今年も桜が満開になりましたね。
この季節になると私はいつも仏界が開く様子を桜の花に重ね合わせてみてしまいます。
そうなんです。
桜の花が咲く道理というのは、
私たちの胸中の仏界が開く道理と同じなんですね。
これが理解できると御本尊様がなぜ本物でないといけないのか?という理由もまた理解できるんですね。
というわけで、本日は桜について考えてみましょうね。
桜の花
最近はポカポカと良い陽気になってきましたね。
寒さも緩み、
日差しも穏やかになってくると、
桜の枝にも可愛らしいつぼみが顔を出し、
それが次第に大きくなって
やがてつぼみ自体がピンク色を帯びてきて、
そして一輪の花が開いたと思ったら、
あっという間に樹全体を綺麗な花で着飾っていくんですよね…。
この桜の花と仏性の関係というものは以前にサラッと記事にしてみました。
とりあえずこれを読んでいただければ、桜も仏性も同じように「縁」によって表の顔が変化することに気づいてもらえるのではないかと思います。
今日はその先を少しだけお話ししてみたく思います。
「縁」だけは凡夫にはいかんともしがたい
以前にテレビで桜の花を人工的に満開に咲かせることが出来るかという実験をしているのをみました。
まだ冬の寒い時分に、一本の桜の木をビニールハウスのようなもので覆って人工的に春の陽気を作り出してやり、桜を満開にさせることが出来るかというものでした。
結果は1~2輪の花は開いたものの、満開にすることは出来ませんでした。
現代は科学の力が相当に進んでいるにも関わらず、桜の花が開花する「縁」を人間が作り出すことは出来なかったのです。
一方で仏界を開くための「縁」とは御本尊様であることは顕正会の皆さんもよくご存知かと思いますが、姿かたちをソックリに再現すればその本尊は人々の胸中の仏界を開くだけの力は具えるのでしょうか?
単純に考えても「それは無い!」ですよね…?
つまり、
人々の仏界を開くだけの力を御本尊様に具えさせるのが、御法主上人のみに許された「開眼」という儀式なのです。
当然のことながら凡夫である私にもその内容は全く分かりません。
しかしながら、この力は大聖人様から日興上人、そして代々の御法主上人へと受け継がれて現代にいたるわけですね。
ゆえに末法万年の衆生が成仏できる根拠もまたそこに存するということなのです。
人々の仏界を開くだけの力を昭衞さんは持っているのか?
その根拠というものは文の上から、また道理の上から証明できるのか?
これを今一度顕正会のお嬢さん方には考えてもらいたいのです。
結論
冷静に考えれば答えは一つしかありませんね?
仏界を開くだけの力を非情に与えることが出来るのは大聖人様の御内証、戒壇の大御本尊様の御内証と而二不二の御内証を所持される御法主上人猊下のみなんです。
この本物の御本尊様でしか私たちの胸中の仏界は開くことが出来ないのです。
まだ外は桜の花が開いていますので、ぜひその桜の花をじっくり眺めながら、「顕正会の本尊を拝んでいて、はたして自分の胸の中の仏界はこのように綺麗に開くのだろうか?」とじっくりと考えてみてください。
そして、
本当に仏界を開いて幸せになりたいならば、
ご連絡ください。
本物の大石寺にてお待ちしております。
コメント