日寛上人 戒壇の「事」「義」 8 (報恩抄文段)

「事の戒壇」「義の戒壇」

最後に報恩抄文段である。私がこの報恩抄文段を最後に持ってきたのには訳がある。それはこの報恩抄文段における戒壇の御指南こそ「法体に約した立て分け」そのものであり、かつ余計なぜい肉をそぎ落とした非常にスマートな御指南であるからだ。ただしぜい肉がついていない分だけ一言一言の意味するものは重い。ゆえに基礎教学が無いと正しく理解することが困難なばかりか、いとも簡単に誤った解釈になってしまうのである。それでは詳細を見ていこう。

報恩抄文段

一、二つには本門の戒壇。〔一〇三六〕

本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり。「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」等云云

次に事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。外の十六四十一に御相承を引いて云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云ふは是なり」〔一六七五〕云云

重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し。

(報恩抄文段 下末) (御書文段 469)

 Twitterによる反論

Twitterにおける彼の解釈を再度確認する。

彼は文上のままの姿をここに記しているが、これだけではまだまだ読み込みが浅い。広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所をどこに配置すべきかを彼は説明できていないのである。それに関して以下に言及する

比較の対照および物差し

先ずは比較の対照を確認してみたい。

 

前段では嫡々書写の本尊安置の処を「義理の戒壇」とし、後段において「事の戒壇」を御遺命の戒壇としている。

 

一見すると折伏理論書の立て分けと同じように思えるが、義理の戒壇は「戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり。」との言及に留まり、広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所を「義の戒壇」とはしていない。つまり広宣流布以前の戒壇の大御本尊の御在所は「義理の戒壇」の中には置かないということである。一方で「事の戒壇」とは御遺命の戒壇とされている…。

 

この御指南において「事」「義」を立て分ける物差しは「是の処は即ち是れ道場」であり、依義判文抄で述べられた二つの義理のうちの前者(本門の題目修行の処)である。これは後者で説くところの「本尊所住の処」の義理、すなわち事相に約しての義理ではない。

 

そこを混同しているのを叱責されたのが文底秘沈抄における癡山日饒への破折である。これらの流れから明らかなように、この報恩抄文段における立て分けは法体に約しての「事」と「義」なのである。

 

略す

されば「広宣流布以前の戒壇の大御本尊の御在所」はどこへ行ってしまったのか?これに関しては浅井さんが過去に言及している。以下にその発言を見てみよう。

広布達成の時に約して、直ちに国立戒壇を事とし、嫡々書写の本尊の所住を理(義)と示されているのである。『富士山戒壇の御本尊御在所』とは、まさしく広布の時の国立戒壇を意味している。ゆえに『事の戒(壇)』と仰せられているのである。そして広布以前の戒壇の大御本尊の所住については略しておられる。このように、略して事と義を示される御論法は、日寛上人の報恩抄文段にも見られる。」(顕正新聞 平成元年1月25日号)

顕正新聞 平成元年1月25日号

これは日相上人の開合の相に関して浅井さんの解釈を述べたものである。緑でマーカーしてある部分は文意を捻じ曲げた浅井さんの己義以外の何ものでもないのだが、後半部分の「 広布以前の戒壇の大御本尊の所住については略しておられる。このように、略して事と義を示される御論法は、日寛上人の報恩抄文段にも見られる。 」との言はまさしくその通りであり、今回取り上げる御指南には「広宣流布以前の戒壇の大御本尊の御在所を省略して日寛上人は述べられている。」ということの証明として紹介させて頂いた。

二重の義理

この「省略してますよ。」ということは日寛上人自らが言及されている。それが最後の「重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し。」の一節なのである。「重々の道理」とは二つの道理(義理)のことである。更に「文底秘沈抄での立て分け」とは事相に約しての立て分けである。

 

 

つまりこの報恩抄文段での立て分けは「法体に約して」であるが、「事相に約して」の「義理」は表面上は省略している。しかしながら開合の相を正しく理解するにはそれもまた考慮に入れて考えるべきである。と注意を促されているのである。

これを図にすると以下のようになる。

上記の赤枠で囲った部分を報恩抄文段では省略して説いているのである。

顕正会流解釈の誤り

ここで顕正会の皆さんは「いや違う!広宣流布以前の戒壇の大御本尊様所住の処は『義の戒壇』に配置すべきだ。」と思うことであろう。しかし、それは誤った認識である。

仮に顕正会の皆さんが主張するように広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所を「義の戒壇」に振り分けたとしよう。するとこの報恩抄文段の開合の相は「本尊所住の処」の義理という物差しで「事」「義」を判ずるものになり、また嫡々書写の本尊安置の処を比較対象の場に取り上げる必要もまたなくなるのである。

乱暴な言い方をすれば、わざわざここで新たな比較対象を取り上げて御指南遊ばさなくとも、「文底秘沈抄を見ろ!以上。」で話は終わってしまうのである。

また、もう一つの矛盾は顕正会流開き方をしたとき、広宣流布以降は「事の戒壇」も「義の戒壇」も成立するが、広宣流布以前は「義の戒壇」の部分しか存在しなくなる。「義」というのは「道理」である。「義」だけがあって「事」は広宣流布まであり得ないというのは、理屈だけ存在して実態が存在しないということであり、広宣流布以前の衆生はすべからく成仏出来ないという結論に陥ってしまうのである。

どうだろうか、自分たちの論がいかに支離滅裂なものかが少しは理解できるだろうか?

日相上人文書

上記に浅井さんの言葉を借りた日相上人の開合の相に関してであるが、まさにこの報恩抄文段の御指南と全く同じものなのである。日相上人の開合の相は「広宣流布以前の開合の相」であり、この報恩抄文段は「広宣流布以後の開合の相」である。その時の違いはあれども二つとも「法体に約しての事・義」で論じている。

 

 

そしてこの報恩抄文段では「広宣流布以前の戒壇の大御本尊様の御在所を省略した。」という注意を「重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し。」として最後に申し述べ、日相上人の開合の相と全く同じ配列を為すことを日寛上人も御指南下さっているのである。

 

 

最近は日相上人とは別の「日相」という人物が書いたものでは無いかとイチャモンをつけてくる顕正会員もいるようだが、いずれにしても日寛上人の御指南自体が「法体に約しての立て分け」をこの報恩抄文段で証明して下さっているのだ。

 

 

変なイチャモンを色々考える時間があるなら、もっと日寛上人の御指南を何度も何度も拝読するべきである。

 

 

とりあえず本日はここまでとしたい。

 

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