。」という誠に自分勝手なものに陥っているのです。しかしながら上記で引用された依義判文抄では「『住処』と言うは題目修行の処、即ち義の戒壇なり。」として大聖人様の御一身に「題目修行の処の義理」を含んで説かれているわけです。ここから考えるならば、一大秘法から三大秘法、そして六大秘法として開いた際には「嫡々書写御本尊安置の処」もまた開合の相にしっかり含めて説ききっていくべきだと私は考えます。

 

 

 

そしてそれを為しているのが法華取要抄文段ならびに報恩抄文段の日寛上人の御指南なのです。

 

 

 

最近の顕正会員さんと実際に会ってやり合いますと、「法体に約しての立て分けなど存在しない。あるなら出してみろ!」と鼻息も荒いのですが、日寛上人の御指南にはしっかりと説かれていますよということなのです。

 

 

およそ1ヶ月にわたって書いてまいりましたが、顕正会の戒壇論はデタラメである!と最後に申し上げて一旦終了とさせて頂きます。

 

 

 

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