桜梅桃李 2

エッセイ

前回ご紹介した今月号(平成28年5月号)の妙教にも引用されていたのですが、猊下様の御指南にも「桜梅桃李」に関して触れられた箇所があります。

 

妙教は現在発売中の最新刊ですので引用は控えますが、猊下様の御指南は平成23年の夏期講習会におけるご指南なので、該当箇所だけご紹介させて頂きます。

 

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このように、釈尊には十大弟子という代表的なお弟子さんがいたのですが、十人十色とでも申しましょうか、それぞれ智慧第一、頭陀第一、あるいは論議第一であったり、皆がその分野におけるエキスパートなのです。そういった方々が釈尊を、また教団をお護りしていたのであります。

「桜梅桃李」という言葉があります。桜や梅などは皆、それぞれに特徴があります。我々も同じではないでしょうか。日蓮正宗を、皆で護っていく。それぞれが分に応じて、桜は桜、梅は梅として、しっかりと護っていく。また、寺院を護ることも同じであります。寺院の御本尊様をどうやってお護りしていくかを考えねばなりません。

つまり、皆が同じでなくてもよいのです。かつて、釈尊やその教団を護ってきた十大弟子がそうであったように、それぞれが自分の得意分野において力を発揮し、その上で心を一つに合わせていけば、折伏もできるし、お寺も繁栄し、日蓮正宗が興隆していくのです。そして、御本尊様をしっかりとお護りすることができるのです。ですから、なんでも人の真似ばかりしなくてもよいのであります。

もちろん、良いことは大いに真似をすべきであって、その上で、それぞれの特徴を活かして信心活動に励んでいくということは、まことに良いことではないかと思います。

(信行要文三 59~60ページ)

 

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とかく現代の世の中は規格に人を押し込めようと致します。そこからはみ出したり、おさまり切れない人々は不良品として判断されがちですが、生来持ち合わせている性質というものはなかなか切ったり捨てたり出来ないものです。

 

そんな難しいことはしなくても良いんだよ。というのがこのご指南ではないでしょうか。

 

その人が本来持っている性質を良い方向にのみ発揮させる。

 

桜は桜の華やかさで人々に喜びを与え、梅は梅の落ち着いた香りと控えめな花で人々の心を落ち着かせる。

 

そうやってその人の能力を損なうことなく存分に発揮させ、世の為人の為に使わせて頂く。

 

これが一番なんだと思います。

 

その人の性質の良い部分だけを発揮させるというのは大変な難事業ですが、その不可能を可能とすることが出来るのが、我々の拝む御本尊様なのだと私は思うのです。

 

 

 

 

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