罰と功徳の日々

顕正会の思い出

むかし昔、顕正会に縁をして、やっと本当の仏法に出逢えた!と喜んで、毎朝、毎晩、勤行に勤しむ女子がおりました。

 

生活のすべてが仏法という法則の下にありました。

 

どんな些細な事にも、罰と功徳が付いてきます。

 

勤行を怠けた罰。

 

新聞配布をした功徳。

 

友達との仲が良くなった・・・功徳。

 

仕事で失敗した・・・罰。(自分の事に関しては、なぜか罪障消滅という。(笑))

 

長い間仏法に背いていた組織の人の生活が荒んでいるのは罰の現象。

 

望んでいた仕事に就けた・・・功徳。

 

体験発表では、病気が治った方の功徳の体験がある反面、仏法に仇を為したばかりに亡くなられた方の報告までありました。

 

信じていれば、それらは本当の事で、自分にも当てはまるような感覚に陥ってしまいます。

 

でも、実際そうでしょうか?

 

仏法から・・・否、顕正会から離れて行った人達、まして、ただ入信勤行と称してそれだけで顕正会員になってしまった方々のその後の人生が、悉く転落の道をたどっているのか?

 

現に顕正会員として活動している人達の人生が本当に幸福に向かっているのか?生活のそこかしこに功徳が溢れているというのか?

 

仏法のぶの字も知らない人達が幸せにはなれないのか?

 

夢に生きたかったあの頃に、夢を諦めて信心に没頭した自分は、幸せとはかけ離れた人生を歩んでしまっていなかったか?

 

それは罰ですか?

 

今の生活が出来ている事が功徳ですか?

 

どんなに祈っても、どんなに頑張ろうと思っても、御本尊様が応えてくださる事はありませんでしたよ。

 

結局、自分が強くならざるを得なかった・・・それを功徳と言う・・・顕正会的発想ですね。

 

臨時収入があって功徳とか、ちゃんと向き合わないから罰が出たとか、おや~?それって違いませんか?

 

安易に功徳だの罰だの言わないほうが良いですよ。

 

 

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