私達の信仰している大聖人様の仏法では他の宗派で行っている様な、
滝に打たれたり、火の中をくぐったりというような修行はしません。
そもそも苦しみは煩悩による行動によっておこるわけですから、
その煩悩を無くしてしまえ!というのが、
上記のような修行なのでしょうが…。
いくらやっても消えないのが煩悩なんですよね。
で、大聖人様の仏法では、この煩悩を打ち消すのではなく、
「転じる」という方法を取って苦しみからの脱却を説いているわけです。
本日はそのあたりをお話ししてみようと思います。
結婚と離婚
かなり以前にあるバラエティー番組を見ていましたら興味深いことを申されている御婦人がいらっしゃいました。
「結婚する理由と、離婚する理由というのは実は同じなんですよ。」
と…。
つまり、「彼はとても優しいから好き。だから結婚するの。」という人が離婚する場合、往々にして「あいつはとんでもない優柔不断男だから嫌になっちゃったのよね…、だから離婚するわ。」となるらしいのです。
逆に「彼はね、すごく男らしいのよ。だから惚れちゃったわ。」なんて理由で結婚した人の場合、「奴は想像を絶する暴力男だったのよ…。これ以上は一緒にやってられないわ。」とかの理由で離婚してしまうのだそうです。
ここで私たちが気づかなくてはいけないのは、“彼自身の性格が変わったのではない!”ということなのですね。
「性格や性質が変化したのではなく、その性格の表の顔だけしか見えていなかったのが結婚する前であり、その性格の裏の顔まで見えてしまったのが離婚の時なのだということ。」
これはこの信心の道理と非常に近いものがあると思います。
表裏一体
この大聖人様の仏法を一言で申すならば、迷いの境地たる煩悩と、悟りの境地である法性は而二不二(二つであって二つでない…。つまり一体であるということ。)であり、それを覚知して煩悩を法性に転じることが即身成仏というものである。
といったところでしょうか…。
先の結婚離婚の例をとるならば、結婚の理由となった性格も、離婚の原因となった性格も全く別の存在なのではなく、実は同じ一つの性格であるということ。その性格の“良い面”が出たのか、“悪い面”が出たのかで結果は正反対になってしまうということなんですね…。
これって非常に重要なんですよ。
世間の人々はこの仏法で説かれた道理を知りませんから、“悪い面”を無くそうと考えて一生懸命に努力するわけです。しかし、一向に良くならない…。
けどね、これって当たり前なんです。良い面が出るか悪い面が出るかは、その人が触れた“縁”によって引き出されたものにすぎないのであり、それぞれが本来持っている性質自体は変わらないのですよ。
我々が日々読んでいる方便品の中でも「因」と「果」の間には「縁」が入っているわけですよね。つまり私たちが生まれ持った性質が「因」とするならば、どのような「縁」に触れるかによって、「果」が変化していくのです。
されば、どのような「果」を望むかによって、自然とどの「縁」に触れなくてはいけないのかが決まってくるということなんですよ。
性質と縁
ここに一本の包丁があったとしましょう。
その前に一流の板前さんやコックさんがやってきたとします。
彼らはこの包丁を使って綺麗で美味しい料理を作り出します。
一方で、この包丁の前に強盗や通り魔がやってきたとします。
彼らの手にかかるとこの包丁は人を脅かす道具、人を傷つける道具、人を殺す道具に変身してしまうのです…。
包丁そのものの性質は全く変化していませんよね。
そもそも包丁は人間が料理をするために生まれたものです。肉や野菜を要領よく切れるように作られたものです。しかしながら、それを使う人間によって、それは便利な道具にもなれば逆に人を困らせる道具にもなってしまうわけです。
本来包丁が持っている性質を良い方向に引き出すか、それとも悪い方向に引き出すかは、それに触れる人間(縁)に左右されるわけですね。
それでは一歩進めて、悪い結果を出さないように包丁の刃をつぶしてしまえ…とか、刃先を丸めてしまえばいいんじゃない?なんて考える人も出てくるかもしれませんが…、
そんなことをすれば本来の目的たる料理もまた作れなくなってしまうわけで、悪い要因だけを無くしてしまうということもまた出来ないわけです。
これが法性と煩悩との関係だと私は思います。
法性と煩悩は別々のように見えても、実際は一体であるということ。ですから、煩悩だけを無くすということは出来ないのであって、上手に触れる縁を選んで、法性本来の輝きを出させること。これこそがこの仏法の真髄であり、我々が日々目指すところなのだと思うのです。
「転じる」ということ
先程は包丁の話を致しましたが、同じ道理は私たち人間にも言えるのではないでしょうか。
昔から「悪い友達と付き合っちゃいけないよ。」と親御さんに言われた方も多かろうと思いますが、これもまた仏法を知らぬとはいえ、この道理に基づくものだと感じます。
悪い縁に触れれば自身の心の中の悪い部分が出てきてしまうものです。
とはいえ、心の中の悪い部分といってもそれを無くすことは絶対に出来ないのです。それもすべてひっくるめた上でのあなたの持って生まれた性質なのですから、それを無くすということは不可能なんです。
一番最初にお話しした結婚と離婚の原因もまた同じことなんですね。
ですから、性格(性質)をいじくるのではなく、その性格が良い方向に働くことに意識を集中させればよいだけなんです。
そこに焦点をあて、その方法論を説いたのがこの大聖人様の仏法なんですね。
世の中には幸不幸の原因が心にあるのだということにまで言及されたものは多々見受けられますが、その解決方法に迷っているように私は感じます。大聖人様の仏法はその解決方法にまで明確な道筋を説いてあるのですね。
大聖人様の仏法を未だ知らない方には是非とも知っていただきたいものです。
コメント