前回はバイオリンを例にとって「触れる縁によって引き出される結果は天地ほどにも違ってくる。」ということをお話しいたしました。
そして大聖人様の説かれた一念三千についても少しだけ話しました。
今回はこの一念三千に関して詳しく見ていきましょうね。
幸せになれる方程式
短所を長所に転じる…。
言うだけなら易しいのですが、実行するとなると甚だ難しいことですよね…。
これは意図的にやろうとしてもなかなかできるもんじゃありません。
でも諦めることはないのです。
大聖人様は一念三千ということを説かれました。私たちの心の中にこの世の中の一切の事象もまた具わっているということです…。
少し難しいかな…?
簡単に言えば、非常に裕福で幸せな生活をおくれる可能性も、反対にとてつもない不幸のオンパレードになってしまう可能性も、全ての可能性が私たち一人一人の胸の中に潜在的に具わっているということです。
その幸せになれる可能性…、その力を上手く引き出してあげることが出来るならば、誰でも…、一人残らず幸せになれるのですね。
それが何かといえば、その宝の珠こそが仏性というものなんです。
この仏性は煩悩という埃や垢に覆われているがゆえにその本来の輝きを見せないのですよね。ですから私たちは日々苦悩に喘いでいるわけです。
この煩悩という垢を取り除くのが南無妙法蓮華経というお題目であり、仏様の境涯を顕された御本尊様なのです。
仏様の境涯を顕した仏界そのものである御本尊様という縁に触れることによって、私たちの胸の中に埋もれている仏性を引っ張り出し、お題目でその垢を取り除いて仏性本来の輝きを甦らせたとき、私たちの心は変化して、その言動もまた善きものとなり、それが周りに影響していくからこそ、やがてその結果は善き報いとなって自分に返ってくるのですね。これこそが私たちが幸せになれる唯一の方法論なのです。
ということは…、
そのカナメである御本尊様が仏様の境涯を本当に顕しているのか…、
仏様そのものになっているのかどうか…。
これが何よりも肝心なんですね。
その大前提があってこそ、お題目も生きてくるのですし、折伏や広宣流布という修行もまた意味を為してくるわけです。
次はこの御本尊様について少し考えてみましょう。
非情の十界
私たち日蓮正宗の信徒さんが拝んでいる御本尊様とは紙と木で出来たものですね。
日蓮正宗から枝分かれした学会や顕正会もまた同じ姿をした御本尊様を拝んでおります。
「拝む」という行為は言わずもがなその対象を「仏様」と認めているわけですが、なにゆえ紙や木で出来たものが仏様となり得るのでしょうか?
その根拠というのは、我々人間のように心を持つもの(有情)が十界を具えているのと同じく、紙や木などの心を持たないもの(非情)もまた十界を具えているからなのです。
これは言い換えれば、紙や木にもまた仏性が具わっているのだということなんですね。
その仏性を顕してあげれば、単なる紙や木であっても仏様の境涯を顕した「御本尊様」となり得るわけです。
そして私たちはその「仏の境涯を顕した御本尊様」に触れることによって、自らの胸中に具わる仏界を開き、そして成仏していくという道理がそこにはあるのです。
それでは、どうやれば非情の仏界を引っ張り出すことが出来るのでしょうか?
御本尊様のことに関して
まずはじめに断っておかなくてはなりませんが、
日蓮正宗においては御本尊様のことは御法主上人猊下のみにしか許されない領域であり、御僧侶はもちろんのこと、一信徒の分際で云々してはならない事柄なのです。
しかしながら、既に数年前のことにはなりますが学会が戒壇の大御本尊様を信仰の根本から外し、また、顕正会においては戒壇の大御本尊様を根本としながらも、御法主上人猊下の御指南を軽く見るという三宝一体の教義の乱れが未だに続いております。
これらはすべからく大聖人様の御内証、戒壇の大御本尊様の御内証、そして唯授一人の血脈を御所持の御法主上人猊下の御内証が而二不二の尊体であるという信仰の根幹を知らぬゆえの不幸な結果であり、そこの理解が彼らに浸透しなければますます正法から離れていく結果となるのは明らかでありましょう。
ゆえに、けっして踏み込んではいけない範疇には踏み込まずに、何とか彼らにその辺りの理解を促せたらと思い、慎重に筆を進めていけたらと考えております。
九界に住する我らにおいても、九界の道理をもって仏界の道理を推察することは可能かと思います。当然のことながら、それだけでは限界があることは承知しておりますが、それでもその許された範囲のみのお話しによって目を開くことの出来る人々もおりましょう。
非常に繊細な作業になりますが、事の大事を肝に銘じて書いていきますので、よろしくお願い致します。また、このブログを閲覧頂いている御僧侶方におかれましては、内容に何かしら不備、注意等ございましたら、大変お手数ですがメールフォーム経由でご連絡いただけると大変ありがたく思います。何とぞよろしくお願い申し上げます。
非情は有情に従う
「非情は有情に従う。」という言葉がございます。
心を持たない物質にも十界が存在するということは前項でお話し致しましたが、心を持たないのが非情でありますから、それ単体では毒にも薬にもなりません。
その非情の性質、作用を引き出すのは、実はそこに住する有情、それを所持する有情の境涯に左右されるのです。
たとえばある人が車を購入したと致します。
ディーラーから納車されたその車は、その時点ではどのような運命をたどるのかは決まっておりません。
しかしながら、非常に乱暴で危険な運転をする方の手に渡ってしまえば、納車された翌日に大事故を引き起こして人びとを傷つける凶器になってしまいます。
一方で、穏やかで心やさしいオーナーの手に渡れば、その後何十年と車としての使命を全うし、何十万キロも人々の役にたつ存在となり得るものです。
果たしてこの両者の違いはどこから発生してくるものなのでしょうか?
車自体には差異はありませんよね。
相違するのは、その車を所持する人の心の状態なのです。
これが有情と非情との関係なのです。
非常にも十界はある…。しかしながら、その十界のどれを引き出すかは、目の前の有情に依るのである。ということなのです。
三災七難と申しますが、これもまたそれを引き起こす原因は有情の心の状態にあるのだということ…。これが依正不二の原理であり、非情の紙と木が御本尊様になり得るその秘密もまた同じ道理だと私は感じるものでございます。
浪花恋しぐれ
それでは世間的な道理の上(九界の道理の上)からも非情には十界が存する事、そしてそれは有情の境涯を顕しているものだということを考えていきましょう。
世間には色々な能力をお持ちの方がいらっしゃいます。
絵がとてもうまい方、人形(現代ではフィギュアというのかな?)を作るのが上手い方、文章を作成するのが非常に巧みな方…。
これらは全て紙や絵具、粘土やプラスチック、筆や筆記用具で表現されるものですよね。
それぞれの元の物質は何も心は持たない正真正銘の非情なのです。
ところがですよ、ひとたびそれらが上のような能力を持つ方の手にかかると、人びとに感動を与える絵画になったり、見ている者に恐怖を与える人形になったり、読んだ者が思わず涙をこぼすような文章になったりしてしまうわけですよ。
こうして作られた作品は既に心を持たない毒にも薬にもならない物体ではなくなっているんですよね。
何かしらの性質を敢然と持ち、そして周囲に影響を与えるものへと変化してしまっているわけです。
これこそが非情にも十界が存在するという証明なんです。
ただ残念なことにこれらの作品は作った方の境涯を超えることは無いのですよ。
その人が過去に経験したこと、その人の人生において培ってきた諸々の感情や人間としての厚みなどが端的に作品に反映されてしまうわけですよね。
私くらいの年代の方は覚えているんじゃないでしょうか…。
かなり前の話ですが、岡千秋さんと都はるみさんのデュエットで、「浪花恋しぐれ」というヒット曲がありました。「芸のためなら女房も泣かす。それがどうした文句があるか♪」で始まるあの演歌です…。あの途中に最高にしびれるセリフがあるんですよね…。
「そりゃワイはアホや。酒もあおるし女も泣かす…。
せやかてそれもこれもみんな芸のためや!!!
今に見てみい!!わいは日本一になったるんや!
日本一やで!?わかっているやろお浜。
なんやその辛気臭い顔は!
酒や酒や!!!!酒買うてこい!!!!!!」
っていうあれです。
この曲が流行った昭和50年代後半は私はまだ中学生でしたから、「なんて横暴な御主人なんだろう…。」なんて感じておりました…。(現代でしたら「コンプライアンス」で一発アウトですね…、昭和は良かった…。)
あれから40年…。
「俺もこんなセリフ言いたい…。」
「けど、速攻で回し蹴りを食らうだろうな…。」
なんて私の心は変化しておりますが…、そんなことはどうでもいい…。
肝心なのはこの曲は落語家さんがモデルであり、噺家さんが聞き手の心を打つためには人生の経験をより多く積み、その経験の上からよりリアルに、そして心の機微を上手く表現しなければ名人とは評価されないということに最近になって気づいたことなんですね。
そういった観点からこの曲を再度拝聴してみると、「なるほどな~。」なんて感心してしまうわけですよ。
私の好きな噺家さんに三代目桂三木助さんがいらっしゃいます。バブルの頃に自害されてしまった四代目桂三木助さんのお父さんです。
この方の噺は圓生さんのような人々をググッと引き込むパワーや、志ん生さんのようなドッと笑いを起こすものでは無いのですが、なんだかとてもリアルでして、ついつい話に引き込まれてしまうのですよね。なんだか情景がすぐ目の前に広がっていくようなかんじで…。とくにばくち打ちや渡世人(現代でいえばヤクザ屋さんですかね…。極道と呼んだ方が怒られないかな?)の描写なんてのは秀逸でして…。目の前にそれらの方々がいるようなリアルさなんですね…、ぶるぶるっとくるような…。
それもこれもこの三木助さんは“隼の七”との通り名をいただくようなばくち打ちだったそうなんです…。その経験が見事に生かされているんでしょうね。
とにかく下々の衆生の描写が上手いんですよ…。
アタシも下々の人間ですからね…。
このリアルさがビビッときてしまうんでしょうね…。
ダメダメの亭主とそれを支える奥さんとの話である「芝浜」という有名な噺がありますが、談志さんや圓楽さんの芝浜も良いですが、やっぱりアタシは三木助さんの芝浜がいいなぁ~なんて思うんですよね。
少しばかり疲れた夫婦間のやりとり…。
夜中の仕事をしていないと分からない朝焼けの空の清々しさ。
最後の告白を奥さんがするときの誇張しすぎないギリギリのセリフ回し…。
全ては経験していないと出来ない技なんですよね…。
でもって、それらを知っている人にはググッとくるんですよ…。
これこそが浪花恋しぐれのセリフの真意なんですよね…。
それにようやく最近になって気づいたんですわ…。
オッといけねぇ!御本尊様の話をするつもりが落語の話になってしまった…。
これから仕事なので、今日はこれでおしまい…。
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