それでは昭和47年7月1日の日達上人から浅井さんへ出された手紙の全文を紹介いたします。
昭和四十七年七月一日
一、貴殿の宗務院の通告に対する回答を拝見した。ここに至る経過をつぶさにかえりみるとき、誠に残念であり悲しみの念を禁じ得ない。私にとって何よりも気がかりなことは貴殿の行動の根底に私の真意に対する誤解が根ざしているのではないかと思われる点である。この点を明確にした上であらためて貴殿の冷静なる情慮を期することが私の責務と考える。
一、訓諭は私の真意であり法主としての私の信念から出たものである。妙信講の意見を含めていろいろな人の意見も充分考慮したが、これは私の本心からの決定である。この決定は日蓮大聖人の御遺命にいささかも違背するものではないと信ずる。私も不自惜身命の決意で御遺命の実現に全力をあげている。
一、 幸いにして私の見解はほとんどすべての宗門僧俗により支持されている。現に学会も過去の言を改め、すでに広宣流布は達成したとか、正本堂が現在ただちに御 遺命の戒壇実現であるということをいっておらず、私の訓諭に従っている。もちろん支持の多少によって私の信念がゆらぐものでもなく、たとえ大多数が反対し ても、私は私の信念を表明することにやぶさかではない。
一、教義についていろいろと意見のあるのは自由である。私は貴殿が私の意見に従うようにとはいわない。しかし、自分の解釈を押しつけるために非常手段に訴えるという態度は、信仰者として、また大事な一万講員の責任者としてとるべきではない。それは信仰の本質にもとり、大聖人の御本意ではない。又、訓諭は法主という立場上、宗門の公式見解となる。従って宗門としてはこの線に従って運営されるべきであり、これを妨げることは統制を乱すことになる。この点をよくよく理解され自重されることを望む。
一、貴殿のやっていることは私を守ろうとしてくれる誠意からかもしれないが、今、私を真に守ってくれるのは、訓諭に従ってくれることである。現在、周囲には三類の強敵が競い起こっており、これと戦うには大同団結こそ不可欠である。もしこうした私の心も受けずに逸脱した挙に出ることに固執するならばそれは私にとってまことに忍びがたいところである。どうか自重され冷静な判断をされるようお願いしたい。
私は貴殿の良識を信じている。
以上が昭和47年7月の日達上人の手紙の全文です。緑で表示した部分は折伏理論書242ページ~243ページにて浅井さんが引用している部分であり、青で表示した部分は原文そのままではありませんが浅井さんが御遺命守護の戦い139ページで引用している部分です。
しかしながら、この手紙で一番重要なのは最後から二番目の項目の赤字で表示したところなのです。
正本堂が御遺命の戒壇を前もって建ててはいけないという正論を主張するが故に御宗門は妙信講を破門したと顕正会員は信じ込まされていますが、日達上人はその正論自体を否定はしていませんよね。それはこの手紙を読めば誰にでも理解は出来ます。
それでは何がいけないのかと言えば、「自分の解釈を押しつけるために非常手段に訴えるという態度は、信仰者として、また大事な一万講員の責任者としてとるべきではない。」ということなのです。
この一点に違反したからこそ妙信講は破門へと至ったのであり、それを論点をすり替えて会員を騙しているのが現在の顕正会なのです。
何で浅井さんがこのお手紙を一部しか引用しなかったか…。
顕正会員の皆さん理解できますか?
幸にもこの両書は顕正会員でしたらどなたでも手元にある本だと思います。何度も何度もこの該当部分と、上記のお手紙の全文を読み比べてみてください。そして顕正会の主張している破門理由を今一度改めて見つめ直してみてください。
本当に御遺命を死守したことが破門理由だったのか…。
そのうえで本来どうあるべきだったか…。そこから先を知りたければお気軽に私にご連絡ください。
コメント
トチローさん初めまして。
私日蓮正宗妙相寺信徒のNと申します。このサイトで顕正会について勉強しており、大変役立っております!
ところでこのお手紙の出典を調べたのですが私には分かりませんでしたので、
どのような冊子に載っていたか教えていただけませんか?
お忙しいとは存じますが返信をお待ちしております。
Nさんはじめまして。
これは「元妙信講問題について」という書籍に載っています。
ただ、同じ題名の本は2冊存在するようで、私が引用したものは昭和50年8月1日に妙縁寺が発行したものです。
もう一つの方には載っていません。
妙相寺さんであれば、セロリさんにこの手紙が載っている方の写しを以前お送りしていますので、聞いていただければコピーがすぐに頂けるのではないかと思いますよ。
今後ともよろしくお願いいたします。