物事は余計なものを削って単純化して考えると分かり易くなるものです。
そもそも妙信講(顕正会)の主張というのは、
「広宣流布以前に御遺命の戒壇を建ててはいけない!」
この一言に尽きるのです。
これは全くの正論であり、これを否定することは出来ません。
昭和45年の宗務院への訴えも、昭和47年の訓諭に関する問題もすべては上記の理念から発するものであり、それ自体は何ら問題もないのです。
あとはそれをどのように主張していったか、そしてそれに対する御宗門からの反応はどんなものだったのか、更にそれに対して妙信講のとった態度は信徒として許されるものだったのか?
ここが問題なのです。
赤字は顕正会が争点とするところですが、実際の破門理由は青字のところなのですね。
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