今まで確認してきた時代は比較的単純なのですが、ここからは少し複雑になってまいります。
平成3年からはハッキリと「正本堂は御遺命の戒壇では無い…、しかも将来的にも御遺命の戒壇にはならない。」と仰せになられ、それが今日まで続いているのですから、これはすごく分かり易いわけですね。
しかし、先日ご紹介しました平成3年1月6日の御隠尊猊下の御指南においても、
「だから私は登座以来、この問題についてはひとことも触れませんでした。これは、私が色々な考えをもって、「こういうことは簡単に触れるべきものではない」と思いまして、ですから今までの私の十一年間のあらゆる所における発言において、この問題に関して、はっきりと触れた所は一ヵ所もないはずであります。今日、初めてここで申し上げるのです。」
と猊下自らが仰せになっておられるように、「正本堂が将来御遺命の戒壇になり得るか否か。」ということに関しては、少なくとも御相承があった昭和54年から平成3年に至る迄には踏み込んだお言葉が存在しないわけです。ということは、この問題に関して宗内の一般僧俗においては日達上人の御指南にそって平成3年まで認識されていたということになるのです。
それではその認識とは一体どんなものであったかと言えば、「現在の正本堂は御遺命の戒壇では無い。しかし、将来において広宣流布した暁には、この正本堂が御遺命の戒壇になり得る。」といったものでした。
この赤字の部分が大いに問題あり!として妙信講は異議を唱えたわけです。
そして破門されました。
ここまで一応の事実関係だけは確認いたしました。この事実関係だけを見ていくと妙信講には何の非も無いようにみえます。むしろ悪いのは破門した側ではないか?とさえ思えます。
しかし、本当にそうだったのだろうか…。
この仏法は原因と結果を説かれています。原因の無いところには結果は無いのです。「破門」という結果があるならば、その原因になってしまった妙信講の非もまた必ず存在するわけです。
それを現役顕正会員の方々には考えてもらいたいのです。
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