「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う

国立戒壇について

最近の現役顕正会員さんとお話ししていて強く感じるのは、「法体に約しての事・義の立て分け」を昭衞さんは知っているにも関わらず御宗門にイチャモンをつけている。という事実を御存じないということでございます。

 

つまり、「法体に約しての事」を「事相に約しての事」と混同せしめて正本堂を御遺命の戒壇と吹聴して回ったのは学会であり、御宗門は昭和45年4月以降は明らかにこれらを分けて論じているのです。

 

しかしながら、何とか破門された自身を肯定しようとする昭衞さんは「学会と宗門は手を組んでこれらの誑惑を為した。」と会員さんを洗脳しているのですね。

 

したがって当時の状況を把握していただくために昭和46年に書かれた「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を全文ご紹介したいと思います。

 

赤字で示した部分は当時の御宗門には既に御遺命破壊の事実は無いという昭衞さん自ら証明している発言、黄色のマーカー部分はそれに付随する重要部分と思われる箇所です。

 

それでは時間をかけてじっくり拝読してみてください。

 

 

 

「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う

 

 

   日蓮正宗妙信講

 

「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の掲載にあたって

 

正本堂の誑惑を粉砕すべく、昭和四十五年三月二十五日には「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」(先月号掲載)の諫訴がなされ、以来、同年五月二十九日には猊下の御前で学会代表と妙信講代表が論判、結果、学会側は二度と「正本堂を御遺命の戒壇とは云わない」旨の誓いを為した。さらに浅井先生はこれを確実ならしむるため、確認書の作製を強く迫り、ついに同年九月十一日に両代表の署名がなされた。

 

しかるに学会側は破廉恥にも陰で違約をなし、なおも歪曲をくりかえしていた。よって浅井先生は直接池田会長に対し、歪曲の訂正を迫る強烈なる論文をしたためられた。それが本論文である。そして創価学会側からは一言の反論もなかった。

 

実に「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」と「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の二書こそ、御遺命歪曲の根を断つ大利剣、本宗伝統の「本門戒壇」の正義を顕わした宗史に燦たる護法の血書というべきである。

 

―編集部―

 

一、違約を憤る

 

此処に妙信講は、正本堂に就き直接創価学会々長池田大作先生に糺し・且つ訴えるものであります。

 

去る昭和四十五年三月二十五日、私共は「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め上申いたしました。その心は、大聖人究極の御本願たる本門戒壇の大事のまさに曲げられんとするを見て黙止する能わず、正本堂が事の戒壇ならざることを論じ以て宗務御当局の見解を糺し、若し事壇ならずとおぼさば直ちにこの仏法違背を摧き訂正せしめ給え、と訴えたものでありました。

 

而して宗務御当局に於ては何等の反論もなく、寧ろ同意すら示すも、所詮は力及ばざりげの体でありました。然しながら事の重大に鑑み、恐れ多くも御法主上人猊下に御指南を仰ぐことをお勤め下され、四月三日もったいなくも直々の御指南を給わりました。その御本意を窺い奉った時、私共は感激と共に、たとえ此の一命を賭してもこの御本意を守護し奉るとの決意を堅めたのでありました。

 

その後、四月十六日に至って猊下は東京に御下向、常泉寺に於て目通りを仰せ付けられました。更に、十七日・十九日と再度に亘ってその玉声に接し奉った時、私共は改めて事の容易ならざるを惑じたのであります。

 

四月二十二日、宗務当局は「臨時時局懇談会」と称し、総本山大客殿に全宗門の御僧侶、並びに学会・法華講・妙信講の代表を招集し、折からの公明党の苦境に際して、戒壇論について一気に事の解決を計らんとせられました。但し事は法義より発することなれば、道理のおもむく所に随って誤れるを正さねば解決する筈も無く、集会後席を改め、猊下の御前にて学会の代表と私共と始めて面談するも、学会に於ては妙信講の所信を認めるが如く又認めざるが如くして、曖昧のままに会は流され、但後日の論判を約するに止まりました。

 

たまたまその頃、学会の第三十三回本部総会の開催が追っておりました。前後の事情よりして、私共はその総会に一つの危惧を懐いておりました。

 

それは此の総会が内外の注視の中で行われるものなれば、若し学会が席上再び世間を欺かん為に、正本堂を御遺命の戒壇などと云えば、御臨席の猊下も既に御同意と必ず誤解される。
また「事の戒壇」なる用語にしても、猊下の御用いの御意は別意にして、決して三大秘法抄の戒壇を意味するもので無い事は前以て分明であります、学会が之を知りなから、敢えて用語の同一なるを以て、猊下の御本意を世間に誤解せしめるならば、取り返えしの付かぬ事になる、との憂いでありました。

 

思い余って、四月二十四日、森田副会長に直接申し入れ、早瀬総監の許で会談、学会の責任に於て世間に此の誤解なからしめるよう配慮すべきを強く求めました。森田副会長には之を了承されました。だがいかなる旨を了承されたのか、五月三日の結果は見事なる約束の蹂躙でありました。

 

かかる違約を見た時、私共は、かかる重大法義の確認は断じて文書を以てせざるべからずと思うに至りました。而して此の事の至難なることを思えば亦深い決意を堅めざるを得ず、そして五月二十四日、早瀬総監に此の決意を伝えるに、総監には、事は重大なれば何はともあれ猊下の御前にて学会々長と話し合うことを強く求められました。

 

此の上御意を煩わし奉ることの恐れ多さを思いつつも、勧めに随って五月二十九日登山いたしました。学会の代表は森田・秋谷両副会長・和泉理事長の三人でありました。そして猊下の御前にて問題の焦点を明確にして学会代表と論判するに、聞き及び給う猊下には、恐れ多くも御自ら、正本堂が三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇では無い事・さらに、未だ広宣流布は達成していない事を明確に仰せ出され、学会が訂正する事を御命じになられたのであります。三人の代表は、相談の上後日改めて御返事申し上げるとの事で御前を退出いたしました。

 

而して六月十一日、宗務院より連絡あって御登山、直ちに学会代表と共に再びお目通り、冒頭、森田副会長は学会を代表して、先日の猊下の仰せ出し、謹んで守り奉ることを誓い、学会発行の出版物等に於ても二度と誤らぬよう関係者にもすでに徹底せる旨を言上申し上げたのであります。

 

但し、妙信講との間の確認書だけは何故か強く拒まれました。不思議であります。他の事はともかく、此の大事に関する限りは、学会と妙信講の間に於て文書確認の為されねばならぬのは、今までのいきさつから見て当然の事であります。又、妙信講こそ此の事を迫る資格を持っている唯一の者であります。又思うに、もし学会か虚心に過ちを改むるのなら、更に、将来に亘って二度と従来の主張を為さざる決意なら、確認書を拒む理由は毛頭ない筈であります。

 

だが、その後も、此の一事に於ては言を左右にして応ずること無く、或いは「未だ論議尽きず」とすら云い出きれたのであります。されば宗務当局にその都度立ち合いを願い、六月十六日・同三十日・七月二十三日と論判を重ねました。すでに論議も尽き、道理明らか理非顕然となるも、なお確認書の一事だけは拒否を続けられました。誠に不可解至極でありました。

 

果せるかな、八月四日、聖教新聞の社説には再び堂々と正本堂を「事の戒壇」とする記事が掲げられたのであります。猊下の御前に誓い奉ったことの何と易々と破られる事よ、さればこそ将来の為に確認書は必要であったのであります。

 

此処に於て直ちに書面を以てその不誠実を詰り、確認書も認めずしてなお歪曲の主張を続けるに於ては、すでに公場に於て対決するのほかなしと、日時を切って迫ったのであります。而して日限の八月十九日、再び宗務当局の斡旋あって大講堂の一室に於て会談、火の出るような激論数時間、遂に確認書を作る旨の了承がなされたのであります。但し文書は交換せず、署名ののち猊下に納め奉ることと致しました。

 

かくて、昭和四十五年九月十一日、宗務院より早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長の出席立ち合いのもと、遂に正本堂が三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇ならざることを文書で確認、約を違えざるを誓い合った上、学会を代表して森田・秋谷両副会長並びに和泉理事長が、妙信講は私共が代表して共に署名、即日総監の手を経て御法主上人猊下の御許に収め奉り、ここに一切は落着したわけであります。

 

しかるに本日まで静かに学会の誠意を見守るに、憤りと悲しみ既に押え難きものがあります。

 

成程、人目に立ち易き機関紙等に於ては歪曲の言辞は手控えられているようであります。だが従来の主張の訂正はただの一度も為されてはおりません。訂正されない以上は、過去数年間の歪曲はそのまま生きているのであります。それだけではない。陰では平然と従来の主張がくり返えされております。いま其の事実を挙げます。

 

確認書を猊下に納め奉った翌月、即ち昨年の十月からすでに違約は始っておりました。即ち、登山者に配布された栞にはぬけぬけと次のような曲文が載せられております。

 

 

「正本堂建立の意義は、あらためていうまでもなく、大聖人の御遺命の事の戒壇であり、仏法三千年、史上空前の大偉業であります」更に云く「(奉安殿に)シキミが供えられていないのは広宣流布、戒壇建立を待っているためであり、それまでは内拝ということになっています。大聖人の御遺命たる戒壇堂の建立は、今や正本堂として四十七年に完成を見ることになっており、その上棟式が今年十月十二日に行われるのです。思えば、仏法三千年の悲願が池田会長の手によって完成されんとする現在、共に登山できたことの福運これに過ぐるものはありません」と。更に同月発行の「登山責任者の手引き」にも

 

「奉安殿には、宗門の肝要一閻浮提総与の大御本尊様が御安置されています。乃至、戒壇堂建立まで、大御本尊を厳護する所としてこれからも登山者と共に歩んで行くことでしょう」また本年に入って四月発行の「文底秘沈抄講義」には

 

「三大秘法抄の文は、事の戒壇の依文であり、事の戒壇の建立は、即、広布達成への、日蓮大聖人の御遺命でもある。乃至、ただ『時を待つべきのみ』と仰せられている、その『時』が、すでに七百年後の今日、あらゆる条件が調って、ここに実現しているのである。今こそ、まさに、その”時”なのである」

 

また「創価学会四十年史」には

 

「この儀式(正本堂発願式)は、宗門七百年来の念願の建て物である正本堂を、池田会長が発願主となって建立寄進を発願する儀式で、日蓮正宗の歴史に大きな一ページを開くものとして云々」と。

 

更には聖教新聞にも

 

「まことに仏法は不思議です。五字七宇の南無妙法蓮華経が流布して、今日七百五十万世帯を数え、しかも御聖誕七百五十年の佳節であり、来年は本門戒壇が建立される」(四六・二・十六)

 

「今、この地に、仏法史に燦たる正本堂建設の槌音がいよいよ高鳴り、戒壇の建立の日近しを告げている」(四六・ニ・十八)

 

「仏教三千年史上で未曾有の大偉業である正本堂の建立が今なされ、明秋完成しようとしています」(四六・七・二九)

 

「正本堂完成という、三千年来の仏法史を画すとき、私達は代々の会長の広布にかけたにじみでる行動、斗いに思いを新たにせずにはいられない」(四六・九・二一)等々。

 

いったい何の為の確認書であり、約束であったのでありましょう。内心少しも改悔する所なく表面だけの糊塗であった事は歴然であります。

 

だがこれ等枝葉末端の違約は未だ軽し、池田会長自身の違約は何事でありましょう。即ち本年七月度の本部幹部会に於て

 

「この生命の座とも云うべき正本堂は全地球上・仝宇宙を救うべき根本の道場です。それを財界人の力によったのでもなく、権力の力によったのでもなく、私共貧乏人の我々が力を合せて真心をこめて、大聖人様の御遺命である正本堂を建立したのであります」(座談会用レコード所録)と。大衆の前で正本堂を指して再び「大聖人様の御遺命」と高言されております。これいかなる事てありましょうか。

 

亦復、今月十二日、正本堂軀体完成式にはその表白に云く

 

「是くの如く定慧は在世に之を建立し、円戒を後世に遺されしより春秋を累ねて法灯は連綿六十六世、異体同心の修行・折伏の星霜相積もって既に六百九十二年、今まさしく順縁広布の機熟せり。止住の戒場正本堂の建立進捗して、未曾有の大宝塔地より躍り出でんとし云々」と。

 

表現婉曲と雖も、文意明かに正本堂を滅後に遺命せられし本門戒壇と指しております。故に此の文を同日の聖教新聞社説に釈して云く「正本堂は池田会長の『正本堂軀体完成表白」に述べられているように、円戒であり、乃至 円定(本門の本尊)、円慧(本門の題目)は七百年前、日蓮大聖人の崇高な実践により建立顕示されているが、円戒(本門の戒壇)はこれを後世の我々にお残しになられた」と。以て会長の述べんとする意明らかであります。

 

思うに、末法の戒定慧・三大秘法は大聖人の御建立にして、定・慧の二法は勿論のこと、円戒の一事もその義に於ては御在世にすでに成っているのは申すまでもありません。故に寛尊は「当知是処即是道場」「仏住其中即是塔義」の意を以て、大御本尊在します大石寺を指して「故に当山は本門戒壇の霊地なり」(取要抄文段)と仰せであります。然るに、御在世に成らずして後世に残し給う円戒と云えば、これ一天広布の暁を待って立てられる事相の戒壇堂を指す事は自明の理であります。それか正本堂に当ると云えば、たとえ婉曲の表言を借りるとも、その云わんとする所は全く従来の歪曲のままではありませんか。会長自らのかかる違約は重大であり、何と解釈したらよいのでありましょう。更に亦復聞く、「正本堂という仏法史上未曾有の大殿堂」(第三十四回本部総会講演)等云々。

 

およそ仏法の世界は政治の策略の世界ではありません。大聖人の御眼を恐れる裏も表もない真心の世界であるべき筈であります。しかるに此の不誠実を見るとは。破廉恥とはまさに此のことを云わずして何を云いましょう。

 

而して御書の意に云く、高貴の人は約束を違えず、例せば季札のごとしと。蓋し、学会の会長にしていかで高貴ならざるべき。されば或いは、かの確認書なるものは、森田・秋谷・和泉の三人の勝手なる所行にして、会長は何ら与り知らぬ所であったのでありましょう。

 

されば、法の為、国の為、時に当ってこれよりの大事はなければ、此処に直接池田会長に強く糺し訴えんとするものであります。

 

ただ、猊下の任命し給いし信徒の棟領たる法華講総講頭・且つは数百万会員の長に対し、賤身を顧ず輙く莠言を吐く事・頗る驕慢に似て畏れあるも、権威を憚りて云わぬは諛臣、又仏法中怨の責め免れ難けれぱ、敢えて云い切るものであります。御書に云く

 

「伝教大師云く『凡そ不誼に当っては則ち子以て父に争わずんばあるべからす、臣以て君に争わずんばあるべからず、当に知るべし君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず』、法華経に云く『我不愛身命但惜無上道」、涅槃経に云く『讐えば王の使の善能談諭し方便に巧にして命を他国に奉ずるに寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し智者も亦爾り』、章安大師云く『寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』、又云く『仏法を壊乱するは仏法中の怨なり、慈なくして詐り親むは則ち是れ彼が怨なり、能く糺治する者は彼の為に悪を除く則ち是れ彼が親なり』、云々」(頼基陳状)と。

 

只ここの御金言に任せ奉る。

 

二、改めて仏法違背の文証を挙ぐ

 

初めに、学会が過去数年間、いかように御金言に背いて本門戒壇を歪曲して来たか、その事実を改めて此処に挙げます。

 

これは正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の事の戒壇」「大聖人の御遺命の達成」「宗門七百年の悲願の実現」などと偽ってきた厳然たる文証である。その文書は膨大、集めれば正に汗牛充棟も啻ならず、昭和四十年二月十六日より実に数年に亘って筆にロに繰り返されて来たことである。その勢いの凄じきこと・為に宗門一人としてこの義を承伏せざるは無く、その影響の大なること・一般世間までも大聖人の御義はかくなるかと思うに至ったのである。
膨大の中から大綱をとりその一端を示す。

 

ます池田会長白身の発言、これこそ何より重い。四十年二月十六日の猊下の御説法により、正本堂が七百年来の遺命たる戒壇建立に当るとして、直ちに全信徒に対する御供養が募られたが、その御供養趣意書から、すでに偽瞞は始まる。四十年三月のこの趣意書には冒頭に猊下の御説法を引用し、これを承けて云く

 

「かねてより、正本堂建立は実質的には戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明かになったのであります。正本堂建立の意義はまことに甚深であり、その御供養に参加できる私たちの大福運は、なにものをもってもたとえようがないと思うのであります」と。

 

更にいよいよ御供養の開始されんとする一ヶ月前には、重ねて

 

「御本仏・日蓮大聖人様の御遺命たる本門戒壇建立のため、広宣流布のため、正本堂建立に御供養申し上げる大福運と大功徳は、釈尊在世中よりも数千万億倍すぐれ、日蓮大聖入御在世中よりも、なお偉大なる感激を覚えずにはおられない」(大白蓮華、 40・10月号)と。

 

これを見るに、正本堂は御供養の始めから欺瞞に満ちゝていると云わざるを得ない。およそ正宗信徒なら一人として広宣流布を熱願せぬ者はなく、大聖人の御遺命たる戒壇建立を熱禱せぬ者はない。だが俄かに正本堂がそれに当ると云うとも、東を西と云い・天を地と云うほどの僻事を誰が信じよう。そこで猊下の権威が利用されたのである。

 

顧れぱ始めて学会が正本堂を云い出した三十九年五月三日の総会では、さすがに会長も云いかねて、自ら正本堂と将来立てられるべき本門戒壇堂を明確に区別している。それがどうしたわけか、僅か九ヶ月のち、俄に正本堂即事の戒壇即御遺命の達成と変更されて了ったのである。しかも、すべては四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会に於ける猊下の甚深なる御説法によるものと宣伝されている。だが不思議なるかな、猊下のその時の御説法を拝見するに、一言もそのような御言葉はない。よくよく拝せば否定すらしておられる。いや仮りに万々が一有ったとしても、三大秘法抄の御金言はすでに明々白々、誰かこれと紛れる者があろう。
況や猊下の仰せには全く一言も有られないのである。それをいかにも甚深の御会通に依って決判されたかの如く見せかけ、猊下の御意として会長から全信徒に打ち出されたのである。

 

されば信ぜざる信徒は一人として有るべくも無い。ここに全信徒を挙げてあの血の惨むような、一切の蔵の宝を抛った御供養は為されたのである。まことに末端の信徒の純信を思いやれば痛々しく、ただ無懺というの他はない。

 

而して、御供養を完了した後には益々これを偉業として自ら讃え、いよいよこれから内外への大宣伝が始まるのである。

 

まず四十一年七月発刊の「立正安国論講義」には

 

「正本堂建立こそ、日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙ということができるのである。乃至 日蓮大聖入御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって完全に終了するのである。」又云く「『実乗の一善に帰せよ』とは、三大秘法の広宣流布、本門事の戒壇を建立せよとの御命令である。この大聖人の御遺命を奉じて御弟子日興上人以来七百年、日蓮正宗においては不惜身命の国諌をなし、折伏行に邁進し、邪宗門流を破折しきってきたのである。乃至 本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される段階となった。七百年来の念願であり、久還元初以来の壮挙であることを確信してやまない」と。

 

更に四十二年の五月、第三十回総会に於ては

 

「正本堂は、さる四十年二月の第一回正本堂建設委員会において、日達猊下のご説法にあったごとく、事実上の本門戒壇であり、世界平和祈願の根本道場であります。三大秘法抄にいわく「三国並びに閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり』乃至 この戒壇建立を、日蓮大聖人は『時を待つ可きのみ』とおおせられて、滅後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄になるところでありました。だが『仏語は虚しからず』のご金言どおり、いまや地涌の菩薩が、雲霞のごとく涌き出で、大法弘通に邁進し、ここに、その誠意と情熱が結晶し、七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります。この壮挙を、脚本仏日蓮大聖人はどれはどかお喜びでありましょう。 乃至 正本堂完成により、三大秘法が、いちおう成就したといえるのであり、『立正安国』の『立正』の二字か完壁となるのであります』と。

 

そして四十二年十月、いよいよかの発願式に於ては、その「発誓願文」なるものに断定して云わく

 

『夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業なり…………三大秘法の流布においては、御本仏日蓮大聖人は、建長五年四月二十八日立宗宣言と共に本門の題目を唱えられ、それより二十七年を経て弘安二年十月十二日本門戒壇の大御本尊を建立せられて之を出世の本懐と遊ばさる。依って、本門戒壇の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ云々』と、滅後の末弟に遺命せられしなり。…………今茲に発顧せる正本堂は、文底独一本門事の戒壇にして、唯我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄とを祈願すべき根本道場なり。…………すでに国内においては六百数十万世帯を達成して、正に舎衛の三億の実現を眼前にす。更に王仏冥合の進展は、衆参合わせて国会議員四十有五名に達し、有徳王・覚徳比丘のその昔の法戦を本格的に展開せんとす。 乃至 かくして内外の機熟して、本門の大戒壇その建立発願の大盛典を挙行するに至りぬるは、之れ偏えに仏意仏勅の然らしむるところか、悦ぴ身に余り、感激筆舌に尽くし難し………詮ずる所、正本堂の完成を以て、三大秘法ここに成就し、立正の二字すでに顕現せんとす」と。

 

更に四十三年の着工大法要には

 

「日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり』云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要を血脈付法第六十六世日達上人猊下の御導師により、無事終了することかできました」と。

 

更に四十四年の定礎式には、そのカブセルの銘に云わく

 

「此の正本堂は一間浮提総与の大御本尊を御安置し奉る法華本門事の大戒壇である」と。

 

池田会長自身の発言、その大綱かくのごとし。

 

さればこれに習って、一般会員の教科書とも云うべき折伏教典(改訂三十五版)には

 

「戒壇とは広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式にご安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。」又云く「戒壇については、すでに三大秘法を成就する本門の戒壇・正本堂か昭和四十七年完成の運びとなり、民衆立の名にふさわしく、八百万信徒の御供養が結集されたのである」又云く「宗門にとって七百年来の念願であった本門戒壇は昭和四十七年に建立される」と、これまた明確に断定をする。

 

更に、教学研讃の依怙とすべき仏教哲学大辞典を見れば、「本門の戒壇」の項に云く

 

「昭和四十七年(一九七二年)、日蓮正宗総本山大石寺に建立される正本堂が事実上の本門戒壇にあたる。この戒壇は仏法史上三千年来の念願であり、末法事の戒壇にして、日本民衆の鎮護国家の道場のみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄を祈願すべき根本道場となる。日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。遠くは釈迦・天台・伝教等も各々の使命をもって法華の広宣流布をしてきたが、その内証においては本門事の戒壇建立を顧っての戦いであり、先序をなしたのである。日進正宗においても、第二祖日興上人以来丑寅勤行をもって六百数十年にわたって一日の怠慢もなく広宣流布達成の大願成就を御祈念してきたのもこのためであった。創価学会初代牧ロ常三郎会長、第二代戸田城聖会長の死身弘法の戦いも同じであった。時来って日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目にして、宗門においては、第六十六世日達上人、創価学会においては、第三代池田大作会長の時代に本門の戒壇建立が実現せんとしている」

 

同じく「事の戒壇」の項には

 

「本門の戒壇に義と事がある。事の戒壇とは広宣流布のときに本門戒壇の大御本尊を安置し奉る所である。事の戒壇の位置は、百六箇抄に『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』とご相伝されている。また三大秘法抄には『戒壇とは王法仏法に冥じ、乃至 蹋給うべき戒壇なり』と示されている。広宣流布の時到来し、本門戒壇の大御本尊は奉安殿から本門戒壇堂である正本堂へお出ましになるのである」

 

同じく「正本堂」の項には

 

「正本堂が建立され、本門戒壇の大御本尊がご安置されることは、本門の戒壇建立、すなわち化儀の広宣流布のの(ママ)実現である。日蓮大聖人の教義の根本は、三大秘法であり、三大秘法とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目である。乃至 三大秘法の中で、本門の題目の建立は、建長五年四月二十八日であり、本門の本尊の建立、すなわち法体の広宣流布は弘安二年十月十二日に達成された。そして本門の戒壇については、弘安四年四月八日、三大秘法抄において、日蓮大聖人は化儀の広宣流布を後世の弟子に遺命されたのである。三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ、乃至 蹋給うべき戒壇なり』とおおせである。今まさに、本門戒壇建立の時である。すなわち大御本尊を信受し、功徳に浴し、歓喜してぃる衆生が、日本ばかりでなく世界に満ち、日蓮大聖人のご予言である化儀の広宣流布の時が到来したのである。ここに於て、法華講総購頭・創価学会第三代会長池田会長の発願により、これ等純信な民衆の心からの供養によって、正本堂の建立が実現されることになった。したがって、本門戒壇の大御本尊が安置される正本堂こそ、日蓮大聖人の弟子が長い間待望し、念願していた本門戒壇なのである。乃至 したがって正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり、世界にいまだ曾ってない大殿堂である」と。

 

かくのごとく、潮のように押し寄せる文書を見ては、正本堂を御遺命の戒壇建立、広宣流布の達成と思わぬ者は一人として無い。されば学会員のみならず、法華講員は勿論、さらには宗門御僧侶まで先を争って之を讃歎し、かくて宗門一同の義とはなったのである。御僧侶の讃辞を参考までに二・三挙げれば

 

「義の戒壇と申しますのは、御本尊御安置のところ全て義の戒壇と申します。今の奉安殿も、客殿も、又この御影堂も、そして皆様方の御家の御本尊様を安置申し上げてある仏壇も皆義の戒壇です。これに対して事の戒壇と申しますのは、三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ、乃至 事の戒法と申すは是なり』と説かれてあります如き、大聖人様の仏法広宣流布の時、建立されるべき事実の戒壇であります。 乃至 宗門七百年の歴史は実に只この一事を成就するためのものであったと云っても過言ではございません。一日たりとも欠かさざる所の丑寅勤行もひたすらこれを待っていたのではございませんか。皆さん、それがどうでしょう。去る十月十二日に正本堂の建立発願式が執り行われました。この正本堂こそは、本門戒壇の大御本尊様を御安置申し上げる、事実上の本門戒壇、事の戒壇と承け給っております。大聖人様が『時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり』と申されましたのがこの正本堂でございます。宗門が七百年間待ちに待ったのが、この正本堂建立発願式でございます」(大日蓮二六五号)或いは云く

 

「私共は子供の時から『広宣流布』とか『戒壇建立』とかの言葉を常に耳にし、口にしながらも、何か遠い未来の夢の如くに考えておったものでありますが、それが私共の時代に先づもって『戒壇建立』の実現を見ることが出来るということは、本当に身の福運を感ぜずには居られません」或いは云く

 

「この正本堂建立こそは、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に、『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」或いは云く

 

「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂建立発願式こそ、三千年の優曇華、一眼の亀の浮木に超えたる最大歓喜である」或は云く

 

「もったいなくも代々の御法主上人猊下は本門戒壇堂建立の為に、日夜身命をなげうって御精進をなされて来たのであります。『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是なり』霊山の誓いが、今ここに実現しようとしているのである」或は云く

 

「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念顧であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の脚祈念せられて来た重大なる念願であります」(以上何れも大日蓮二六一号所載)と。

 

ここまで写し来って、憤りと悲しみ、肚の底からこみ上げてくるのをどうしようもない。諂いとは云いながら、どうしたらこんな事が云えるのか。「所詮仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」又「無道心の者生死をはなるる事はなきなり」と、日輪のごとく明かなる大聖人の三大秘法抄を拝しながら、何ゆえ御金言を軽んずるのか、かかる諛言、まことに恥ずべく恐るべしと思わずにはいられない。外道の賢聖すらなお「九思一言」の用心あり、況や大事の仏法を論ずるにかかる軽卒は許されない。

 

だが軽卒と云うには余りにも重大、天を地と云い、東を西と云うほどの見易き誤りが何故にかくも易々と全宗門に受け入れられたのであろうか。一天広布の暁の国立戒壇は宗門七百年・歴代先師上人によって一分も曲げられずに伝えられ、宗門に生きる者なら三才の童子もよく知る所である。その大事がどうしてかくも安易に変更されて了ったのか。仏法の壊乱これに過ぎるものはなく、まさに宗門・国家にとって第一の大事である。これ、先に云うが如く、此の義があたかも猊下の御意のごとくに伝えられ、その上に学会会長の絶対権力を以て打ち出されたが故である。

 

ここに報恩抄の仰せを身にしみて拝せずにはいられない。

 

「例せば国の長とある人・東を西といゐ天を地といゐだしぬれば、万民はかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東・汝等が天は地なりといはぱ、もちうることなき上・我が長の心に叶わんがために今の人をのりうちなんどすべし」と。

 

さればここに卑しき妙信講あって、正本堂は三大秘法抄の戒壇には当らず、御遺命の達成には非ず、これ御金言を詐るもの、訂正せずんば国も宗門も危うしと云えば、必ず狂気の者・慢心の者と罵られ遂にはどのような事身に及ぶとも、御本仏の御誠めは重ければ只御金言にまかせ、一命を賭してもこの仏法の違背を糺明するものである。

 

 

三、既に三大秘法抄に背き奉る

 

 

先に挙げた学会の諸文、いずれも三大秘法抄或いは一期弘法抄を引き、正本堂がその事の戒壇に当る旨を断言しているが、いかに解釈すればそのように会通できるのか。まこと牽強附会・曲会私情と云うも及ばず、只々不思議を感ずるのみである。

 

三大秘法抄には日月のごとく分明に事の戒壇の相貌を示し給うとも、不正直の眼には一も三と読め、欺誑の心には白も黒と映ずるのか。されば学会に於ては、事壇建立の前提条件たる広宣流布の相さえ御金言を糊塗して、あたかも今が広言流布達成のごとく歪曲し、或いは「舎衛の三億」といい、これが通用せざると知れば「広宣流布とは終着点のない流れ自体」などとぼかし、更には「一往は正本堂建立が広宣流布の完成、しかし再往は新しい広言流布、即ち真実の世界の広宣流布の開幕」などと云い、更には「日蓮大聖人以来の法体の広宣流布が今日果実を結び、世界への化儀の広布の始まり「(已上会長講演)等と云う。まことに矛盾瞳着・支離滅裂、一々論ずるまでもない。

 

今、改めて清浄・正直の眼を以て三大秘法抄の御聖文を拝し奉る。

 

「戒壇とは王法仏法に冥じ・仏法王法に合して、

王臣一同に本門の三秘密の法を待ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、

勅宣並に御教書を申し下して、

霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、

時を待つ可きのみ、

事の戒法と申すは是なり」

 

御金言赫々明々、津々として丁寧、一点の己義をさしはさむ余地も無い。伏して拝するに、本門戒壇の大事は御本仏大聖人の御本願なれば、遠く未来を慮りて御自ら定義を下し給い、日本国にかかる条件の整いたる時始めて建立すべし、それまでは立つるべからずと厳然と定め給うたのである。此の重大なる御金言、背けば既に仏弟子ではない。曲げれば既に宗徒では無い。

 

此処に念の為、謹んで御聖文の御意重ねて拝し奉る

 

 

「王法仏法に冥じ・仏法王法に合して」とは、初めに戒壇建立の前提条件を総じてお示し遊ばすものと拝し奉る。戒壇の建立は、一個人や一集団・漠然たる民衆の帰依などと云う段階で為されるものでなく、実に日本一国を単位として、国家的な帰依の為された時に始めて建立されるべきことを先ず示し給う。

 

「王法」とは一国の統治主権である。即ち政治学に云う所の、国家を構成する三大要素たる領土と人民と主権のうち、主権こそまさしく仏法に云う「王法」に相当する。断じて「もはや国王を指すのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば政治・教育・文化等社会全般のことを指す」(三十三回総会会長講演)とか「広い意味では個人の生活・一般社会の諸活動を含む」(折伏教典)などとぼかしてはならない。正しく「王法」とは統治主権そのものであり、平たく云えば一国の政治・それに併う権力を意味する以外の何ものでもない。御書四百余篇に大聖人がお用いの御意悉く此れを指し給う。若し他の御用例あらばお示し頂きたい。

 

而して一国の運命はこの統治主権・国家権力の在り方に左右される。そして凡ゆる個人は国家に包含されてその影響を受けざる者はない。ここを以て「一切の大事の中に国の亡ぶるが第一の大事」とは仰せられる。されば個人を安穏ならしむるには一国安泰たるべからず、一国安泰たるには王法仏法に冥ぜざるべからず、ここを以て、一国の政治が宗教の邪正にめざめ捨邪帰正せよ、と練暁遊ばしたのが大聖人御一代の御振舞いと拝し奉る。立正安国論一巻の御主旨も之に他ならず。更に四十九院申状にも「第三の秘法今に残す所なり、是偏に末法闘諍の始、他国来難の刻、一閻浮提の中に大合戦起らんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり」と仰せられ、国政の根本に三大秘法の正義を用いる事を強く勧め諌め給うておられる。

 

くり返えす。王仏冥合とは国家次元に於ける正法への帰依であり、未だ個人や漠然たる民衆の帰依と云う段階では断じて云い得ない。二人・三人・十人・百千万億人と伝え唱え、遂にはそれが国家の意志にまで及び国政の次元に於て捨邪帰正が為された時、始めて王法が仏法に冥じた、と云い得るのである。この王仏冥合こそ、本門戒壇建立の大前提条件と大聖人は定め給うのである。

 

念の為付け加えれば、本門戒壇の功徳は全世尊にも及び、将来は八万の国々の王臣万民も参詣するも、その建立は日本国に於ける王仏冥合の時を以て為される。これ日本が三大秘法広宣流布根本の妙国なるに依る。他国への気兼ねは一切不要である。

 

さて、この王仏冥合の事相を、更に具さに人に約して示し給うたのが次文と拝する。即ち

 

「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と。

 

王法が仏法に冥ずる姿は、具体的には当然国政に携わる者の三大秘法受持となってあらわれる。それも形だけの信仰、政治に宗教を利用するごとき卑しきものでなく、正法を護り奉るに於ては一身はもとより、国家の運命すら賭して悔いぬとの純粋捨身の信心に立つものでなくてはならない。

 

安国論には有徳王・覚徳比丘の故事を引き、王法に対し守護付属の発動を促がし給うも、御在世には未だ時至らず、よって末法濁悪の未来にこの姿が事相となって現われる時を持って戒壇を建立せよと仰せ遊ばす。

 

「王臣」の二字は、「王」とは日本国の真の国主にて在す天皇陛下、臣とは直接政治に携わる大臣等である。「王」の一字は時代に約し政体に約し様々の会通も出来ようが、究極するに日本に於ける真の国主は皇室を措いて他にはない。時流に阿ねる浅浮の会通は必ず後世に恥辱を招くものと云わざるを得ない。すでに紫宸殿の御本尊は未来を徹見し給いての御本仏の設けである。何で数百年で通用しなくなろうか。本国土の霊妙・皇室と仏法の不思議な冥契、三世了達の仏智を蔑ってはならない。

 

しからば「王臣」のみにして万民はいかにと云うに、「王臣」の二字に万民一同は摂し給うものと拝する。王臣帰依の前提に、全民衆の燃えるような信心がないわけはない。撰時抄には

 

「衆流あつまりて大海となる、微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一帝一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし、仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」と。又諸法実相抄には

 

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰え広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱えん事は大地を的とするなるべし」と。

 

かくのごとくんば、王臣受持の前には全民衆の三大秘法受持があるのは当然であり、寧ろ民衆帰依の必然の結果が遂には一国の王法にも及ぶと思われる。然しながら、繰り返し云う如く、漠然たる民衆と云う段階では未だ王法仏法に冥ずるとは云い得ない、此処を以て、王法にまで及んだ究極の姿に約して「王臣」と仰せ遊ばすものと拝し奉る。然れば王臣の二字に万民一同を含ませ給うは理在絶言である。

 

時来るならば、上は天皇陛下より下万民に至るまで、日本一同に声をつるべて本門の題目を唱え奉る事の必定なること、既にこれ大地を的とする御本仏の御金言であられる。かかる時を歴代上人は「事の広宣流布」と仰せられ、事壇建立の時として七百年来待ち給うたのである。
断じて広宣流布とは「舎衛の三億」や「終着点のない流れ自体」とか、「一往は達成、再往は世界へ」などの曖昧なものではない。

 

だが御本仏の戒壇建立の御定めは更に厳密を極めておられる。かかる事の広宣流布の時来るとも、直ちに宗門で勝手に立てられるべきものではない。そのまま立てればどれ程大規模であっても、民衆の参加があろうとも、なお、私的建立に堕する恐れがあるからである。本門戒壇は国家そのものが帰依の誠を尽くし国家的公事として建立さるべきものである。されば事の広布と雖も、欠くべからざる手続きが必要である。この手続こそ正式なる国家意志の表明である。この御意が次文の

 

「勅宣並に御教書を申し下して」

 

の御一文と拝し奉る。「勅宣」とは天皇陛下の詔、「御教書」とは政府の意志であるは論を俟たない。敗戦後の変態社会においてすら、国事には国会の議決・内閣の意志と共に、天皇の承認は欠くべからざる事項となっている。況や事の広布の時に於ては論ずるまでもない。

 

いかに民主主義の世とは云え、条約法令等の国事が、単なる民衆の要望などという次元で為されるものではない。国家ある以上は必ず正式の国家意志に表われねば凡ゆる国事は為し得ない。本門戒壇の建立こそ国家そのものが仏法に順応して成仏の徳用を顕わす国事中の大国事である。されば日本における国家意志たる「勅宣並に御教書」が申し下されねば本門戒壇は立てられるべきではない。これが大聖人の御定めである。

 

されば日淳上人は本門戒壇の性格を端的に「大聖人は広く此の妙法が受持されまして、国家的に戒壇が建立せられる、その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは三大秘法抄によって明白であります」(日淳上人全集)と御指南されている。

 

ここに、正本堂のごとく未だ国家と関与せぬ「民衆立」の戒壇などは、三大秘法抄の仰せに何等関係はない。又全民衆の要望なら当然国会の議決を経て国家意志と表われて然るべきものである。所詮、民衆・民衆とは云いながら、奪って論ぜば単なる宗門立である。また宗門の信者の赤誠を以て時来るまで巌護し奉る堂宇なら、正しく大御宝蔵・大奉安殿の意であって、その意を正直に貫いてこそ大聖人にその赤誠は通じ奉るのである。それを詐っていかにも究極の戒壇なるが如く偽瞞すれば、八百万信徒の真心はどうなるのか。

 

また聞けば、「国立戒壇などと言う言葉は御書のどこにもない」などと頻りに繰り返えしているが、それなら「民衆立」と云う文が御書の何処にある、椎戯は止めるべきである。

 

正しく、王法仏法に冥した暁、勅宣・御教書を以て建てられるべき戒壇は国立戒壇ではないか。また「国主此の法を立てらるれば」と一期弘法抄に定め給う戒壇は国立戒壇そのものではないか。故に歴代上人は三大秘法抄・一期弘法抄の御意を端的に国立戒壇と表現し給うたのである。これを否定せんとすればすでに御金言を否定しなけれぱならなくなる。

 

 

若し三大秘法抄を尊重するのなら、改めてお聞きする。

 

今日、果して王法が仏法に冥じているのか、王臣一同に三大秘法を持っているのか、勅宣並びに御教書は申し下されているのか、かかる御本仏の厳格なる御定めを悉くふみにじって立てられる正本堂が、どうして「三大秘法抄に予言された通りの相貌を具えた戒壇、これこそ化儀の広宣流布の実現」(仏教哲学大辞典)などと云えるのか。曲解もほどほどにしなければならぬ。

 

なおこれを主張し歪曲を訂正せぬのなら、正しく大聖人一期の御遺命を曲げる者、仏法違背の人と断ぜざるを得ない。

 

然るに自讃して云く「正本堂の建立こそ私の出世の本懐である」(創価学会)と、又云く

 

「報恩抄にいわく『法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給いたり』と。 乃至 インド・中国・日本の三国にわたり、二千余年の仏教の歴史において、時に応じて出現したあらゆる論師・人師・大菩薩・大僧正等々と崇重されし人々よりも、日蓮大聖人の御弘通が勝れたもうこと百千万億倍である。しかるに日蓮大聖人は、本門の題目・本門の本尊のみ建立あって本門戒壇の建立は後世の弟子へ遺付あそばされたのである。ゆえに後世において、その時を得、本門戒壇建立の成就される時こそ、三千年の仏教史における最も重大な時である」更に「創価学会が出現しなかったならば、釈迦・多宝・十方の諸仏はもとより、日蓮大聖人までが大虚妄の仏となってしまう。仏滅後二千九百十余年、全世界において、釈尊および日蓮大聖人の御言を助けたる人は、ただ創価学会のみである」(撰時抄講義)と。

 

 

諸々に、「仏教三手余年史上空前の偉業」と正本堂を自ら讃えるのは此の意であったのか。ついでに破しておく。天台未立の円頓の戒壇を伝教の立て給えるを以て、天台よりも伝教勝れたりとするは確かに御書の御意である。だが、これを以て大聖人滅後の本門戒壇建立に例するは甚しく不当である。それでは大聖人の弘め給うたのは二大秘法となってしまう。然るに諸御書の意には如来滅後二千余年天台・伝教未弘の三大秘法とはあるも、二大秘法とはない。天台は円定・円慧のみ弘めて未だ円戒を定めず、依って伝教は四教開会の迹門の教主釈尊を造立して迹門戒壇の本尊とし円頓の大戒を定めたのである。

 

だが大聖人の御法に於ては、戒・定・慧の化法は御在世にすべて定められ給うている。これ本門戒壇の大御本尊に三大秘法のすべての義は具わり給う故である。此の化法に於て滅後に付け加える何ものがあろう。

 

正しく所引の報恩抄の御文はこの化法に約して能弘の人の勝劣を判じ給うのである。故に迦葉よりは馬鳴、馬鳴よりは天台、天台よりは伝教と例せられる。然るに大聖入御滅後の戒壇建立は化儀の段である。故に一例ではない。若し化儀に例を求めるならば、伝教滅後の弘仁十四年の迹門の戒壇建立を挙げるべきではないか。されば富木抄には「伝教大師御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円或は死後に之を顕わす。事法たる故に一重の大難之れ有るか」と。

 

かかる見易き化法と化儀の法相を混同させ、大聖人と比肩して一体何を云わんとしているのか、大聖人の御滅後は、ただ「和党共二陣・三陣」の随力弘通、それすら大聖人の御威徳によらずして誰が為し得る。況や事の戒壇と自讃する正本堂は全く御金言に背くものである。かくのごとく詐ってなお身を挙げるに於ては、御本仏いかように御覧遊ばすか、大聖人の御憎れを蒙っては誰人の身が持とう。

 

 

 

四、遁辞を遮る

 

 

 

此処に於て或いは遁辞を構えて云うべし。現時点に於て未だ三大秘法抄の条件満足せざるは勿論なり、故に不開門は未だ開けず、但し建物だけは前以て作りおくのみ、故に後を以て前を称するに事の戒壇と云うも可なりと。されば屡々聞く『銅像と除幕式」云々と。

 

今、この遁辞を遮らん。

 

前以て建物を作るを大聖人若し許し給うならば、何ゆえ三大秘法抄・一期弘法抄の御定めはありや。両抄共に戒壇を立つる前提条件を定め給いてのち誠めて云く「時を待つべきのみ」と、既に此の御制誠に背く。(是れ一)

 

 

また、大聖人は一国の謗法を許し給わず。故に三度諌めて後、なお改悔せぬ幕府を見ては政都に留り給う事なし。その後は「何なる主上・女院の御意たりと云えども」(教行証御書)と仰せられて深山より一歩も出給わず。これ一国の謗法を容認せず、与同せざるを示し給う御振舞いと拝し奉る。されば御滅後に於ても広宣流布以前には大御本尊を固く深く厳護し奉り、時来らざるうちの参詣はなお御内拝と申し上げるのもこの御意と窺い奉る。然るに未だ一国に謗法充満の時、これを責めず、勝負も決せざるうちに前以て立て遺命達成と内外に誇耀せば、すでに一国の謗法を容認するに当り、破邪立正の本旨に背く。(是れ二)

 

 

また、前以て少数の信徒を以て立て了るとならば、将来一国同帰の時の国主並びに万民は何を以てその志を表わすや。されば会長自ら曾って云う「全国民の総意において建立されてこそ、はじめて本門戒壇として意義がある。もしわずかの有志だけで建て、わずかの有志だけが功徳をうけようというのでは大聖人の御本意に反する。また一部の人だけが参加して建てたが、参加しなかった多数の人たちが後から後悔してもおよばないであろう」(仏教哲学大辞典)と。文中自ら今の正本堂を指して「大聖人の御本意に反する」と定め置く。(是れ三)

 

 

更に歴代上人は御宝蔵の御説法に七百年来伝えて云く「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって云々」と。されば場所すでに異る。(是れ四)以上。

 

前以て立ておくことの通ぜざることかくのごとし。

 

 

五、「事の戒壇」の定義について

 

 

次に「事の戒壇」の定義について確認をしておかねばならない。その故は、昨年五月の学会総会に於て、猊下が「正本堂は事の戒壇である」と仰せられたことに就き、”猊下も既に御認承”と、かえって誇称するを屡々聞く故である。総会に先立って森田副会長に念を押した憂いの一つはこれであった。

 

申すまでもなく、猊下がたまたま仰せになられた「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。従来宗門に於ては、一天広布の暁に事相に立てられる国立戒壇を「事の戒壇」とし、その実現こそ宗門のいのちをかけた悲願であった。だが、諸々の法相は所対によって異ると、さればいま猊下の仰せ給う「事の戒壇」とは、この広布の時の「事相」に約し給うものでなく、所住の法体の「事」に約し給うたものである。即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである。従って、曾っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御意であられる。

 

此のことは、昨年四月二十七日の大客殿に於ける御説法に明かである。即ち

 

「この御本尊在すところは事の戒壇で、この御本尊が事の御本尊である。事の御本尊である故に、この御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」と。猊下の御意は以て明かである。

 

だが、学会で従来用いて来た「事の戒壇」の意味は宗門古来よりの定義に準じている。その定義を以て「正本堂を事の戒壇」と断定するから仏法の違背というのである

 

此の義を明確にする為、まず先師の御指南によって宗門古来の定義を示す。いずれの先師上人も三大秘法抄の御遺命たる広宣流布の暁の事相の国立戒壇を「事の戒壇」とせられ、それ以前の大御本尊在す処を「義として本門戒壇に当る」即ち「義の戒壇」とし、また末寺・在家の持仏堂も遠くはその義に当る旨を定義し給うておられる。

 

 

初めに日寛上人

 

「本門戒壇に事あり、理あり。理は謂く義理なり。是れ則ち事中の事理にして法門の理戒に同じからず、其の名に迷うこと勿れ。故に亦義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く当知是処即是道場は是れなり、天台云く仏住其中即是塔義等云々、故に当山は本門戒壇の霊地なり。亦復当に知るべし、広宣流布の時至れば一問浮提の山寺等に皆嫡々書写の本尊を安置す、其の処皆是れ義理の戒壇なり。乃至 次に正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、乃至 事の攻法と申すは是なり』等云々」(法華取要抄文段)又云く

 

「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無しと雖も、既に本門戒壇の御本尊存する上は其の住処は即ち戒壇なり」(寿量品談義)又云く

 

 

「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)と。

 

 

また日量上人は

 

「事の戒壇とは正しく広宣流布の時至って、勅宣・御教書を申し下して戒壇建立の時を事の戒壇と云うなり、三大秘法抄に云く云々」(本因妙得意抄)と。

 

 

日霑上人は

 

「一天四海皆帰妙法と唯だ此の妙法耳広宣流布せん時、勅宣・御教書を賜って日本国中にして最も勝れたる霊山浄土に等しき砂地をえらび、一間浮提第一の大道場を建立し、八万の国王を始め国々の大臣已下万民に至るまで一人も漏れなく此の大道場へ詣で本門の大戒を受けて懺悔滅罪する耳ならず、大梵天王・帝釈等の守護の諸天までも来臨影響在て衛護し下う処の大道場、之を本門事相の戒壇と申す云々」(報恩抄抄御談義書)と。

 

 

日亨上人は

 

「この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は、将来一天広布の時に、勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も軽くは各々その義をもっていると云える」(正宗綱要)又云く

 

「此の戒壇に事・義の二あり。国立戒壇は事なり、是れ未来一天広布の時の勅建によるべきが故に。其の時に至るまでは本寺の本門戒壇本尊安置の宝蔵を以て暫く此れに充て、授戒・説戒等の儀を執行す。即ち義として戒壇に当る。末派の道場も亦此の意に依って戒儀を行うときは分に此れに準ずと云うべし」(日蓮各教団の概観)又云く

 

「事の戒壇とは、天子将軍帰依の時至り、富士天母ヶ原に戒壇堂を建立し、宗祖弘安二年造立の本門戒壇の御本尊を懸け奉り、一閻浮提の天子・将軍を始め奉り、上は大梵天王・帝釈天王、下は一切庶民に至るまで三帰戒を授る道場なり。三帰戒とは下種の三宝に帰敬するなり、所謂日蓮大聖人(下種の仏)・一幅の大本尊(下種の法)・日興上人(下種の僧)なり、是れを末法万年広宣流布の事の戒壇と云うなり。三大秘法抄等是の意なり」と。

 

 

日淳上人は

 

「御文(三大秘法抄・一期弘法抄)に、王法と仏法と冥合して、国主が此の法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる。それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。

 

 

日達上人も亦仰せに云く

 

「事の戒壇とは富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立であります」(大日蓮一八三号)と。

 

宗門古来よりの定義は明々白々以上のごとくである。更には日開上人の御宝蔵に於ける御説法、若し全文を拝し了れば御意炳焉として亦鏡にかけて曇りなし。歴代先師上人の異口同音・一糸の乱れなき御深意、只々有難く伏して拝し奉るのみ。

 

されば学会に於ても、この古来よりの定義に準して自ら「事の戒壇」の用語を用い来ったのも当然である。故に折伏教典(改訂三五版)には

 

「戒壇とは広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である」と云い。又「本門の御本尊がおいでになっているところが義の戒壇であり、広宣流布の時建立される戒壇を事の戒壇と申し上げるのです。現在はまだ広宣流布が達成されていませんから、義の戒壇ということになります」(大白蓮華一五四号

 

 

更に池田会長自身も

 

「立宗ここに七百三年を過ぎ、仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立は未だならず『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華五六号)又云く

 

「いま末法にはいり、日蓮大聖人の三大秘法の仏法においては、本門の本尊まします所が義・戒壇にあたる。乃至 ここに日蓮大聖人御遺命の戒壇建立とは事の戒壇であり、『三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法』である」と。

 

 

定義はそのまま宗門の伝統である。だが、この定義を以て「正本堂を事の戒壇」とする所に重大な誤りが生じたのである。この誤りを改めもせず、たまたま猊下が仰せられた別意に約し給う「事の戒壇」を隠蓑として、依然として過去歪曲の主張が通用するごとく内外に見せかけているのは狡知としか云いようがない。

 

 

 

六、重ねて猊下の御本意を拝し奉る

 

 

されば、紛わしき「事」と「義」の会通よりも、猊下御自身の御本意を確と拝し奉る事こそ所詮の大事である。猊下の御意濫りに窺い奉るは誠に恐れ多いが、時に当ってすべてを決する鍵ここに在せぱ敢えて拝し奉る。

 

四十年二月十六日の御説法の御意については先の一書に既に拝し奉れば此処には略す。其の後における御指南を拝するも、猊下は正本堂を以て三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇とは断じて認め給わない。此の旨はすでに昨年五月二十九日、妙信講の代表と共に、学会代表たる森田・秋谷・和泉の三氏も直々に確と承った所である。また昨年四月六日の御影堂に於ける御説法を拝すれば、更に明瞭である。即ち

 

「この本門事の戒壇建立は、小乗の戒壇や法華経法門の戒壇には似るべくもなく大難事な事でございます。『仏法は体のごとし、世間は影の如し,体曲れば影斜めなり』の大聖人様の御言葉を深く了解する事が出来なければ『王法仏法に冥じ、仏法王法に合し』の御言葉は理解出来ません。今日の唯物的考え方では受け入れ難いのであります。而しながら、有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来る、との大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉るのであります」と。

 

既に三大秘法抄の御遺命の戒壇を指して、「私は未来の大理想として信じ奉る」と仰せ遊ばす。猊下の此の御意仰いで拝すべきである

 

 

更に昨年六月九日の一宗務院文書、即ち要行寺住職・八木直道尊師の提出した「御伺書」に対する宗務院の回答書を此処に挙げる。此の書は日蓮正宗総監の名を以て執筆され、すでに一部の御僧侶にも配布されたものであれれば、猊下の御意を体した宗務院の公式見解が表明された文書として依用する。文中、八木尊師が「正本堂が若し事の戒壇とならば、何故最勝の地を尋ねずに墓地を堀り返えして建てるのか」と質すに判然と答えて云く 「正本堂が三大秘法抄等に示したまう最極の戒壇でない以上、奉安殿に引き続いてより大なる戒壇御本尊格護の殿堂として建設する場合、大石寺境内またはそれに隣接する地所を撰ぶことが諸般の実状と便宜上当然のことである」と。

 

瞭々として一点の疑問の余地もない。正しく正本堂は、奉安殿の延長として国立戒壇建立の暁まで戒壇の大御本尊を厳護し奉る堂宇なのである。たとえ規模・荘厳は改まるとも、仏法上の意義は己然として大御宝蔵・大奉安殿たる事少しも変らない

 

ここに於て思い起されるのは、奉安殿落慶における、時の御法主日昇上人の凛乎としたあの御宣言である。

 

「血脈付法の法主を継げる日昇之を受納して戒壇本尊奉安殿と名付け、此処に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり。時を待つべきのみ事の戒法とは之なりの金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後の法主も一心同体たるべきを確信する」云々と。

 

此の日昇上人の御宣言は今に厳然と生きている。若し広宣流布以前にこの意が失われれば、宗門七百年の悲願は消え失せる

 

然るに学会はかかる先師の御意志をも無漸にもふみにじっている。即ち仏教哲学大辞典には、奉安殿の説明に日昇上人の此の文を引用しながら、勝手に御文中の「国立」の二字を削除し、次いで承けて云く「……とあり、奉安殿安置の三大秘法の御本尊を本門戒壇建立まで厳護する旨述べられた。そしてその意志は今や正本堂建立により達成されんとしている」と。恐れを知らぬ無漸無傀とはこの事ではないか。

 

 

 

 

七、許し難き国家への欺誑

 

 

 

更にまた許し難き事がある。それは国家に対する積極的な誑惑である。昨年四月、政府より創価学会に対して、国立戒壇の意義について正式な照会があった。学会は何と答えたか、その回答文に云く

 

 

「一、本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。

 

 

二、既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これか本門戒壇にあたる。

 

 

三、一時、本門戒壇を”国立戒壇”と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって国家権力とは無関係である。」と。

 

 

云うがごとく、国家と無関係に、宗門の事業として勝手に立ててよいものなら、何ゆえ三大秘法抄・一期弘法抄の御定めはあるのか、大聖人の御遺命を曲げる事これより甚しきはない。

 

嗚呼、歴代先師上人は国主の尋ねもなきに、大聖人の御意に叶わんと身命も惜まず国家を陳暁し給うに、いま創価学会は国家から尋ねられてなお我が身の為に仏法を曲げている。「無道心」とはこれである。

 

あの日目上人の御振舞い、正宗信徒なら誰か涙なくして拝し得よう。思うに、上人にして自らの命数を知り給わぬ筈はない、既に七十四の御頽齢・敢えて諌暁の長途を企て給うは何ゆえか、御覚悟の上とは云いながら、途上美濃の寒風に手足凍えて一歩も進み給わず、垂井の宿にて遂に「臨終の御勤めましまして両眼眠るが如く、ロ唇誦するが如くに息止みたもう」(家中抄)と。この御尊姿只々ひれ伏して涙を以て拝し奉るのみ。而して未だ志を達し給わず、その御胸に懐き給う申状に云く

 

「日目先師の地望を遂げんが為、後日の天奏に達せしむ」と。

 

「先師の地望」とは大聖人の御本願たる王仏冥合・国立戒壇の建立のほかにはあらせられない。悲しいかな、いま学会は国家の尋ねに対して、大聖人の本願は四十七年の正本堂と欺いたのである。

 

しかも、宗門にこれの同調を求める理由に云く「若し国立戒壇を云う者があれば、憲法違反にて宗門は解散させられる。たとえ公明党がつぶされようと学会が解散させられようと、日蓮正宗さえ安泰ならばよい、それが学会の精神である。故にお山を守る為には一人も国立戒壇を云わぬように」と。為に心ある御僧侶まで、これを本気に信じたのである。

 

だが憲法は、宗教団体のいかなる教義・信条に対しても、国家権力の不介入を保障している。
たとえ「国立戒壇」を教義として主張しようとも、国権による不当な弾圧は断じてあり得ない。これが憲法の精神である。いや法学上の解釈だけではない。すでに政府すらその立場を前以て表明していたではないか。即ち共産党その他が、国立戒壇を憲法違反とし、これを目的に政治活動をする学会を宗教団体の目的から逸脱せるものとして政府に詰問・対策を迫った際、政府の答弁は、道理至極であった。即ち

 

「ご質問の趣旨は、現行憲法の下においては、国が国立の宗教的施設を設置することが許されないのであるから、そのような違憲の事項を実現することを目的とする政治活動を行なうこともまた憲法上許されないのではないかという点にあると思われるが、事理としては憲法を改正しなければ実現することかできない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行なうことが直ちに憲法違反になるわけではない。このことは、現に、政治活動として憲法改正の主張をすることが許されていることからみても明かであろう」と。

 

 

まことに理路整然、現に再軍備等の為に憲法改正を訴える諸々の政治活動すら許されているを実例として、国立戒壇がたとえ憲法改正をしなければ実現不可能な事であっても、それを目的とする政治活動すら許されるとの政府答弁である。

 

況や、日蓮正宗が政治活動ならざる純粋なる宗教的立場から国立戒壇を叫び訴えるのが、どうして法律で咎められ、解散をさせられようか。こんな事は法学上の初歩の常識である。賢明の学会にして百も承知である。然るに、仏法には通達せるも世間の法律には疎い御僧侶の、而も護法の心情につけ入り、国立戒壇を抛つことに同調させて了ったのである。日蓮正宗を守る為とは云いながら、実は学会・公明党を守る為に宗門に口裏を合わさせたものに過ぎない。

 

政府すら合法と認める国立戒壇の主張をなぜ自ら否定したのか、まともに考えればこれ以上不可解な事はないが、詮ずる所狙いは唯一つ、政治進出の便を計る以外にはない。国立戒壇を云えば選挙に不利である。よって前々からこれを否定して来たのだ。当時、たまたま言論問題等により世論の反撥が巻きおこった。それは政党間の争いに発展し、共産党等はこの時とばかり、学会が曾って唱えた正論である国立戒壇論を取り上げ違憲と貴めたてた、そして遂に池田会長の国会喚問にまで及ばんとした。この状況に驚いた学会は、政府の照会を機に、一も二もなく国立戒壇を公式に文書を以て否定、ここにいよいよ公然と国家を欺いたのである。

 

佐渡御書に云く「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし、例せば日蓮が如し」と。
仏法を知らぬ共産党ごときが、国立戒壇の正義を詰り大御本尊の誹謗までするのを見なから、何ゆえ池田会長は大聖人の御義を守って斗わなかったのか。

 

若し会長に信念あるならば、国会喚問に堂々と応ずるべきではなかったか。全国民注視の中で大聖人様の御精神を訴える事が出来る、仏弟子として之に勝る本懐はない。国立戒壇は単なる一宗派の宗教目的ではない、実に国益の最たるもの、国家安泰の唯一の秘術である。されば国会喚問こそ「全く身の為に申さず、神の為・君の為・国の為・一切衆生の為」と仰せられた大聖人の御心を伝え、国立戒壇の精神と必要を強く訴える唯一の好機ではなかったか。たとえ聞き入れようと入れまいとそれは相手の勝手、仏弟子はただ身命を抛って正義を訴えればよい。
それが国土を利益する「寧喪身命不匿教」の仏子である。大聖人様は恐れ多くも平左衛門の暴戻なる取調べに対しても応し給い、その堂々の師子吼・整然の道理は、遂に平左衛門の口をして鼻のごとくに為さしめ給うた。常日頃、大聖人をなお摂受として自らを折伏の大賢王とする池田会長か一体これはどうしなことか、しかも以来ばったりと折伏の声は消え、宗教の邪正は論ぜられず、云う所はただ世間に阿ねる甘談詐媚巧言令色の類いのみとはなった。

 

抑、大聖人の御義を曲げては何の為の政治進出か。曾っては学会の政治進出の唯一の理由は国立戒壇建立を訴えるにあったと聞く。されば先代会長は「我等が政治に関心を持つ所以は三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである」また「しからぱ文化活動の内容は如何にというに、まず政界に国立戒壇建立の必要性を充分に理解させることである」と示している。政治進出が広宣流布の手段として適切かどうかは別問題として、その云わんとする精神は充分理解出来る。これでこそ大聖人様にも通じ功徳も生ずると確信する。

 

だが今やどうなったか。池田会長自ら昨年の総会に於て、「後世の為に確認しておく」と前置きして、国立戒壇を否定した上に更に云く「政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にない。あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門・学会の事業とは無関係であることを、再度、確認しておきたい」又「公明党は宗教的には中立を貫く」と。これでは存在意義はすでに失われていると云わねばならぬ。宗教の邪正も諭ぜず、国立戒壇も訴えず、ただ政治次元の党利党略に狂奔しているだけなら、何等他党と選ぶ所はない。却って国家に混迷を増すだけではないか。

 

伏して案ずるに、大聖人の御精神は立正安国に尽き給う。而して立正の前には必ず破邪がある。破邪とは謗法禁断であり、立正とは詮ずる所国立戒壇である。されば、謗法禁断・国立戒壇建立こそ大聖人の御心の実践である。

 

然るに今の学会は政治進出の為に遂にこの二ともに抛った。而も口で云うだけで足らず、謗法禁断を蕩す為にはかの「聖人展」を開き、国立戒壇を否定する為には俄かに正本堂を立ててすりかえたのである。

 

而も恐るべし。謗法同座の「聖人展」には之を厳絨し給う日興上人の御影か計らずも用いられた。いま国立戒壇否定の正本堂に念いを至せば、思わず慄然とせざるを得ない。

 

嗟呼、悲しいかな、政治進出の為に御本仏一期の御遺命を曲げ、正本堂を宗門の悲願と詐る、而もこれを以て我が身を挙げる。かかる僻事が亦とあろうか。

 

ここに断言して憚らない。かかる正本堂こそ、上は日蓮大聖人の御遺命に背き奉り、歴代上人の悲願をも破り、御董職上人の本意に違し、下は八百万信徒の純信を欺き、外には一国を誑すものに外ならぬ。その上、静かに休み給う歴代上人の御墓所まで発き奉る。若し深く懺悔訂正せずんば我身も宗門も国家も取り返えしの付かぬ事になるは必定である。

 

 

八、懺悔訂正を訴う

 

 

殊に憂えるは国家の濁乱である。国の柱たる唯一の正系門家に、かかる重大なる仏法の歪曲あれば、国家に影響のない筈はない。故に大聖人の御金言に云く

 

「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり」と。

 

既に昭和四十四年五月、かの謗法同座の「聖人展」を見た時、この憂いを懐き再三の諌訴を為すに、宗務御当局は現前の計なればこれを無視。だがその後僅か数ヶ月にして学会・公明党に思わざる災厄出来を見たのは、正しく政治の為に日興上人を辱め奉った御罰に非ずや。

 

正本堂はそれには亦似るべくもない僻事である。されば外には正本堂の完成を以て「立正の成就」と謳うも、世間は愈々濁乱の相を現じつつある。「立正」すれば「安国」たることは体と影のごとくであるに、「立正」すでに詐りなれば「安国」また実現せず、大聖人を辱むる事これより甚しきは無い。また内には信徒の血の惨む供養に対し、完成時の現の福報を以て期待させるに、四十七年の近づくにつれ、未曾有の不況出来して末端信徒の苦斗いかばかりか。一切の蔵の宝を抛ったその純信を思いやれば痛々しく、徒なる浪費を見るにつけ、激しい憤りの湧くをおぼえる。

 

それにも増して憂いなるは国土の衰乱である。近年の不気味なる異常気象、これ国土いたく乱れんとする天の警鐘乱打ではないか。既に戦後未曾有の経済変動は起り、国土には悪鬼入り乱れて人心を荒廃させ、国論は二分して収拾なく、国際政局また激動の時を迎えて予断を許さない。まさに御金言のごとくに正法を立てなければ、恐るべき自叛・他遍も必ず到来するものと憂えざるを得ない。

 

たとえ、一国に謗法充満して国まさに傾んとする時も、若し毅然として国を諌める者あれば国は亡びずと。されは十一通申状に云く

 

「諌臣国に在れば其の国正しく、争子家に在れば其の家直し」と。

 

一国騒然たる今日、今こそ正系門家が謗法禁断・国立戒壇建立を訴え、毅然として一国を諌めねばならない。然るに現状はどうか。既に「御遺命は達成」「事の戒壇も建立」とて、徒に空しき儀式を繰り返えし、その祝いとて亦復虚宴を張り、王侯貴族の奢りを為すと聞く。未だ広宣流布は達成されてない、未だ謗法は国に充満しているのだ。宗開両祖の御悲みはいかばかりか。されば

 

「謗国の失を脱れんと思はば国主を諌暁し奉りて死罪か流罪かに行わるべきなり、我不愛身命・但惜無上道と説かれ、身軽法重・死身弘法と釈せられし是なり」(秋元抄)又云く

 

「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曾谷抄)又云く

 

「此等の禁めを背く重罪は目には見えざれども積りて地獄に堕つる事、讐ぱ寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来りて草木・人畜をせめ、夏は熱来りて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし」(松野抄)と。また、二祖上人は御遺誠に云く

 

「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」と。

 

宗開両祖の御誡め実に重し。然るに、自ら御金言に背き御遺命を曲げ、どうして一国の謗法を責め得よう。究極の悲願たる国立戒壇を否定してどうして死身弘法が為し得よう。この禍根すべては正本堂の歪曲より生ず。

 

又、思い給うべし。いかに巨費を投じ、金銀を以て荘厳をするとも、一期の御遺命に背く殿堂を御本仏喜び給うべきか。また、一国を欺く為の虚構に大聖人心よく住し給うべきや。仏意深く恐るべし、憤むべし。戒壇の大御本尊の願主は名もなき農民であった、だがその純信捨身の信心をこそ大聖人はお受け遊ばしたのである。

 

されば此処に、正本堂の歪曲、真に懺悔を以て急ぎ訂正せざるべからず。依って次の二箇条を訴える。即ち

 

 

一、全宗門信徒に対し、正本堂は御遺命の戒壇ではない事を公表する事。

 

二、政府に対し、偽りの回答を微回し、国立戒壇の正義を示す事。

 

以上

 

右、二箇条が徹底せば、正系門家の化儀・化法たちまち純然として御在世に立ち還えり、御本仏大聖人の御守護をも蒙り、広宣流布の大願も叶うべきものと確信す。されば此処に、池田会長の大道心に強く訴えるものである。

 

若し、学会の大を誇り、妙信講の小を以て其の言を卑しみ給うならば、悲しみこれに過ぐるは無く、必ず後海あるべしとも思うものである。

 

然る時は、妙信講こそ日蓮正宗の法華講衆として、大聖人・二祖上人の命じ給うまま、一万世帯の団結を以て一死を賭して御奉公するのみ。たとえ途上斃るるとも、開目抄に云く「設い復命終すとも、なお持戒自利利他と名く」等云々。大聖人の御照覧なれば、すべては任せ奉る。            恐々

 

 

昭和四十六年十一月十五日

 

日蓮正宗妙信講

 

講頭 浅井甚兵衛

本部長 浅井昭衛

 

お問い合わせはこちらまで

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました