さて最後に昭和40年から昭和45年についてです。
この時期は確かに正本堂が御遺命の戒壇と認識される危険性の一番あった時期です。
浅井さんの発言を見ると、既にそれ以前から学会では正本堂を御遺命の戒壇にしようとの魂胆があったと書いておられますが、たしかにそういった側面もあるかもしれませんね。
しかしあくまでも事実関係が重要なのであり、日達上人の御言葉や、宗務院の文章、そして妙信講の行動等、一切の憶測を挟まずにどのように事の経過が推移していったかを客観的にみていくことが大事だと思います。
結論から言ってしまえば、この時期は昭和40年に学会から正本堂寄進の申し出があり、それを日達上人はお受けするとの意思を表明されました。
その正本堂を学会は御遺命の戒壇であると内部には喧伝し、外部においてはそのような雰囲気を作り出していきました。
それ以前の学会における折伏による急激な信徒の増大であたかも広宣流布は近い将来に実現するのではないかとの雰囲気もまた宗内には存在しており、正本堂の御供養を募る時にはあたかも正本堂が御遺命の戒壇にあたる旨の発言が見聞きされました。
この様相は昭和45年まで続きます。
し かしながらその状況に危機感を感じた妙信講は「『正本堂』に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を送付して抗議いたしました。それを受けて日達上人は昭和 45年4月6日の御虫払会における御説法で、広宣流布は未来のことであり、現在建てようとしている正本堂は御遺命の戒壇では無いとの公式声明を出されました。
それを受けて宗務院をはじめ宗内からは正本堂を御遺命の戒壇とみなす発言は一掃されたのです。
これがこの時期の一連の事実関係です。
ですから「御遺命は破壊されそうになったが、妙信講の抗議でそれは無くなった。」というのが実際であり、御遺命は破壊されたと表現するのはいささか事実とは違います。
その点を顕正会員さんは改めて考えなくてはなりませんね。
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