顕正会の主張する「涅槃経は守護付嘱の文証」というのは違うでしょ?

守護付嘱について
平成15年夏期講習会における日顕上人猊下の御講義です。

 

 

顕正会の昭衞さんは仁王経と涅槃経をもって守護付嘱の文証とされましたが、この涅槃経では僧侶にも付嘱されているのです…。一方で先に引用された仁王経では「比丘・比丘尼には付嘱せず」と言われております。いったい「僧侶には付嘱されたのか、されていないのかはっきりしてくれ!」と叫びたくなるような凄い矛盾なのですが…、それについての私の考察を今回は書いてみたいと思います。

 

 

御隠尊日顕上人猊下御講義

 

前回は引用された涅槃経の中に「四部の衆に付嘱す」として、僧侶である比丘・比丘尼にも付嘱が為されていることを確認していただきました。

 

しかしながら国王のごとくの、(武力を含む)権力を持たない一般在家や僧侶に守護付嘱をなす意味はあるのでしょうか?

 

この疑問を解消するために以下の御隠尊日顕上人猊下の御講義をまずは拝読してみて下さい。

 

 次に、仁王経を引かれます。

 

「仁王経に云はく『仏波斯匿王に告げたまはく、是の故に諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり』已上」

 

この仁王経というのは、国土を正しく治め守るという内容において、波斯匿王に説かれたのであります。

 

この「波斯匿王」は、当時インドに舎衛国という国があり、その国の王で、釈尊と同じ日に生まれているのです。また勝軍王という名前が付いており、戦って負けたことがないという、大変武力に勝れた王であったということです。

 

その波斯匿王が深く仏法を信じ、釈尊の教えを受けた因縁から、釈尊は波斯匿王に対して仁王経を説いたのです。これは国王のごとく広く強い勢力の威力を持っておる方が、仏法を受けて正しく護持し、それによって国を治め、多くの人々を幸せにすべきであるという意義から、この経を国王に付嘱されたのです。それに対し、国王のような威力を持たない比丘・比丘尼や、一般の人には付嘱をしないというわけであります。

 

結局この国王への付嘱という趣意は、正法を護り弘めるための、王様に対する特別な意味を述べておるのです。

 

次は、涅槃経の『長寿品』を引かれます。

 

「涅槃経に云はく『今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付嘱す。正法を毀る者をば大臣四部の衆、当に苦治すべし』と」

 

これは国王にも付嘱するが、国王のみならず、さらに大臣や宰相、四部の衆にも付嘱をするということです。「四部」というのは、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷です。

 

すなわち、国王とさらに多くの方々に付嘱をし、その国民的意義において、もし正法を毀り、背く者があったならば、これをまさに「苦治すべし」、つまり懇ろにその悪心を治むべきであると示されるのです。

 

(立正安国論 211~212ページ)

 

 

 

この御講義を拝読しますと、たとえ国王のような権力を持たない者であっても、それぞれの力に応じて仏法を守護し敵対する者は退治せよとの大聖人様の御意であることが理解できます。

 

むしろこの涅槃経で申されているのは、日興上人が付嘱された伝持付嘱・弘宣付嘱と並び称される「国王に対する別しての守護付嘱」のみを言わんとしているのではなく、「内護」「外護」と立て分けされる「護法」全般のことと理解した方がより正確なのではないかと私としては感じます。(これに関する御宗門の見解というものを、私は現段階で知りませんのでとりあえず私の個人的見解として書かせて頂きます。)

 

つまり一般論としての総じての仏法守護を涅槃経を持って示し、とりわけ国王独自の権力をもって守護する別しての仏法守護を仁王経をもって守護付嘱として示していると私は思うものです。

 

護法とは?

 

顕正会員の皆様に於いては「内護」「外護」という言葉は馴染みがないと思いますので、この機会にこの言葉の意味を紹介しておきます。

 

 

護  法

 

「護法」とは、仏法を護持することをいいます。
私たち法華講員にとって「仏法」とは、日蓮大聖人の末法下種・三大秘法の大正法であり、これを「護持」するということは、日蓮大聖人の教えを固く受持し、令法久住・広宣流布に向かって折伏弘教に励み、日蓮正宗を外護していくことです。

 

護法には内護と外護がある

 

護法には、伝持付嘱をもってなされる「内護」と、守護付嘱をもってなされる「外護」の二つがあります

涅槃経に、

「内に弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」

 

と説かれているように、護法は僧俗の和合一致によらなければ、その目的を正しく全うすることはできません。

 

内護とは、「内には弟子有って甚深の義を解り」とあるように、内にあって正法を護る御僧侶の立場をいいます。

 

日蓮正宗における伝持付嘱とは、日蓮大聖人以来、歴代御法主上人の法水瀉瓶、唯授一人の血脈相承によって、法統連綿として伝えられるところの法体・法門の伝持をいいます。

 

そしてまた、日蓮正宗の御僧侶が御法主上人猊下に師弟不二の信をとって、甚深の正法正義の極理を学びつつ、伝法・伝持していく姿勢をいいます。唯授一人の血脈を伝持あそばされる時の御法主上人猊下に信伏随従し奉り、確固たる信念と絶対無比の法力を得て、教法の研鑚錬磨、言論・文筆をもって正法の興隆に努めることを内護というのです。

次に、外護とは、「外には清浄の檀越有って仏法久住せん」とあるように、外から正法を護る信徒の立場をいいます。

 

僧団の外にあって、経済的な財力、勢力をもって仏教を保護すると共に、種々の障害を除いて令法久住し、布教伝導の便宜を図ることをいいます。

 

私たち法華講員が、それぞれの仕事や家庭生活を営む上において、本門戒壇の大御本尊を根本に、時の御法主上人猊下の御指南のもと、純粋な信仰心をもって折伏、唱題、御供養等に励み、広布の進展を図っていく姿勢を外護というのです。

 

このような内護と外護を「二護」ともいいます。

 

 内護と外護は鳥の両翼、車の両輪

 

内外一体の護持は、鳥の両翼、車の両輪のように、立場を異にする僧俗の二者が、互いに信頼し合い、尊敬し合いながら、よく自身の本分を全うしてこそ、護法の目的が達せられるのです

 

法華経の『見宝塔品』に、

 

「諸の仏子等 誰か能く法を護らん 当に大願を発して 久しく住することを得せしむべし」(法華経 350頁)

 

と説かれているように、仏弟子の流類たる私たち僧俗は、互いに力を合わせて、令法久住、正法弘通のために大願を発し、さらに精進することが必要です。

私たちが日蓮大聖人の三大秘法の仏法を信ずる身となることができたのは過去からの宿縁のいたすところであり、それは日蓮正宗の一門として広宣流布、令法久住の使命を遂げんがためであり、そのために、まずもって自分自身が正法護持への決意を固めるべきです。

日蓮大聖人が、

「大願とは法華弘通なり」(御書 1749頁)

と仰せられ、また日興上人が『遺誡置文』に、

「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(同 1884頁)

と示されているように、三大秘法の広宣流布は御本仏の御命です。故に、我々は身命を賭して日蓮大聖人の大正法を弘通していかなければなりません。

 

 

護法の功徳

 

日蓮大聖人は『開目抄』に、

 

「涅槃経の疏に云はく『出家・在家、法を護らんには、其の元心の所為を取り、事を棄て理を存して、匡しく大経を弘む、故に護持正法と言ふは小節に拘らず、故に不修威儀と言ふなり』」(同 575頁)

 

と、僧俗を問わず正法を護持せんと折伏を行ずる者は、戒律等の威儀を修めずとも、それは立派に護法の人であることを仰せられています。

 

また、護法の功徳については『佐渡御書』の中で、

 

「及び余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯護法の功徳力に由る故なり」(同 582頁)

との般泥洹経の文を引かれ、正法を信受する護法の功徳によって謗法の宿業を転じて軽く受け、現世の苦を免れ、その重罪を消滅することができると御教示されています。

 

日蓮正宗は、本門戒壇の大御本尊を奉りて七百二十二年、厳として謗法を許さず、宗祖日蓮大聖人の正系の法統を継がせ給う御開山日興上人の嫡流として、厳粛に信行を続けてきた宗門です。

 

「日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(同 1389頁)

 

「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し」(同 1314頁)

 

と御指南のように、私たち僧俗は、唯授一人の血脈を承継あそばされた御法主上人猊下の御指南を拝し奉り、内護・外護の両面より一致団結、異体同心して日蓮正宗の正義を令法久住、広宣流布していかなければなりません

 

御本仏日蓮大聖人の大慈大悲を常に拝しつつ、私たち日蓮正宗の僧俗は、正法正義による世道人心の救済のため、心を合わせて固い団結のもとに、明年の法華講三十万総登山達成に向け、本年の折伏誓願貫徹、奉安堂建立御供養に精進してまいりましょう。

 

(大白法・平成13年3月16日)

 

 

 

このように大聖人様の仏法に於いては僧侶と在家のそれぞれに、その立場の性質を考慮に入れた法の護り方を別個に決められているのです。そしてその最たるものが日興上人に付嘱された伝持付嘱・弘宣付嘱と、国王に付嘱された守護付嘱なのですね。

 

結論としまして、この引用された涅槃経には「内護」「伝持付嘱」をもって法を護るべき「比丘・比丘尼」が含まれているということと、国家権力を自由に出来ない一般人としての在家が含まれていることを考えるならば、この一節も「別しての守護付嘱の文証」とする浅井さんの主張は間違いではないかと感じるのですが、いかがなものでありましょうか?

 

 

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