本門事の戒壇の本義

国立戒壇について

本門事の戒壇の本義

 

 

緒 言

 

日蓮正宗の宗旨の三秘は本門事の戒壇の御本尊の一大秘法に納まるのである。

 

故に本宗に於いて御戒壇様と申し上げる時は直ちに本門事の戒壇の御本尊をお指し申しているのである。

 

此の御本尊在す所は即事の戒壇であり、此の御本尊に向かい戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱うるのが本門の信行の題目である。

 

今や戒壇の大御本尊は昭和四十七年十月十二日、我が宗信徒八百万の信心の浄財に依って建立せられた正本堂に安置申し上げてある。

 

正に正本堂は本門事の戒壇である。

 

然るに或る異質の人は明治、大正時代の妄想に眩惑されて、宗門を撹乱せしめようとしている。

 

依って宗務院教学部に命じて本門戒壇の本義を執筆せしめ、宗の内外に発表することにした。識者よく私の意とするところの本論を玩味せられ信心の指針にせられることを願うのである。

 

昭和五十一年二月十六日

 

日蓮正宗総本山第六十六世法主  日 達

 

 

 

 本門事の戒壇の本義

 

 

教学部長 阿部 信雄

 

 

宗祖日蓮大聖人の仏法は、七百年来日蓮正宗総本山大石寺に厳然として伝持せられたのであるが、昭和二十年の終戦より以降、とくに急激な布教の発展を見るに至った。

 

 

この理由は、一に大聖人の仏法が真実最高の正法であり、かつ唯授一人の血脈付法によりこの大法が聊かの揺るぎもなく今日まで伝承されていること、二に真剣な信心・行学と卓越した指導性を持つ、歴代創価学会会長の強力な折伏弘通運動により、急激に多数の信者の増加を来したこと、三に平和憲法による政教分離・信教の自由の確定により、実情に適切な布教が可能となり、かつその保障が確立したこと等が挙げられる。

 

 

このような情況の下にあって現法主日達上人は随時、時代に即する布教方針を示され、一宗を嚮導してこられた。しかるにこの急激かつ広汎な宗門の大発展にたいし外部では当然のこととして怨嫉を生ずる傾向があったが、またごく僅かな一部の信者の中には、違和感による誤解をもって素直に宗門発展の意義を受けとめることが出来ない者があった。法主上人にはこれらにたいしても、常にその開覚のための教導を借しまれなかったのである。

 

 

今ここに正本堂建立第五年を迎え、本仏大聖人已来の宗門の法義の独一性不変性をさらに明らかにし、永遠の広布に向かって進む布教の根本方針を徹底する必要があるため、その要旨を記述するよう法主日達上人より御下命を賜わった次第である。

 

 

日蓮大聖人の仏法とは三大秘法である。また三大秘法の根本は一大秘法の本門戒壇の本尊である。大聖人の御化導の肝要はこの戒壇の大本尊を顕わすことにあらせられた。いわゆる「日興が身に宛てて賜る所の」と二祖上人がお書き残された弘安二年の大御本尊がその法体であり、大聖人が本尊、題目の上にさらに現当にわたる戒壇の意義を成就したまう本尊である故、特に本門戒壇の本尊と称し奉る。したがってその法義の一切は悉く一大秘法の戒壇の大御本尊に収まるのである。この根本の一大秘法はそのまま三大秘法である。かくして日蓮大聖人が弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を御顕示になったときに、末法万年の化導の法体としての三大秘法は整足したのである。

 

 

大聖人は文永八年九月竜之口の発迹顕本に、几夫即極久遠元初の仏としての確証を示されつつも、その胸中の事の一念三千人法一箇の当体を末法の民衆の本尊として顕示するためには、尚釈尊の仏法との差異を明確にして下種仏法の全容をあらわすため、暫くの充実の期間と次第を必要とせられたのである。すなわち、

 

 

義浄房御書に、

 

 

「日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(全集八九二)

 

 

と仰せられたのは大聖人の己心当体における三大秘法の成就をお示しである。つまり大聖人御胸中の妙法蓮華径は本門の本尊、口唱は本門の題目、人法一箇の本尊たる大聖人のおわしますところは本門の戒壇である。しかるに自らの御魂を化導の上にあらわす大曼荼羅本尊においては、文永八年より始められつつも弘安元年以降にいたって究竟を示され、遂に翌弘安二年、下種仏法流通上の内外の因縁によって究竟中の究竟たる本門戒壇の御本尊を顕示あそばされた。

 

 

故に弘安四年の南条殿御返事に、

 

 

「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり ―乃至 ― かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり ―乃至 ―此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」(全集一五七八)

 

 

と仰せられたのも本懐の本尊を顕わされた後における、御自身の究竟の境界をお説きになったものと拝せられる。右の文中の一大事の秘法とは法の本尊、それを法華経の行者日蓮が所持する旨を示されるところ、おのずから人法一箇の深旨があきらかである。すなわち相伝の法体に約されて一大事の秘法とは、大聖人の御身にそなわる人法一箇の本尊であること、また「法妙……」已下はその住処が万戒の功徳をおさめる根本の妙戒、防非止悪の戒壇であることの意義をお説きになっている。

 

 

またその「法華経の行者」が末法の本尊の当体であることは諸御書に道理、現証が明らかであるが、特に次の御義口伝には彰灼として示されている。

 

 

「此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云」(全集七六〇)

 

 

すなわち南条殿御返事では付属の当体は一大秘法と表わされているが、御義口伝では事の三大秘法であることから一大秘法がそのまま三大秘法であることが拝され、それは大聖人の御一身に具有あそばされているのである。

 

 

ここで少しく事理のたてわけについて一言しよう。

 

 

仏教における事理の名目は多岐多端であるが、一般的には理論と実践、真理と事相、抽象と具体、心法と色法、教理と仏身その他を含む相対的法相・法義の意味を判じあらわすのである。とくにこれを仏法の根本的対判たる本迹の関係にあてはめた場合左のように示されている。すなわち天台にあっては、迹門の実相開顕を中心とする化導の立場より真如の理は本、森羅の事を迹と判じたのである。翻って釈尊はその究竟の説たる法華経方便品に最高の法理を説き、更に寿量品に永遠にわたる仏身の事を説かれ、この理を迹、事を本としておのずから本迹にたてわけられている。

 

 

さて日蓮大聖人の仏法は久遠元初本因妙の本をあらおし給うお立場より、一往法華経迹門を理に、本門の一念三千を事に配され、再往は束ねて法華経本迹二門を理とし、久遠元初下種独一本門の戒定慧すなわち三大秘法を真の仏身、真の事の法体と判じたまうのである。右御義口伝の事の三大事とはまさにこれに当たるのである。

 

 

更に進んで三大秘法抄では大聖人の御振る舞いの趣意が事の三大事であることを宣せられている。同抄に、

 

 

「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮誼に教主大覚世尊よりロ決相承せしなり、今今日蓮所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(全集一〇二三)

 

 

と仰せられた。これを人法一箇の上の人即法に約せば「事の三大事」とは、事の一念三千の大曼荼羅本尊の当体に事行の題目が具わり、また事の戒壇が具わるの意と拝され、三大秘法惣在の本尊となる。そこで文中の「日蓮が所行は」の六文字を拝するとき、その意はまさしく一期の御化導の究極たる大御本尊を志向したまうものであり、則ち末法万年の民衆の中心帰依としての本門戒壇の大御本尊に帰趨することはいうまでもない。

 

 

従って日寛上人は、

 

 

「三大秘法を合する則んば但一大秘法の本門の本尊と成るなり、故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法惣在の本尊と名づくるなり」(依義判文抄・聖典八六三)

 

 

と述べられている。そこに三大秘法の惣在する根元の本尊があり、その当体即ち事の戒壇である。とくに御当代日達上人は、本門戒壇の本尊の当体はそのまま本門事の戒壇であるむねを、処々に御指南なされるところである。

 

 

第二十六世日寛上人は、理論的体系を示す上から、大聖人の一大秘法と三大秘法の開合を示されると共に、三大秘法がまた六大秘法に開かれる意義を説かれ、本尊に人法、題目に信行、戒壇に義事を分ち、なかんずく本門の本尊所住の義理が事の戒壇にあたる意味において義の戒壇とし、これにたいし三大秘法抄のいわゆる、

 

 

「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪―乃至―大梵天王・帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」

 

 

の文を事の戒壇とされたのである。

 

 

けだし日寛上人の時代はいまだ時至らず本門戒壇の大御本尊への参詣の信徒も数少なく、広布の時を待って宝蔵の奥深く格護されていた。従って「三大秘法惣在の本尊とは本門戒壇の本尊である」との表現において、本尊の体が事の戒壇であることを密示するに停められたのである。すなわち本門戒壇の本尊を表に顕わさず、一秘三秘六秘の開会における一大秘法とは、たんに「本門の本尊」と抽象的に表現されたのである。これはもちろん、本門戒壇の本尊が大聖人の仏法、すなわち三大秘法の実体実義であることを裏面にふまえた上で、教学的理論的説明の上に、大聖人の御書における三大秘法にかんする御指南や表現を一括し、理論的体系に組み立てられたためといえよう。

 

 

故に本門の本尊所住の処、義の戒壇といわれるのは、戒壇の大御本尊の「事の戒壇」そのものと、その他の山寺の本尊の「義理事に当る」関係及びその意味を露わにせず、一般論的な所住に約して、義理、事の戒壇にあたる意を表とされたのである。

 

 

そこで戒壇の大御本尊については、根源といわれて重大な意義を秘められている。

 

 

けだし、六巻抄等で三秘六秘の体系を立てる関係上、三大秘法抄の戒壇の文をもって広布時の事の戒壇に約される故に、そのもとである戒壇本尊の当体所住を直ちに事の戒壇と表現されることはなかったのである。

 

 

かかる三秘六秘、なかんずく戒壇の事義を立て分けられた理由の一つとして、他の誤れる戒壇論の存在が考えられる。古来興門以外の他門系にはあまり顕著な戒壇論及びその主張は見当たらないが、かの要法寺の広蔵日辰が広布事壇説を唱えている。日辰は法華行者逢難事の文を僻取誤読して

 

 

「本門の本尊と四菩薩の戒壇と南無妙法蓮華経の五字……」

 

 

と読み四菩薩造像の戒壇論を説くのである。更にこの外に広宣流布の時の事の戒壇ありとし、蓮祖再生して日本第一の勝地に建立すと云って、暗に富士山の戒壇を目標としている。またその門葉に癡山日饒が出て富士戒壇建立を所表に約する一往の義とし、再往所縁に約せば本門流布の地皆本門寺なりと即是道場の理壇説を立張した。日寛上人はかかる要山系の諸師の誤りを矯正し、三大秘法抄の広布にかんする正しい目標を顕わす必要から、広布時の富士事壇説を説示されたのである。故にその三秘六秘の体系中、事の戒壇にはきまって三大秘法抄の戒壇の文を挙げられるのみで、一切の説明を付加せられていないところに、深い御意が拝される。また文底秘沈抄の戒壇論ではその事の戒壇の元意において、本門戒壇の本尊が根源の法体であることを示されている。

 

 

 

この密意は別に本門戒壇の本尊所住が事の戒壇であるとして、日相上人の聞書、大弐阿闍梨(日寛上人大学頭時代の呼び名)講の三秘六秘中の戒壇の文にも書かれている。

 

 

御当代日達上人は、日寛上人の一般論的な本尊所在の処義の戒壇論と、三大秘法抄の広布の事相に約する文からの事の戒壇論の二面にたいする根源の法体として、真の事の戒壇は本門戒壇本尊の当体にあると説示せられたのである。すなわち曽谷殿御返事に、

 

 

「『故に知んぬ法華は為れ醍醐の正主』等云云、此の釈は正く法華経は五味の中にはあらず此の釈の心は五味は寿命をやしなふ寿命は五味の主なり ―乃至 ―諸経は五味・法華経は五味の主と申す法門は本門の法門なり」(全集一〇六〇)

 

 

とお説きのように一往天台の判釈による法華経は五味の中の醍醐味であるが、再往大聖人の仏法の本門に約せば五味の総体、五味の主であるとのお示しである。なお百六箇抄にも、

 

 

「五味主の中の主の本迹 日蓮が五味は横竪共に五味の修行なり」(全集八六六)

 

 

ともあって五味の主について説かれている。このように妙法蓮華経が五味の主であるのと同様に本門戒壇の本尊は、あらゆる大聖人御一代の御本尊以下、嫡々歴代の本尊ないし日寛上人の三秘六秘の法門体系等の主であり、総体であることは常に日達上人のお説きになるところである。この根本より事理を立て分ければ戒壇の本尊の当体及び住所は事の戒壇であり、各山各寺所在の大聖人以下嫡々書写の本尊の所住は義理の戒壇となる。これは根源の法体に約して事の戒壇を論ぜられた立場である。

 

 

しからば三大秘法抄の「三国並に……蹋給うべき戒壇」と大聖人が仰せられたのはなぜであろうか。それは後に述べるが根元の事の戒壇があって始めて広布の事相、平和社会が現出するのである。

 

 

したがって「事の三大事」則ち本門戒壇の本尊の当体が事の戒壇、事行の題目であるところが一切の根元であり、日寛上人の三秘六秘の体系はその敷衍説明であるから、法体根源の戒壇が広布の前後を問わず事の戒壇であることは誤りないところである。

 

 

戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇であるから、昭和四十七年に建立の正本堂が現実の事の戒壇である。この正本堂は、広宣流布達成への地歩が着実に展開されている現在の実相を鑑みるとき、一期弘法抄、三大秘法抄に仰せられる戒壇の意義を含むものといわねばならない。

 

 

御当代日達上人が正本堂を明確に事の戒壇と定められたのは、正本堂に本門戒壇本尊を安置されることが建立七年前の第一回建設委員会における御説法で確定し、従ってその意義において事の戒壇であることを基本とされつつ、さらに百六箇抄の、

 

 

「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」(全集八六七)

 

 

の御相伝に照らしその意義を含ませられたためであると拝する。すなわち、三大秘法抄、一期弘法抄の仏意冥鑑を現実の広布の段階の上に拝するにその時至り、事相次第に現われる故に更に進んで僧俗一致して正本堂を建立し、次に未来の広布完成ともいうべき本門寺戒壇の意義顕現を期することが、三大秘法抄、一期弘法抄の戒壇の文意に合し奉る所以である。この両義をふまえた上に正本堂をもって明らかに本門事の戒壇とお示しになったのである。

 

 

これより已下大聖人の仏法の衆生化導にかんする本質という観点より、御遺命の戒壇の意義を掘り下げてみよう。

 

 

そもそも御遺命の戒壇については三大秘法抄の文によるところであるが、この文意は苟も大聖人の仏法の本義に照らして誤解、独断のないよう拝すべきである。本門戒壇というその本門とは本有常住門の意であり、永遠にして普遍的な教法である。しかし現実の世相は有為転変きわまりなく、従って国家の政治形態も変勤し、封建体制などは全くの昔物語りになっている。大聖人の本門戒壇がかかる歴史中の一時期の形態たる国家権力等に規定されるものとするならば、それは本門の教法たる名に値するものとは云いがたいのである。

 

 

そこで先ず最も基本的問題として三大秘法の惣在と未来の建立との関係について考えたい。右にのべたように本門戒壇の大本尊に三大秘法が惣在するなら、なにゆえ更に戒壇本尊安置の殿堂を建立する必要があるのか。この疑問について左の三つが考えられる。

 

 

一、三大秘法の惣在ということは法体の本尊における意義である。また大御本尊は末法万年の民衆を化導すべき法体である。これにたいし未来に本門寺の戒壇を建立せよとの弟子への遺命は、この法体の流通目標として命ぜられたのである。

 

 

二、信心の上に戒壇の大本尊はそのまま事の三大事と拝される。しかし世界民衆への流布の必要よりして戒壇堂建立をその目標とし、その実現にはげむ信心修行により民衆の成仏を期せられたのである。

 

 

三、日蓮大聖人が三大秘法の仏法を建立された目的は、全人類の救済、この現実世界の平和と繁栄の実現である。したがって、全人類がこの三大秘法の御本尊に、個々の幸福と、世界の平和、繁栄を祈念すべき根本の殿堂としての戒壇堂建立を遺命せられた。

 

 

已上三点が挙げられよう。

 

 

次に、大聖人の仏法における救済の対象とその方途について一考したい。

 

 

大聖人の仏法は一閻浮提広宣流布であるからその救済の対象は全人類であり、日本一国の枠内に限られるものではない。撰時抄に、

 

 

「南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり、その国国に八万の王あり、王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(全集二五八)

 

 

と仰せられ、又報恩抄に、

 

 

「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(全集三二八)

 

 

と示された。このように題目が広宣流布することは、その教法の価値が万人共通のものであり展転して他に教えていく必然性があるからである。一人一人の妙法の実践により、三世にわたる悪癖宿業を転じ、幼稚拙劣な人間性を改革して本来の妙法の生命に還元せしめる。またその発動があらゆる文化、社会の営みの中に発揮されてゆくところに、真の世界平和と幸福の基盤がある。真の救済とは人間の一人一人が、崇高な仏法の力によって自らの真の価値をあらわしてゆくことにほかならない。

 

 

すなわち、法華経の根本たる大聖人の仏法にあっては、永遠にわたって一人一人の人間の苦悩を解決し、生命の尊厳とその真義に眼ざめさせるのであり、特殊な権力または権力者のみを対象とするのでなく、すべての人を救済する目標を持たれている。諸法実相抄に、

 

 

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(全集一三一八○)

 

 

と喝破あそばされ、上からの天下り的圧力でなく、つまり権力等によるものでなく、地から涌き出ずるように、社会の一般民衆より流布する実相を説き給うた。論より証拠に本門戒壇の大御本尊は宗祖大聖人が熱原の百姓という、当時の通念では身分の低い人々の不惜身命の信心を鑑知あそばされ、その仏法流布の因縁によって顕示あそばされたのである。故に大聖人の仏法の本質的な感応は、あくまで社会を構成する全ての人々の自発的意志による正法弘通運動にある。未来末法万年の流通にあってもこの方式に変わることはない。

 

 

この一般の民衆に対する教化は御書の処々に拝するところであり、なかんずく信心さえ強盛ならば身分の隔てなく大事の御本尊を授与あそばされた諸例を拝しても貴賤平等に大慈悲の御化導を垂れさせられたのである。撰時抄の、

 

 

「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし」(全集二八八)

 

 

の文も同様に徹底した平等観の上の流布相である。

 

 

そしてその開導者たる大聖人御自身については佐渡抄に、

 

 

「施陀羅が家より出たり」(全集九五八)

 

 

とお示しのように謙下の御言葉の中に深い意味をこめて、堂々と庶民の出身であることを述べたもうた。これは釈尊の本果妙仏法と大聖人の本因妙仏法との対比ともいうべく、要するに王侯貴族などの支配層より顕われるのでないところに一般大衆に真の自覚を与えていく御出現の因縁と本質がある。

 

 

したがって大聖人の仏法は唯真剣に妙法を受持信行してゆく処、貴賤上下の区別は全く眼中にないのは勿論、またその信行の功徳は、国家の権力者や王侯貴族の存在よりはるかに尊く勝れていることを、大確信の下に厳示せられている。

 

 

故にこの人間、或いは人格とは別に、国家意志とか、国家そのものを弘教に利用する目的などは、本来大聖人の仏法には存在しないのである。国家或いは政治そのものと仏法とは次元が違うのであり、同一の立場では論ずべきものではない。故に大聖人の仏法の諌暁はあくまで一箇の人間としての為政者、天皇、国主、権力者ないし一般国民にたいする一人一人の正法への開眼を目標とされているのである。

 

 

そもそも大聖人が立正安国論を鎌倉幕府に提出諌言あそばされ、又二祖日興上人以下の御歴代上人が申状をもって公家武家に諌訴なされたことも、まさしくは国そのものでなく、国政の担当者、権力者、国主としての人格に対する諌言であった。これを国諌という言葉の響きより、国家そのものへの働きかけと受けとることは明らかな誤解である。為政者の信仰の正邪がその人間性およびそれによって醸し出すもろもろの因縁の上に、或いは三災七難となり、或いは安国安穏の世となって表われる。かかる原理にもとづいて国主、天皇をも正法に帰依せしめんとされたのである。

 

 

大聖人のお考えが、国家権力との癒着を意図するものでなく、一段上の次元よりそれを導くところにあったことは次の請文でも明らかである。

 

 

「わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閣魔王のせめをばいかんがすべき」 種種御振舞御書(全集九一一)

 

 

「わづかの天照大神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし」 同(全集九一九)

 

 

「国主既に第一の誹謗の人たり」 呵責謗法滅罪抄(全集一二二六)

 

 

「日蓮が小身を日本国に打ち覆うてののしらば無量無辺の邪法の四衆等・無量無辺の口を以て一時に訾るべし、爾の時に国主は謗法の憎等が方人として日蓮を怨み或は順を刎ね或は流罪に行ふべし、度度かかる事・出来せば無量劫の重罪・一生の内に消なん」 同

 

 

等枚挙にいとまのないところである。

 

 

さてこのように、大聖人の仏法が民衆性を有し、その民衆の仏法弘通者としての自覚、活動がその人間の幸福ひいては社会変革(国土安穏)につながるとするとき、更に大聖人の仏法において国諌とはどのような意味をもっていたかを考えてみよう。

 

 

大聖人が「立正安国論」を鎌倉幕府に提出し諌言あそばされたことは、すなわち国主と雖も仏弟子としての自覚を喚起せしめ、その成仏を図る必要があり、また、その社会的影響が強いだけに、国主の行為が人間性の変革によって是正されることにより広汎な範囲の変革が可能となるからである。従って、いわゆる国家意志そのものを目標として権力者へ諌訴せられたのでなく、権力者の信心の開覚を中心としてそれを仏国土建設の一助と目されたのである。

 

 

また、御書の中に拝される公場対決についても、既成仏教界と権力機構との癒着という、当時の背景を考えねばならない。正論が通らず大聖人の主張を封じ込めようとした情勢に対し、最も有効に誤った癒着を矯し、かつ思想の正邪の決着をつける方法が公場対決であった。苟もそれにより公の権力で布教しようとされたものではないことを知らねばならない。しかるにそのころと社会事情、宗教情勢が全く異なっている現在においては、公場対決が布教の方法に適さないことはいうまでもあるまい。

 

 

このようにその教法が偉大であり、より普遍的であればあるだけに、大聖人の仏法は決して一国とか一民族の範囲のみのものでなく、広く全世界に流布しその国々土地ゝの民衆を救うべき必然性がある。先に挙げた撰時抄の文のごとく、大聖人は全世界の人々が競って題目を唱える時が来ることを鑑知あそばしたのである。題目が全世界の人の信仰口唱の体である已上、本門戒壇が全世界の人々の帰命依止の大戒場であるのは当然である。

 

 

故に再掲するが、戒壇についても三大秘法抄に、

 

 

「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」 (全集一〇二二)

 

 

として本門戒壇が全人類の参詣とその魂の救済を目的とする広大な意義を説かれている。

 

 

しかるに今日まだ世界の中には国教を定める国家が残存している。これはその宗教の閉鎖的孤立的状態を示すものである。少なくもその状態にある限り、現今あらゆる面で関連性を持ちつつある世界の国々の、共通した平和の目標にたいし進んで指導的立場と役割りを持つことはできない。我が国としてもそれを模倣することは決して好ましいことでなく、むしろ時代に逆行というべきである。

 

 

そもそも高等宗教は元来が政教分離的教義より出発している。原始古代宗教が政教一体であったのにたいし、個々の生命の内奥より出発する救済を標榜したのである。とくに仏教において、その教えと政治そのものとは自ら次元が異なるのであって政治権力を持つ者も仏法の下には一箇の信徒にすぎない。従って個人の精神の自由と解脱を説く仏教が、国家権力の下に特別の扱いを求めることはその宗教本来の精神の抛棄につながるのである。

 

 

そこで実際に国教ということを定めた場合を想定すると、まずその宗教の側において、

 

 

一に形式化、形骸化による潑剌とした信仰心の消失

二に正しい布教精神の喪失

三にその国内外への伝道に際し、他国民の政治的、感情的、感覚的な面からの障害に遭遇し布教の目的に頓挫を来す

 

 

等の弊害を増長せしめるであろう。また国家の側においても、

 

 

一に信教の自由を否定する

二に政治の生命ともいうべき公正を失う

三に本来異なるべき政治と宗教の次元の混淆混乱により、あらゆる社会問題や無用な対立抗争を引き起こす原因を作る。

 

 

等の弊害を避けることは出来ない。これはその宗教の本来の布教の目的を大きく逸脱することになる。

 

 

けだし政教分離、信教の自由が近代国家の共通した原理となったのも、政治権力が特定の宗教と特別な関係を結ぶことによる様々な不合理にたいする苦い経験から来ている。これこそ今後の世界各国が進みつつある方向であり、世界の趨勢といえよう。

 

 

日本の現平和憲法に規定された政教分離と信教の自由は、一般的立場からも有意義であることに変わりはないが、とくに世界民衆に真の自由と平和を招来すべき、唯一最高の大聖人の仏法が出現する国におけるものであるところに、無限の意義かある。まさに未来の世界民衆を導くための素地が制度的に確立したものというべきであろう。もし大聖人の仏法が国教ということになると、現在の国際間の状況よりしても信仰は日本一国にのみとどまり、全世界の人々が本門戒壇の霊場を蹋み罪障消滅を祈ることは出来ないのである。

 

 

世界民衆の一人一人に成仏の大道を示してゆく大聖人の仏法に、国教ということは全くありえないし、かえって正しい弘通が阻害されよう。その国教ということが全く排せられるべきものであるから、国立戒壇ということも当然必要がないのである。今日の時代は特に世界宗教としての大聖人の仏法の本質より見て、苟も狭い一国の枠における国家主義的な執見に囚われてはならないのである。

 

 

已上の諸点を考慮しつつ三大秘法抄の戒壇の文を拝する。先ず、

 

 

「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」

 

 

とは、国家社会の思想、世界観において正しい仏法が社会・政治・文化の指導理念としてその根底をなすことをいうのである。

 

 

「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちで」

 

 

とは王(転輪聖王、時代を導く民衆の連帯ないしその真実の指導者の力)と臣(万民)が共に同じ立場で正法を受持し、成仏を期していくことである。

 

 

「有徳王こ筧徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

 

 

とは正しい仏法者とこれを守護する世俗中の力、又はその指導者が顕われる時をいう。以上か建立すべき時の条件を示された御文である。

 

次に建立の手続きとして、

 

 

「勅宣並に御教書を申し下して」

 

 

と仰せられている。これは当時、勅宣、御教書が戒壇堂建立に不可欠の合法的手続きの故であった。

 

 

すなわち日本の仏教はその受け入れの初めから国家仏教としての性格を持っていた。天皇が仏教を信奉するか否かという次元でその受容が争われたのである。一度この受容が決まって後は、国家の厚い庇護と統制の下に興隆が図られたので私寺の建立は禁ぜられ、僧の出家は朝廷による許可を要した。この官寺官僧の制度は中央および各国に僧官を設けることによって徹底されたのである。

 

 

律令時代の仏教制度としては中央に治部省と玄蕃寮があり、地方に国郡司がいて、寺院、僧尼、斎会、寺塔修理、寺田、寺封等の一切を管理し、すべて国家機構の中にあって執行せられた。また戒壇は大和の東大寺が天平勝宝六年(七五四年)に勅令で建立、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺は天平宝字六年(七六二年)に建立されこの三処が公式に定められた。故に当時の戒壇が官立であったことが明らかである。

 

 

公武二元体制の鎌倉時代に至っても対仏教の基本的建て前に大きな変化はなく、原則的には律令時代の政策が踏襲されたといえよう。鎌倉幕府は基本として朝廷を立て、その勅宣、院宣を受けて寺院建立、寺領の保護などを行なった。しかし又一方では律令制そのものが時代とともに弛緩し、国家仏教の制度も次第に衰頽を来したのである。例えば律令制で厳禁された私寺建立の制は桓武天皇の再禁止にもかかわらず、その後の平安貴族によってつとに破られ、また僧尼の得度、受戒の制も自由化した。したがってコ門仏教はきわめて一般的開放的な方向を模索し展開しつつある時代であった。かかる漸次的な形で古来よりの慣習制度が改変ないし衰頽するときは、新旧両様の時代意識の制約が存するといっても過言でない。

 

故に大聖人御出現の時代は奈良朝よりの国家仏教的色彩は実質的に衰えつつもいまだ残存し、また特に叡山迹門の仏法と戒壇にたいする桓武天皇等の護持の前例もあった。故に曽谷入道等許御書に、

 

 

「伝教大師は仏の滅後一千八百年像法の末に相当って日本国に生れて小乗大乗一乗の諸戒一一に之を分別し梵網・理路の別受戒を以て小乗の二百五十戒を破失し又法華普賢の円頓の大王の戒を以て諸大乗経の臣民の戒を責め下す、此の大戒は霊山八年を除いて一閻浮提の内に未だ有らざる所の大戒場を叡山に建立す、然る間八宗共に偏執を倒し一国を挙げて弟子と為る」

 

 

撰時抄に、

 

 

「桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う―乃至―終に王の前にしてせめをとされて六京・七寺・一同に御弟子となりぬ」

 

 

と仰せられる処、大聖人の御覧になったそのころの仏法前例の相が明白である。

 

 

この勅宣、御教書の文についても、之を一つの于続きとして挙げたまう理由は、律令時代からの国家仏教的伝統により戒壇堂建立にたいし国主の勅許という制約があり、かつその歴史的前例があった。大聖人はかかる時代をふまえたまい国主の勅裁という形での戒壇堂建立を述べられたのである。

 

 

しかしこれは一往のことであって、かかる手続きや国主の裁許等が将来永久に必要とは限らない。国の機構、法制等は時代により変化してゆくからである。苟も過去のある時代の持性、あるいはそれに対する考慮から述べられた大聖人の御真意を誤って取り上げ、今日における国主の裁許とか国家権力による法定とかに解釈することは、大きな時代錯誤である。

 

 

故に大聖人は三世を達観あそばす御見識より、勅宣、御教書が将来もし不要の時代が来ればこれに拘わるべきでないとの意味を小考あそばされたのではなかろうか。その御配慮が末尾の文の、

 

 

「建立すべき者歟」

 

 

の「歟」の字に顕われているように拝されるのである。これはともかく、今日において国法、制度、宗教的実状、国主の意味等のすべてが変わった今日、この勅宣、御教書をもって仏法にたいする国家権力の介入の必要性を論ずることこそ守文僻取の徒であり、大聖人の御真意に背くものである。

 

 

そこで大切なことはこの文の真意を究めんとするとき、戒壇建立の主体者は誰かということである。それは要するに大聖人の門弟僧俗である。その中に国主がおられるとしても門弟僧俗であることに変わりはない。またこれは七百年前の時代にあっても、今日にあっても同様である。但し社会の機構が変わって大聖人御在世の頃の意味での国主は今日において民衆である。勅宣、御教書の意味を考えれば、それは信教の自由の制度下における建立の手続き則ち建築許可証の意味となり、又大聖人の門弟一同の信心による結集とその建立にたいする願望、実践の意志とも解されよう。

 

 

更に

 

 

「時を待つ可きのみ」の「待」

 

 

の字はまちうける、そなえる、ふせぐ、もてなす、目をつける、任用する、たすける等の意があるが、ここでは単に安閑として待つという意味でなく、事態にそなえる、または積極的に事態の進展をたすけるの意にも解される。則ちこの「待」は時に対応してゆく意に拝すべきである。

 

 

かつて二祖日興上人が謗法泥土と化した身延山を離れ、大石寺を建立し根本の大曼荼羅を安置あそばしたのも、大聖人の御遺命による本門の仏法広布と戒壇堂建立の目的において、当時としての事態に対応せられたからである。

 

 

また現代にあって八百万信徒の信心の結晶と団結の意志による正本堂建立も、この実現に対応する意味を持っているのである。

 

 

すなわち、三大秘法抄の御文に即して説明すれば、

 

 

八百万信徒の団結により、正法は政治、経済、社会、文化等の思想、世界観の指導原理、根本理念となりつつあり(已上「王法仏法……合して」に近いことを示す)、

 

 

日本国のみならず世界各国の民衆の多くが正法を護持し「已上王臣一同……持ちて」に近いことを示す)、

 

 

創価学会をはじめ各法華講が本山を守護し、また、人々の人間革命により平和社会の建設が進められ(已上「有徳王……移さん時」に近い事を示す)、

 

 

憲法により信教の自由が保障される等建立について国法の支障はなく(已上「勅宣……申し下して」にあたる)、三大秘法抄の事の戒法の意義を含むものと言わざるを得ない。

 

 

そして「三国並に……蹋給う」にふさわしい世界的な建築物であり、現に、日本のみならず世界各国の多くの者がここに詣で、大御本尊に題目を唱えている事実があるのである。このことからも、正本堂が三大秘法抄の戒壇の意義を含むことを否定しえないであろう。

 

 

今、僧俗に課せられた使命は、広宣流布ひいては平和社会建設のために不惜身命の精神で努力し、正本堂を荘厳することである。

 

 

已上戒壇についてほぼ述べ来ったところであるが、昭和四十五年五月三日の日達上人猊下による国立戒壇の名称不使用宣言、及び昭和四十七年四月二十八日の訓諭に関してこれに反対し、且つ種々の訓誠を受けるも諒とせず、不祥事を惹き起こして宗門より破門された者達として、元信徒浅井一派がある。

 

 

彼等の主張は第五十九世日亨上人、第六十四世日昇上人、第六十五世日淳上人、御当代日達上人の著作講演中に、いわゆる御遺命の戒壇を国立戒壇と呼ばれていることより、今日の宗門が先師違背と自語相違なりと云うのである。又それ以前の御先師の説法中にも国立戒壇の名称こそないが、説かれるところは国立戒壇であるといっておる。これらは悉く見当違いな誤解錯謬というべきである。今ここに日亨上人以下御先師の国立戒壇の名称を使用あそばされた実情を拝し、今日その必要のないことを明らかにしたいと思う。

 

 

前にも述べたが元来日本仏教の特色はその国家的なところにあった。則ち仏教は聖徳太子より聖武天皇にいたる時代、乃至それ以降においても、国家を統治する皇室の信奉により、当時の新日本樹立と文化向上への方策とし、また国家安泰の指導原理として重く用いられた。従ってその昔の仏教の経営は国家が之を行ない、国教という制度上の規定こそなかったが事実上、国家仏教として保護され、弘められたのである。大聖人御出現の時代はかなり国家仏教の規定も衰退し、事実上消滅していた部分と、その色彩がいろいろな形式において残っている部分があった。日蓮大聖人は、個々の人間の救済を末法万年にわたる意味で、その化導の根幹とされたところに最大の眼目があるのであり、ただ現実の社会とかかわる面において、当時の社会の中に残っていた形式、言葉に合わせて表現せられた面がある。前述の三大秘法抄に、

 

 

「勅宣並に御教書を申し下して」

 

 

等と仰せられているのはこの故である。その後もかかる思想は、日本仏教ならびに社会の底流に歴史的特色として存在していたことは否めない。

 

 

特に明治期に入り、天皇を中心とする国粋主義的主張が著しく顕揚されるにいたり、宗教界もその影響を強く受けた。

 

 

日蓮宗系における田中智学の創唱により国立戒壇の語が一度日本国内に流行するや、宗門においてもこの用語の取り入れに当初慎重な様相も窺えるが、結局は形式的に使用するに至ったのである。戦前までの社会は皇室にたいし万世一系、天壌無窮、現人神(あらひとがみ)というような尊崇精神は日本人の絶対条件であるとされていたし、国家神道を中心とする国家の宗教政策も厳存していた。こうした社会状況に対処しつつ正法を護持し、広宣流布を願望し祈念していた当時の宗門においては、天皇の帰依ということを重要な要素と考えないわけにはいかなかった。

 

 

近年改訂される已前の勤行式第四座の観念文が「祈念し奉る天皇陛下、護持妙法」……で始まることもこうした時代背景ぬきでは考えられない。

 

 

戦後は皇室にたいする特別な観念は一般にうすれたが、天皇と結びついた戒壇建立思想は漠然たる形ながら、特に明治時代出生の方々の間には残っていたといえよう。かかる思想が戦後日本社会全体としては憲法の改正と共に制度的大変革があったにもかかわらず、宗門内では具体的問題に直面しなかったことによって、そのまま深い検討もなく持ち越されて来たというのが偽らざる実情である。

 

 

しかるに今や各国の法制における政教分離の方向は世界の趨勢となっている。宗教と政治の癒着がどれほどの自由の否定による人権蹂躙と流血の惨、言語に絶する野蛮行為を惹起せしめたことであろう。我が国の憲法の政教分離、完全な自由の決定はこれら悲惨な歴史を反省した人類の叡智の賜であり、終局的には真の自由、平等、尊厳を説く法華経の教えに基づくものといえよう。

 

 

従って我が国にかなり長期に渉って存続した国家的仏教の観念を土台とすべき時代は、ここに終わりを告げたのである。

 

 

故に日蓮大聖人の仏法は、信教の自由によって魚の水を得たごとくその真価を発揮するに至るのである。現実に平和憲法によって大聖人の仏法の広宜流布は大きく進展した。かつての田中智学等による国家主義的いき方は、民衆帰依の広宣流布という大聖人の仏法の方軌とは異質のものであり、その精神への冒とくであった。我々は大聖人の仏法の本義に叶った信教の自由を将来永遠に堅持していかねばならない。

 

 

末法の本仏日蓮大聖人の仏法はあらゆる時代の政治的特性を超越して、常に時代の民衆を導く永遠の仏法的生命を持たれている。とともに信教の自由こそその仏法の本義に叶っていることも間違いない。

 

 

故に、今後永久に、大聖人の仏法の本質たる人間救済の意義にのっとり、布教と広布の実現を図ることこそ大切である。

 

 

かかる時代に即し、古来の勅宜等の語を守文的に見たり、いたずらに過去の国家的仏教の印象に執われることを反省し、民衆による広布と戒壇堂建立に望むべきことが大聖人の御正意である。

 

 

今や寂光におわします日亨上人已下の御先師も全く同じ御意であると信ずる。

 

 

但しかくいうと上人方の国立戒壇の御発言が昭和二十一年の新憲法施行の後であるから、上人方は政教分離の規定は既に御存知の筈ではないかとの疑問乃至非難があるかも知れない。もちろん上人方が憲法の改正に伴う政教分離にたいする御理解はお持ちであったろう。しかし、古来の考え方の可否に具体的に直面されなかったことにより早急にこの結論を出すに至らず、概ね古来の表現に従われたのである。

 

 

また新憲法の信教の自由に反対の御意見は、おそらくお持ちでなかったものと確信する。この点、上人方の文献中にそれにかんしての可否のお言葉が全く見当たらぬことで明らかである。

 

 

次に日淳上人は広汎な著述中のごく僅かな処で、

 

 

「真に国家の現状を憂うる者は、その根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります」

 

 

等といわれている。かように国教を主張せられた原因として、昔より培われた日本仏教独特の国家仏教的印象に加えて明治欽定憲法とその時代思想が基準となっているものと思う。

 

 

たとえそれが昭和二十一年の現行平和憲法発布以後であっても、一般的に事物の常識、とくに宗門の長期に渉る認識は、顕著なる契機に直面しないかぎり往々にして前時代の規定や思想に基調がおかれる場合が多い。ところで明治欽定憲法の信教にかんする規定は、

 

 

「第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス」

 

 

とありこの点線の部分は、現行憲法の第二十条には全く削られているが、ここにこそ明治憲法の特色がある。信教の自由は認めつつも猶そのあり方いかんにおいては政府の指導、監督、干渉の余地を大いに残していた。従ってこれにより弾圧や処分に附された宗教団体も多くあり、またかかる考えが別に一歩を進めて神社への強制参拝に結びつく実例もあった。戦前には各宗派の管長が年始に宮中に参内していたことも、当時の皇室中心を物語っている。

 

 

かかる憲法下の社会情勢、時代意識を背景として考えるとき、皇室や為政者が大聖人の仏法を以て国家を指導矯正し、宗教はもちろん政治その他の一切も正法を基本として教導すべきである、との見解に至るのはやむをえない。国教の表現をあそばされた御先師のお考えはほぼこの辺にあらせられたと拝する。

 

 

その反面、日淳上人は戦後常に民主主義の根本精神が法華経にある所以をお説きになり、真の民主主義は仏法の裏付けによって確立すべきことを論ぜられていたから、基本的には平和憲法を尊重すべき御意向であったことが拝察できる。故に日淳上人の国教樹立にかんするお言葉は、いまだ新憲法の政教分離を規定する文が、どのように宗門の今後の方針と関係があるかについて、具体的な事態に直面されないままに立正安国論の宗教革命について、戦前の国家意識を基本として説かれたものと言えよう。

 

 

現平和憲法は政教の分離について、

 

 

「―いかなる宗教団体も国から特権をうけ、又は政治上の権力を行使してはならない。― ③国およびその機関は宗教教育その他いかなる宗数的活動もしてはならない」

 

 

としている。明確に国家と宗教との相互利用ないし結びつきを排除したものである。もし反対に国が特定の宗教に保護または弾圧等の干渉ができるとすれば、むしろ両刄の剣となる可能性もある。国家ないし政治権力が或る宗教と結託し、他の宗派を否定したならば、場合により宗門の存立も根本から崩れ去る危険なしとしない。また現実にわが宗門が終戦後の社会に未曽有の発展を重ねることが出未たのも、その外的原因としては現行平和憲法の保障によっていることは論をまたない。この点から帰納しても、歴代上人、日淳上人には、その御存命中に新憲法国家にたいする基本姿勢をまだ具体的に考慮すべき場に直面されなかったため、すでに大勢は一大転換期に入っていながらも、一往古来よりの表現に従われたのである。

 

 

已上をまとめていうならば御歴代上人方の国立とか国教の表現は、正法こそ民衆と国家社会善導のため絶対に必要であり、他の低劣な仏教各派乃至諸宗教の存在は悪結果を生ずるため、用いてはならないことを強く説こうとする御意志の発現以外の何物でもない。

 

 

しかし現在はすでに右御先師方の御本意に照らしても、かかる表現を用いる必要はないのである。

 

 

大聖人の仏法の基本は御在世において建立あそばされた事の三大事の法体と、この正法による未来永遠の民衆救済にある。

 

 

要は正しい仏法の発揚と、これによる民衆救済こそ大聖人の仏法の大目的であり、日亨上人、日昇上人、日淳上人の御精神であらせられる。この大精神にのっとり現実に広布の進展著しい段階を迎え、現法主日達上人は、国立戒壇の不使用を宣言なされたのである。この宣言は、大聖人の仏法の本義に照らして述べられたものであると信ずる。

 

 

ここで国立戒壇の用語の創始者、田中智学の戒壇論の特徴を一見しよう。彼は三大秘法抄の戒壇の文について詳細な解釈をしているが煩瑣をさけるためその要点のみを取意略記する。

 

 

「王法仏法に冥じ」

 

 

とは、仏法が国家の精神となること。

 

 

「仏法王法に合し」

 

 

とは、国家がただちに仏法の身体とたること。

 

 

「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」

 

 

とは、上皇室より下臣民の大部分まで一同に三大秘法を護持する。

 

 

「有徳王・覚悟比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

 

 

とは国家をして王仏冥合の大事業を実行する総力となし、世界の道法的総一のため王臣一同国を以て道に殉ずるの決意を持つとき。

 

 

「勅宣」

 

 

天皇陛下は″日本建国の聖教にのっとり本門戒壇を建奠し云々″との大詔を下され、憲法の信教自由の条項改正の案が下される。

 

 

「並に御教書」

 

 

帝国議会の満場一致の翼賛

 

 

「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋れて」

 

 

日本国中では富士山。

 

 

「戒壇を建立す可き者か」

 

 

以上の条件が具わって戒壇が日本国に建立される。この条件が充たぬ限り戒壇は建立することが出来ない。

 

 

「時を待つ可きのみ」

 

 

門下の不惜身命の弘通により時を作るべし

 

 

「事の戒法と申すは是なり」

 

 

日本一同の帰依により国家即戒壇となり、世界一同の依止処、本仏本化の威光と功徳が事上に顕現し、通一仏土の霊的統一を要求する力となった時を事の戒法という。

 

 

 

已上であるが、これを更に要約すると、

 

 

一、国家中心の戒壇建立論
二、憲法改正論
三、議会翼賛論
四、富士戒壇論
五、諸条件具備後における戒壇建立論
六、通一仏土霊的統一要求力実現論
七、国教論

 

 

等であり、古えの日本の国家仏参的思想を更に一歩進め、法の流布のため国家を利用しようとする形で近代国家形態の上に国立戒壇の実現を論ずるきわめて独断的解釈論である。

 

 

なかんずく王法とは御書の意に準じて考えるに、王の存在、在り方、王の政治ならびにその内容等を含む広い概念であり、今日では民衆による政治を含む社会生活の原理と考えることが適正である。にもかかわらず、前項の解釈でもこれを直ちに国家とするところに国家主義、国粋主義の誤りが見られる。

 

 

また国教諭については引用は省略するが、大聖人の仏法を田中智学の国家主義的見解より強いて国教と解し、大々的に牽強付会の論を展開している。

 

 

これに対して浅井一派の国立戒壇論をざっと摘要すれば、

 

 

一、国家中心の戒壇建立論
二、天皇中心、並びに議会翼賛諭
三、本化聖天子発願諭
四、広布の暁、諸条件具備後の戒壇建立論
五、天母山諭
六、国教諭等

 

 

であり、殆んど田中智学の思想の模倣であってその酷似するところ驚くほかはない。とくにその主張の中の「本化聖天子の発願論」も、発願という意味において、大聖人および歴代上人の法門に全く拝することはできない。

 

 

さらに田中智学の思想に準じて「国家意志が戒壇の大御本尊の護持を表明する時、始めて国立戒壇が立てられ、そのとき国家の成仏がある」というような、国家を人格的、意志的主体とする見解より出た一連の発言があり、国家の意志によって仏法が護持されるべきことの正当性を主張している。しかし、日蓮大聖人は国主に対し、国の政権担当者として国家安穏をいたすべき責任から、邪法を捨て正法を保つべきことをお諌めになっておられるが、国家そのものに意志を認めることも、またその国家意志によって仏法を護持し、戒壇を建立すべきことも共に仰せられていない。

 

 

況んや、御書の各所における王法の語に抽象的な「国家の統治主権」というような意味のない事も当然である。

 

 

前掲三大秘法抄の王仏冥合の御言葉も、また勅宜、御教書も、これによって国家そのものに意志を認め給うものでないことは前来からの論証で明らかである。その他いかかる御書においても、大聖人は人間の生命の尊厳を基本とあそばされ、正しい仏法によって人間が謗法を離れ、正理に従ってゆく道筋において、家、国家ないし世界の安泰と平和が来ることをお説きになっている。いわゆる人間は正報であり、国土は依報である。人間は力、作、因、縁の中心を司り、国土はその受動体としての果報である。国主、国王による外護もこの意味につきるのであり、この、依正の関係の外に特に国家意志とか統治主権とかに当たるような表現、お言葉は発見出来ないのである。従って大聖人は仏国という言葉は依報に即してお用いになっているものの、国家の成仏ということも仰せになっていない。仏法の邪正による災福の正因はあくまで正報たる人間の立場に存するのである。

 

 

秋元御言の、

 

 

「法華経を習うには三の義あり ―乃至 ― 謗国と申すは謗法の者・其の国に住すれば其の一国皆無間大城になるなり ―乃至 ―日蓮・此の大なる失を兼て見し故に与同罪の失を脱れんが為め仏の呵責を思う故に知恩・報恩の為め国の恩を報ぜんと想いて国主並に一切衆生に告げ知らしめしなり」(全集一〇七四)

 

 

との(謗身・謗家)謗国にかんする御言葉も、国は依報であるとの筋道において、正報の衆生の謗法により国土が地獄となることを仰せである。また立正安国論に引用の大集経の文に、

 

 

「若し国王有って無量世に於て施戒慧を修すとも我が法の滅せんを見て捨てて擁護せずんば是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失して ―乃至 ―其の王久しからずして当に重病に遇い寿終の後・大地獄の中に生ずべし ―乃至 ―宰官も亦復だ是くの如くならん」(全集二〇)

 

 

との箴言も、政治と国家安寧に責任ある国王個人の立場において、仏教を守護しないことによる悪果報、及び王に連なる夫人、太子、大臣、城主、柱師等の堕獄の相、すなわち衆生の仏法背反による悪果を述べている。

 

 

古代国家の原始的かつ素朴的な政体、制度においては、たしかに国王の力が実質的に国家権力の発揚と一致するものであろう。しかし仏教においては国家権力そのものについて可否を論ずるものではない。従ってこの文についても、その趣旨は明らかに国家権力を問題にしているのではなく、国王の宗教的道徳的背反行為とその人間性を誡めているのである。

 

 

また鎮護国家の内容で有名な金光明最勝王経においても、国王の正法守護による国家の安泰を説いており、統治主権とか国家権力などの意味は全く見いだすことが出来ない。

 

 

それが衆生を導く仏教の立場としては恒久不変の正しい態度である。

 

 

大聖人の仏法にあっても同様であり、衆生の信謗の外に、仏法にたいする国家意志の存在ということは特に触れておられない。国家に意志的主体を認め、これによって仏法の護持を律するごとき彼等の主張は、我見といわざるをえないのである。

 

 

今や我が宗門は創価学会の前代未聞の大折伏により、八百万世帯の信徒数に達し、更にその信心と団結はいよいよ未来における教勢の発展を志向している。かかる正法の大興隆により、現実の平和憲法下における社会とどのような関係で戒壇堂が健立せらるべきかという課題が必然的に提起されるに至ったのである。

 

 

この事態に直面して御本仏日蓮大聖人の御精神を深く拝し奉り、我が正宗信徒僧俗一同によって正本堂を建立し、本門事の戒壇と拝し奉るのである。このように民衆による広宜流布の大業が着々と推進されることは大聖人の御意に合致することが明らかである。

 

 

已上

 

 

(大日蓮 昭和51年3月号 21~54ページ)

コメント

タイトルとURLをコピーしました