「正本堂」に就き宗務御当局に糺し訴う

国立戒壇について

前回に引き続き「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」をアップいたします。ネット上に公開されるのは初めてだと思いますので、皆様是非ともご活用ください。

 

なお、前回と同様に現在となっては眼を疑うような浅井さんの発言には赤字で、参考になる部分は黄色のマーカーを入れました。また、一か所ある青字は以前に私が記事にした「現在の大石寺に『本堂』は存在しない」の裏付けとなる御指南でございます。(この一点で御宗門が現在御遺命を破壊しているのか否かが判断できるのです。)

 

https://kenshokai-hashaku.com/taisekiji-hondo-nasi/

 

それではじっくりとご覧くださいませ。

 

 

 

 

「正本堂」に就き宗務御当局に糺し訴う

 

日蓮正宗 妙信講

 

 

 

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の掲載にあたって

 

 

この書は昭和四十五三月、宗務院に上書された最初の諌暁書である。当時、宗門全体は創価学会の歪曲に同調し「正本堂こそ大聖人御遺命の戒壇」と、僧俗こぞってこの大誑惑を讃嘆していた。

 

 

浅井先生はこの現状を見て止むに止まれず、“もし大聖人の御遺命が曲げられれば日本の破滅”と、憂宗護法の心血をこの一書にそそぎ建白された。

 

 

御法主上人貌下には同年四月三日、講頭先生・浅井先生を総本山に招かれ「よくぞ書いた。これこそ本宗伝統の法義、宗開両祖の仰せのままである」とまで、この書を印可されたとお聞きする。

 

 

実にこの一書により、正本堂の誑惑は粉砕され、隠れんとした大聖人の御遺命は厳として顕われたのである。然るに創価学会と宗務院は懺悔なく、己れの犯した罪を隠すため、その後陰険卑劣の弾圧をくり返して来た。だが、「悪は多けれども一善に勝つことなし」と、すでに根を断たれた誑惑は崩れる以外にない。

 

 

いま、全国に御遺命守護の大斗争いよいよ高まる時、全講員はこの書を再思再読し、以って御遺命守護の重大意義を改めて心肝に染めるべきである。

 

 

―編集部―

 

 

 

一、上書に当って

 

 

去る昭和四十四年一月七日、それまで法華講連合会により謂れ無く妨害されてきた総本山御登山を、妙信講員は五ヶ年ぶりに叶えさせて頂きました。その折、全国の法華講員は大講堂に集められ、平沢委員長より訓辞を受けました。それは正本堂に関する話であり、その中に「三大秘法抄・一期弘法抄に云われた戒壇が、いよいよ昭和四十七年に立つ。そして本年はその定礎式である云々」という意味の指導がありました。

 

 

かねて仄聞はせるも、直接に耳にして私共は唖然といたしました。かゝる義は私共は未だ曽って講員に指導した事も無く、また自らも有るべからずと堅く信じております。さればその場に居合わせた講買等も一同に不審の面持、止むなく妙信講員のみを一堂に集め、御開扉までの暫時、歴代先師上人の仰せのまゝに純正の御法義を伝え、更に当日許し給わる御戒壇様御内拝の有り難きを教え、その後、厳粛・渇仰の熱涙の中に五ヶ年ぷりの御内拝を給わったのでありました。

 

 

而して下山後の二月十一日、突然総監殿には当講指導教師・松本日仁能師に対して、宗務院・連合会の連絡会議の席に出頭するよう命ぜられました。単身出席した老御能師に対し、大勢の面前で平沢委員長は妙信講のことに関して、居丈高に詰問を発したとの事であります。しかも、最後に「返答の次第によっては池田総講頭に之を伝え、妙信講をつぶして見せる」とまでの威嚇を為したそうであります。

 

 

即日、松本能師よりこれを聞き、さらに書状に示された詰問内容(宗務御役僧の筆記に依る。いま小輩等の手許に在り)を見るに、大綱は四ヶ条でありました。即ち、第一に登山当日・大化城に御安置せる御本尊が紛失せりとして、その嫌疑を妙信講に擬した事。第二には妙信講は猊下を即大聖人と仰がぬ、と決めつけた謂れ無き詰問であり、第三には公明党に対する見解を徴し、第四に妙信講は正本堂を事の戒壇と云わぬ、と詰ったものでありました。

 

 

即座に、第一の紛失事件については、その証拠も無きに濫りに忌わしき嫌疑を擬す無礼を責め、他の三項については責任ある解答を為すべく、詰問内容の正確を期したき旨を認め、松本能師の手より即日平沢委員長宛発送いたしました。その後なんら返事はありませんでした。

 

 

その時私共につくづく感ぜられた事は、宗務御当局の不思議な御態度でした。妙信講を何とか罪に落し入れ失わんとする連合会の悪意怨嫉は、今更驚くべきではありません。だが、かゝる理不尽の言動を眼前に黙認傍観し、あたかも支持するが如き態度を御当局がおとりになるのは、どういうお考えなのか。而も御高齢にて在す松本御能師が只一人・大勢の中で嬲られるのを見ながら、しかもその詰問の謂れなきをも知りながら、一宗の行政の衝に在る御当局が黙認せらるるは何故か。何を憚り、何を恐れておわするのか。或いはまた連合会の非理を道理と思しめさるるかとも忖度し、それならば、むしろ連合会を相手とするよりも、世・出の道理わきまえて在す宗務御当局に直接存念を申し上ぐには如かず、と考るに至りました。依ってその後、書状に・面談に・しばしば訴え、厳重なる申し入れを為して来たわけであります。

 

 

そのうち五月に入ってかの「聖人展」あり、正宗信徒として黙す能わず、身の破るるをも顧みず、再三必死の諌訴をなすに至りました。為に先の問題は一時中断、十二月に至って再び書状を以て解決を御当局に迫りました。思うに、世間の金品の紛失に於てすら濫りなる嫌疑は人士の慎しむ所、況や清信の徒に対し、御本尊紛失などの忌わしき容疑はどうすれば擬せられるのか。連合会幹部の心意の卑怯・低劣この一事にても推し量らるべきであります。

 

 

更に「妙信講は猊下を大聖人と思わぬは不敬なり」などの詰問は、如何なる事を意味するのでありましょうか。妙信講員の誰人が、何時・何処で、かゝる不敬の言辞を弄したのか。確かなる証拠あらば出すべきであります。勝手なる想像を逞しうして妄言を捏造し、ことを猊下に寄せて当講を落さんと計るに至っては、ただ呆然たらざるを得ません。富士門流の清信に生きる者、誰人が猊下を尊崇せざる者がありましよう。蓋し、正本堂を私共が「事の戒壇なり」と云わざるをとらえて、事を猊下に寄せ、「背く」なんどの悪言を放ったものと思われます。

 

 

事のついでに申せば、およそ世・出両道に法の曲がるのは、かゝる事態より発します。かって、時の幕府が自らの権力維持の為、いかように勅命を利用したか。また近時に於ては詔勅を以て弾丸とし、玉座を以て障壁とした権力者は未だ記憶に新しき所。恐るべきは、世・出共に自らの野望の為に、勅命を私する如き事態であります。さればかの和気清麿は機丸と罵られ、逆臣の汚名まで着たのであります。

 

 

いま宗門に於て、猊下の御名のもとに為される事に、誰人が背けましょう。若し此処を以て私に利用せば、正に師中の害毒これより甚しきはありません。さればかゝる時は、仏法の道理に任せて猊下の御本意のおわす所をしっかと見定め、猊座を守り奉るが真の護法者、真の弟子、されば遺誠置文二十六ヶ条にはかの一条を二祖上人置き給うか、とも存ずるものであります。

 

 

もとより連合会幹部の如きは、虎の威を借る徒輩に過ぎず。ただ学会の権力に阿諛追従するのみにして、その言動一として自らの道念と識見に出るものに非れば、すでに相手とするには足らず。但し、清浄の御登山を法華講信徒統制の具に利用し、権限を壟断して純信の参詣を数年に亘り阻害した大過は、将来必ず現われざるべからずと思うものであります。これ等はさて置く。

 

 

而して昨十二月十三日、先の詰問状について首尾解決せんと更に総監殿に面謁を求むるに、総監殿には阿部教学・藤本庶務の両部長を併い応ぜられました。席上、御本尊紛失の嫌疑については、阿部教学部長をして松本能師立ち会いにて平沢委員長宅へ電話せしめ、嫌疑の全く謂れ無きことを確認せしめられました。しかしこれ等は未だ小事であります。連合会の詰問に於ける最大事は「正本堂」の一事であります。しかしこの一事は宗門の重大法義、されば在俗愚痴の身を以て、軽軽に論ずるはなお恐れありと、小輩等口を慎み御当局の仰せ出しを待っていたものでありました。しかるに当日、此の義に及んでは言及せられざる趣きなれば、遂に意を決し当方の存念を申し上げんとするに、総監殿には所用とて中座せられ後日を約されました。

 

 

そして十二月二十二日、約束の席を妙縁寺に設けられるに、総監殿には欠席、代理として阿部教学・藤本庶務の両部長がお見えになりました。よって阿部教学部長に対し、正本堂の仏法上の意義を糺し、私共の所信を言上するに、論義の末、阿部教学部長は「猊下は一度も事の戒壇とは仰せられず」と、正本堂の事壇ならざるを遂にお認めになりました。されば直ちに善処せらるべしと迫るに、総監殿と計りてのち返答すべしと仰せられました。

 

 

しかるに御当局より其の後なんの沙汰もありません。よって立ち会われた松本能師は再三に亘り、電話を以て総監殿の意向を伺うに、或は風邪気とて電話口までも出給わず。ゆえに能師更に手紙を以て促すも全く誠意の返答に預らず。本日まですでに三ヶ月に及ぶ。

 

 

されば止むなし。よって此処に一書を認め、以て正本堂に就いて、不審の条々を正式に御当局に札し、且つ訴えんとするに至ったものであります。

 

 

ここに沈思するに、「事の戒壇」は御本仏大聖人究竟の御大事、宗門の使命もこれに過ぎず。されば歴代御先師の指南また一句をも忽にせず、一糸をも乱し給わず。然るにいま此の重大法義、色香まさに失われんとす。正しくこれ仏法の壊乱であります。これを見て黙して云わざれば、その姿謙譲に似て頗る臆病、すでに身を惜んで法を惜まぬ無道心、却って「仏法中怨」の責めにも当り、「寧喪身命不匿教」の誡めを背くにも当るかと恐れ、此処に在俗愚痴の身をも顧みず、敢えて所懐を上申するものであります。

 

 

もとより小身を以てかゝる大事に言及する以上、すでに一身の破るるは覚悟の上、さらに講中八千世帯の命運すら顧みざる所であります。

 

 

 

二、すでに宗門一同の義か

 

 

申すまでもなく、事の戒壇は大聖人究竟の御本願であります。されば大聖人たやすくは明言し給わず。御書を尋ねるも「戒壇」の名字を明し給う御書すらなお法華行者逢難事・法華取要抄・教行証御書・報恩抄の四抄のみ。況や具さなる相貌・為体は絶えて窺うべくもありません。ただ御入滅の御歳に至りて示し給う三大秘法抄と一期弘法抄に、始めてその相貌をわずかに拝し奉るのみであります。

 

 

これ大事の大事たる故、すべては日興上人への御口伝にして、歴代御法主の御胸に伝えられ給うものと拝するものであります。されば御内拝に当って、歴代上人その金口を以て七百年来説かせ給うには、

 

 

「事の戒壇建立は宗門の一大事なり。乃至、宗祖亦六老・中老等数輩の御弟子在すといえども、独り吾が開山の白蓮阿闍梨日興上人に付嘱し玉う。乃至、此の御遺状に『日蓮一期の弘法』とは、此の御本尊は我祖大聖人二千余年の其の乃往・地涌千界の上首として天竺霊鷲山に於て、教主釈尊より相承し玉ふ処の大法にして、宗祖大聖人出世の御本懐なるが故に『日蓮一期の弘法』と云ふなり。是を白蓮阿闍梨日興に付嘱し、事の広宣流布の時、富士山に本門戒壇を建立すべし。就中我が門弟たる者此の状を守り、少しも違背すべからず、と制誡し玉ふなり。乃至、されば開山日興上人も本六新六等の数多の御弟子在すといへども、嫡弟新田卿阿闍梨日目上人に付嘱し玉ふ。其の証日興上人より日目上人へ譲り玉ふ時の御遺状に『日興跡条条の事、乃至広宣流布を待つべき也』云々、此の御遺状に『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大本尊』とは。即ち此の御本尊の御事なり。此の御本尊は蓮祖大聖人御歳五十八歳弘安二年十月十二日に御書顕遊され、本門弘通の大導師として開山上人に給わるが故に『日興が身に宛てて』等と宣玉ひしなり。是を日目上人に相伝す。広宣流布の時本門寺の戒壇堂に掛け奉る可きと云々。乃至、丑寅の勤行怠慢なく、専ら事の広宣流布の時を待ち奉るべしとなり。乃至、然るに未だ事の広宣流布の時節も至らずして、天皇陛下に於せられても未だ拝し玉はざる以前に、各々旁々には恣に此の大御本尊を受持信行し奉ること誠に宿縁深厚の幸い、実に世に比類なき果報いみじき身の上なる程に、必ず此の義ゆるがせに思ふべからず」と。

 

 

この御説法の耳朶に触れる時。正宗信徒は七百年、身を歓喜に打ち震わせ、事の戒壇建立の重大事たると、捨身の御奉公を深く胸に秘めて下山したものであります。

 

 

然るにいま、未だ事の広宣流布も来らず、大聖人の定め給う条件も整わざるに、突如として正本堂の立ち、俄かにこれを「事の戒壇」と信ぜよと云う。しかもこれに随い云わざれば「総講頭に伝え、とりつぶして見せる」などと息まく阿諛の軽薄子も現わる。まこと忠ならんと欲すれば孝ならず、進退ここに谷まる。思わず脳裏をかすめるは趙高の故事、即ち趙高鹿を帝に献じて馬なりと云う、帝笑いて左右に問う、左右威を恐れて或は黙し或は云う、趙高・鹿と云えるを陰に罰す、群臣畏れ服すと。蓋し、かかる妄想は小輩等多年の抑圧に心ゆがみ僻目たるの故なるべし。

 

 

されば、創価学会池田会長は自ら正本堂建立の願主となり、その発願式に臨んで自ら発誓願文に云く。

 

「夫れ正本堂は末法事・の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業なり。………今茲に発願せる正本堂は文底独一本門事の戒壇にして………日達上人猊下より本門戒壇の大御本尊を安置し奉るべき由御説法あり、茲に本門事の戒壇としての正本堂の地位正しく決定せり。………されば三大秘法の大御本尊の事の戒壇たる正本堂の御供養に参加せる清信の徒の福運は正に三世十方の諸仏のことほぎ給うところ」と。さらに定礎式に於てカプセルの蓋に銘じて云く、

 

 

「此の正本堂は一閻浮提総与の大御本尊を御安置し奉る法華本門事の大戒壇である」と。すでに正本堂を事の戒壇と断定せり。発願主たる池田会長の意かくの如し。

 

 

されば下これにならい学会一般の教科書とも云われる折伏教典(改訂三五版)を見れば、

 

 

「戒壇とは広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である」(一一九頁)と云い、然らばその「事の戒壇」とはいつ建つのかと云うに、

 

 

「昭和四十七年には事の戒壇たる正本堂が建立される」(三七六頁) と。さらに「宗門にとって七百年来の念願であった本門戒壇は昭和四十七年に建立される」(二三三頁) とまた明確に断定をする。

 

 

また宗門側の意を窺うに、宗務院の正式文書(昭和四十年九月十二日)に云く、

 

 

「今回の正本堂建立は宗門僧俗にとって此の上ない誠に重大な事業であります。すなわち、訓諭に仰せ遊ばされてあるように、本門戒壇の大本尊を奉安申上る清浄無比の大殿堂であり、このことは、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立・広宣流布の、弥々事実の上に於て成就されることなのであります。」と。

 

 

但し、ここに不思議なるは、御法主上人の訓諭には一言の「事の戒壇」なる御言葉も見られぬ事である。いやこの訓諭だけではない。正本堂の意義が初めて決定されたと学会で喧伝する昭和四十年二月十六日の正式の御説法に於ても、猊下は「事の戒壇」の御言葉を用い給わず、またその意味も宣べ給わず。ただ、戒壇の大御本尊の御安置を仰せ出し給うのみ。その後の発願式に於ても然り、起工式も然りである。

 

此処に思うに、戒壇建立の大事は総じては門下一同への御遺命とは云え、別しては二祖日興上人御一人への別付嘱である。されば現在に於て血脈付法の御当職上人この大任に当り給うに、いま発願主の大檀越は盛んに「事の戒壇」と断定し、筆に舌に強調するも、猊下は正式の場にて一言も仰せ出されざるは如何なる訳か。これ第一の不思議である。いや「定礎式には仰せられたり」と云う輩には反詰せん。何ゆえ、かかる宗門の重大事に当って、猊下が御自身・随自意のお言葉を用いず、却って池田会長の語を引くに留り給うやと。まさに知るべし。これ猊下の御本意には非ることを。此のことは大事の大事たる故、後文に更に詳らかにせんとす。

 

 

而して仏法守護の棟領たる池田会長と、宗務当局の云う所なれば、小樹の大風になびくが如く、是非を論ぜず一宗の御僧侶これに随う、況や連合会の信徒に於ておや。されば発願式に臨みし宗門御僧侶面々の云く、

 

 

「この正本堂建立こそご二大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」と。又云く、

 

 

「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ。との宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか。正本堂建立発願式こそ、三千年の優曇華・一眼の亀の浮木にも超えたる最大歓喜である」。又云く、

 

 

「正本堂建立は即ち、事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、二祖日興上人より代々の御法主上人の御祈願せられて来た重大なる念願であります。」(以上大日蓮二六一号所載)

 

 

名前は伏せるも、いずれも宗務支院長以上の宗門有数の御僧侶方である。されば、内心には謂れ無き由を存する人はありとも、権威を恐れ、或いは迷惑して口をさし出す人もなし。ここに正本堂の事の戒壇たるはすでに宗門一同の義のごとし。

 

 

しかるに、御書には事の戒壇の立てらるべき条件をついさして定め給い、先師上人またこれを相伝えて一糸の乱れ歪曲をも許し給わず。されば人の多きに従わず、御書を先とし、また先師の御指南を本とせざるべからず。

 

 

こと此処に及んで止むを得ず、恐々としていま先師上人の御指南を窺うに、事の戒壇に就き、時に当って重要なる次の四つの義を拝す。即ち、

 

 

一、事の戒壇は 事の広宣流布の暁を待って立てられる。

一、事の戒壇は 国立戒壇である。

一、事の戒壇は 本化聖天子の発願に依る。

一、事の戒壇は 天母山に立つべし。

 

 

されば法義上に於ては以上の四義、それに猊下の仰せと学会の自語相異とを加えて都合六箇、これを以て、正本堂が事の戒壇ならざることを以下申し述べんとするものである。

 

 

 

三、事の戒壇は事の広宣流布の暁に立つと聞き奉る

 

 

 

正本堂に就いて第一の不審は、未だ広宣流布もせぬのに、なぜ事の戒壇が立つのかと云うことである。されば日淳上人は、

 

 

「大聖人の終窮究竟の御化導は一閻浮提一同に本門の御本尊を信じ奉ることにありまして、その時に一同帰命の御本尊を安置し奉るところを本門の戒壇と仰せられたのは本炒(三大秘法抄)に於て明らかなところであります。その戒壇を事壇とも、また戒法から云って事の戒法と仰せられるのであります。此に対して本門の御本尊のまします所を義の戒壇と申し上げるのであります」三大秘法抄拝読)と。

 

 

事の戒壇建立の大前提は一国一同に御本仏大聖人に南無し奉ることにある。かかる絶対帰依・生命がけの大信心が上一人より下万民に至るまで漲る時、始めて国立戒壇が建立され、その戒壇堂に弘安二年の大御本尊は出御遊ばす。その戒壇を始めて「事の戒壇」と申し上げ。広宣流布の時を待ち給うて富士の宝庫にまします時はその大御本尊おわします処・義そのまゝ本門戒壇に当たるゆえ「義の戒壇」と申し上げる。これが七百年来の宗義である。

 

 

されば広宣流布の断じて来る事これ大聖人の御確信であり、御予言である。故に諸法実相抄には、

 

 

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや、剰え広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」と。また如説修行抄には、

 

 

「法華折伏破権門理の金言なれば、終に権経権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成て妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず云云」と。

 

 

かかる広宣流布の姿が現在来ているのであろうか。或は云う。「上一人より下万民は理想ではあるが、謗法・闍提の輩はいかに折伏すれども相当数残るは当然と……」これ等はこれ凡夫の思慮である。広宣流布はすでに仏意であり、仏力の所作である。されば撰時抄には、

 

 

「前代未聞の大闘静一閻浮提に起るべし、其の時・日月所照の四天下の一切衆生・或は国ををしみ・或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば、彼のにくみつる一の小僧を信じて、無量の大僧等八万の大王等一切の万民皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と。更に下文に云く、

 

 

「いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え、掌を合せて、たすけ給え日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや」と。また妙密上人御消息には、

 

 

「上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事もやあらんずらん。乃至、日本国の人人は法華経は尊とけれども日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えま闍とことはり給ふとも、今一度も二度も大蒙古国より押し寄せて、壱岐、対馬の様に男をば打ち死し女をば押し取り京・鎌倉に打ち入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取り、牛馬の前にけたてつよく責めん時は争か南無妙法蓮華経と唱へざるべき」と。

 

 

かかる御金言の如くんば、一国一同の帰依は決して順調に来るのではない。謗法の罪禍の積る所ついに国破れんとする時、国を惜しみ我が身を惜しむ余り、いかなる我慢偏執の者も「頭を地につけ掌を合せ」て「助け給え日蓮の御房」「南無日蓮大聖人」と心底から唱え伏す時が来るとの仰せである。我慢の謗者すらかくの如し、況や正信の者に於ておや、かくて一国一同に大聖人にいのちかけて帰依し奉る時が広宣流布である。すでに凡慮の及ぶ所に非ず、故に「ただをかせ給へ、梵天・帝釈の御計として日本国一時に信ずる事あるべし」(上野抄)との仰せを拝するのである。

 

 

かくの如き日本一同の広宣流布の来る事を大聖人は断定せられ、先師はこれを事の広宣流布と仰せられ、その時を事の戒壇建立の時と伝え給う。

 

 

されば、三大秘法抄・一期弘法抄の両抄ともに「時を待つべきのみ」との同一の御金言を拝するのである。これ広宣流布は大地を的とする、との聖意と共に、時の来らざる以前には断じて立つべからず、事の戒壇とは称すべからずとの厳誡ではないか。ここを以て二祖上人また「広宣流布を待つべきなり」(日興跡条条事)と仰せ給い、歴代上人の仰せまた符節を合わせて、事壇建立の時を事の広宣流布の一点に定め給うておられる。

 

 

されば日有上人は当宗の御堂に寄せてこの趣を論じ給い(物語抄)、日因上人またこれを承け釈して云く

 

 

「本門の御本尊堂は広宣流布の時之を建立す。故に・当山但祖師堂ばかりなり。乃至、若し国主此の法を持ち広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事御遺状の面に分明なり。乃至、故に知りぬ。本門寺建立並びに御本尊堂造営、正しく広宣流布の時に在るなり」と。また日量上人戒壇の大御本尊の謂れを説き給う時云く

 

 

「現今富士大石寺宝庫に在り、壹現証分明なるに非ずや、右御遺語に任せ、事の広宣流布の時を待ち奉るなり、それ迄は富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と。日霑上人また云く

 

 

「滅後一切衆生の為、事の広宣流布の時、大戒壇堂に掛け奉るべき設けとして顕わし玉ひて云々」(富要集問答二)と。日布上人の云く、

 

 

「是を以て本門戒壇の大本尊と称し宝庫に安奉し、師檀の信心を堅固ならしめ、事の広布を待たんに何の不可か之有るべき」(富要集問答二)と。日応上人の云く、

 

 

「是れぞ全く吾山に蔵する処の戒壇の大御本尊なり。此れ事の広宣流布の日戒壇堂に安置し奉るべしとの詔勅なり」(辨惑観心抄)又云く、

 

 

「事の広宣流布の時、富士山に本門戒壇を建立すべし。乃至、丑寅の勤行怠慢なく、専ら事の広宣流布の時を待ち奉るべしとなり」(本門戒壇大本尊縁由)と。

 

 

かくの如く先師は一糸をも乱し給わず。異口同音の仰せである。かかる白日の掟を誰か背く事が出来ようか。依って若し、時至らざるに事の戒壇と称し立てんとせば、よろしく広宣流布そのものの定義を変え、糊塗せざるを得ない。ここに「舎衛の三億」なる前代未聞の珍語が出来するのである。

 

 

「釈迦仏法の広宣流布の方程式の一面として舎衛の三億のたとえがあります」(三八・九月会長講演集)

 

 

「いま、われわれの化儀の広宣流布、王仏冥合の実践をば、その方程式にあてはめてみるならば、学会員が日本の総人口の三分の一となり、さらに信仰はしないが公明党の支持である人たちがつぎの三分の一となり、あとの三分の一は反対であったとしても事実上の広宣流布なのであります。王仏冥合の実現はこの舎衛の三億を築けばよいのであります。」(四十、九月会長講演)と。

 

 

日本の総世帯数は二千数百万とも聞く。この原理よりすれば、すでに広宣流布は達成とも云うべきではないか。さればしばしば聞く「今やすでに広宣流布」と。ならば事壇も立つべし。よって発誓願文に云く

 

 

「すでに国内においては六百数十万世帯を達成して、正に舎衛の三億の実現を眼前にす。更に王仏冥合の進展は衆参合わせて国会議員四十有五名に達し、有徳王・覚徳比丘のその昔の法戦を本格的に展開せんとす。………かくして内外の機熟して本門の大戒壇その建立発願の大盛典を挙行するに至りぬ」と。

 

 

しかもこの「舎衛の三億」は「仏法が信教の自由を認めている厳然たる証拠」と云い、「アソカ王は国内に他宗を許してなお繁栄す」とも云う。だが大聖人は御書に「終に権経権門の輩を一人もなくせめをとして」(如説修行抄)と仰せ給い、或いは「仙予国王・有徳国王は五百無量の法華経のかたきを打ちて今は釈迦仏となり給う」(四条抄)とせられ、更には「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」(立正安国論)と誡め、その上「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」(治病抄)として邪宗の存在を許し給わず。この矛盾いかに会通すべきか。

 

 

そもそも広宣流布の姿として「舎衛の三億」などの語は御書四百余篇のいずれに出ているのか。明文あらば挙ぐべきである。三・五経歴の輩を脱せしむるだけの釈迦仏法に、閻浮提人のみならず天界までも利益する下種仏法の広大なる広宣流布の前例があるだろうか。されば前代未聞の語は本門戒壇に冠せられるのである。「舎衛の三億」などは単に見仏聞法の難きを示す例に過ぎない。されば大智度論巻九に云く「舎衛城の中に九億の家あり、乃至、三億の家は聞かずと、仏・舎衛に在すこと二十五年、而も此の衆生は聞かず見ず、何に況や遠きものをや」と。龍樹の意あきらかである。故に寛尊は三重秘伝抄に此の意を以て引例し給うのである。

 

 

かかる御書に跡形もなき己義を以て広宣流布の義を糊塗し、あたかも時が来たかの如く云うのは、まさしく未明をさして真昼と云い、冬をさして春と云うに等しい。

 

 

ここに於て先師の周到たるや、広宣流布を更に厳密に定義し給う。されば日寛上人は

 

 

「故に知ぬ。一切衆生皆本因妙の教主日蓮大聖人を信じて本門深秘の大法本因下種の南無妙法蓮華経と唱え奉るを広宣流布と云う」(撰時抄文段)と、また日応上人云く

 

 

「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり。此を事の広宣流布と云う」(戒壇大本尊縁由)

 

 

然るに未だかかる時は来らず。されば事の戒壇また立つべからず。これ正本堂の事壇ならざる第一の理由である。

 

 

 

四、事の戒壇は国立戒壇と拝し奉る

 

 

 

三大秘法抄を拝するに、事の広宣流布の相貌を更に具さに定めさせ給いて云く、

 

 

「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と。

 

 

かかる時に「勅宣並に御教書を申し下して」建立せよと仰せ遊ばす。ここに「勅宣並に御教書」について様々な解釈がなされている。ことに正本堂につき当文を解釈した次の文は象徴的である。

 

「この正本堂の意義について御書は私達に甚深の法門を教示している。三大秘法抄にいわく『戒壇とは王法…………戒壇なり』乃至、ここに『勅宣・御教書』とは天皇・将軍(幕府)の命令書のことだが、これは古来、戒壇が勅許であった例にならわれて、当時の民衆の機根にあわせて大聖人がかく仰せになったものである。建立の本意が全民衆の幸福にあることは、末法万年変わらぬ宗祖の御遺命である。そして民主政体の今日、それは民衆立であるのが、大聖人のご真意であり、権力の魔性に身に寸鉄帯びず斗われた御本仏の心にかなったものといえよう。御書を逐条的・訓詰注釈的に読み、御教書を国会の議決とみるのは、まだ皮相的であり、国会の議決などの形式は不要なのである。民衆そのものに直結した建設であり、全民衆を代表した八百万信徒の浄財、発誓願文の宣言に始まる一連の荘厳な儀式の遂行こそ、まさにこの御文をそのまま読んだことになるのである」(聖教新聞論説 四五・一・一六)と。

 

 

長文を厭わず引用したのは正本堂の性格がここに端的に表現されているからである。誰人の筆かは知らぬが、見事なる逸脱、私情曲会と驚嘆せざるを得ぬ。妙楽の云く「並びに進退は人に在り、何ぞ聖旨に関らん」と、御本仏究竟の御大事を明し給う聖文もかかる徒輩にかかっては死文同然である。何が逐条的、何が訓詰注釈的であるのか。なれば歴代先師はそれに当るか。また「御教書を国会の議決とみるのはまだ皮相的」とせば、皮相的解釈の代表こそ学会先代会長には当らぬのか。「国会の議決などの形式は不要」とならば、生活を抛って選挙に斗った信徒の労苦は誰の為に捧げられた事になる。信徒の信心を裏切る事これより甚しきはない。もちろん政界進出の可否は重大問題を含んでいる。いまそれを論じているのではない。ただ、いかにも見えすいた御都合主義が、無慚に感ぜられる。少なくとも先代会長の遺言にも似た政界進出への理由が、世の抵抗ありと見るや蔑りの言葉と共に葬り去られる。その見えすいた無節操、これは政治の権謀術数の世界であり、信心の世界ではない。況や「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」の当流の伝統とは遠くかけ離れている。政治目的の為には、そして荘厳己義の為には、平然と御書もふみにじり法義も歪曲する。かかる風潮の中に讃嘆せられる正本堂は、果して如何なる目的で立てられるのか。法義以前の問題がはしなくもここに露呈している。

 

 

ここに法義上の歪曲は「民衆立」にある。「勅宣並に御教書」の御仰せこそ、まさしく事の戒壇が国立戒壇なるを端的に示し給うものではないか。

 

 

民衆・民衆と云って時流におもねて国家を軽視するが、国家を離れて存在する民衆がどこにある。およそ人間あるかぎり共同生活は不可欠であり、共同生活のある所かならず国家は形成される。いや国家は人間にとって必要かくべからざる社会的な存在形態なのである。若し国家がなければ個人・団体相互の利害・相剋をどうやって調和し秩序を保持し得ようか。ここに国家とは個人生活を全うせしむる為の有機的集団であり、個人を細胞とせる統一生命体ともいえるのではないか。

 

 

されば個人を安穏ならしむる為には国家安泰たらざるべからず、ここを以って、

 

 

「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を持つ。而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、白界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱るべき者か」(立正安国論) との仰せを拝し、また、

 

 

「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり」(蒙古使御書) の御意を拝するのである。

 

 

而して「謗人・謗家・謗国」の仰せの如く、個人が邪を捨てて正法に帰すれば個人が、家を単位として捨邪帰正すれば家の成仏である。そして国家が成仏する為には、国家そのものを単位とした国家生活が謗法を捨てて正法に準ぜねばならぬ。これが王法仏法に冥ずる姿であり、かかる時に、個人や一団体の意志ではなく国家意志が正法護持を表明せぬ筈があろうか。その国家意志が即ち「勅宣・御教書」ではないか。国家意志でなくてどうして国家の祈りとなろう。また全民衆の総意という事なら、とりもなおさず国家意志に表われない筈もない。民衆の総意と云いながら、国家と関与しない民衆立の戒壇などは、為にする歪曲・詭辨と云わねばならない。

 

 

しからば現今の社会状況に於て、国家意志はどこで決定・表明されるのか、当然国会の議決であり、行政府の決定である。これ、時の政権の運用の所在に約した「御教書」の意に正しく相当する。

 

 

しからば「勅宣」はいかにと云えば、敗戦後の変態社会に於てなお日本に天皇陛下おわします事は誠に有り難い事である。現行憲法に於ても国事にはたとえ形式的とは云え天皇陛下の承認を必要としている。されば現状に於てすら「勅宣」はそのまま生きているではないか。三大秘法抄の「勅宣」の仰せこそ、日本国の真の国主が皇室であるとの御聖意表われ給うものと深く拝せざるを得ない。これだけは時代相応の解釈は出来ない。況や当時は皇室は衰亡の極である。

 

 

「経王・国に失しかば世王又たへて、或は大王・臣下にをかされ、乃至、終に主なき国になりぬ」(断簡・昭和定本)

 

 

と。かかる時に敢えて未来を鑑みて「勅宣」と仰せ給うた御意をよくよく拝すべきである。

 

 

而して三大秘法抄には、戒壇建立に当ってこの「勅宣・御教書」を申し下して立てよと定め給うのである。かかる戒壇が一団体や漠然たる民衆などによって立てられる性質のものでなく、一国を単位とした国家的な戒壇であることは論をまたない。

 

 

この事は三大秘法抄の前文を拝せば更に明らかとなる。即ちまず「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」と遊ばし給う。聖文濫りに会通を加え奉るは甚だ恐れ多いが、いま謹んで案ずるに、まず「王法」とは何か。折伏教典に云く「王法とは政治であり、広い意味で個人生活・一般の諸活動をも含むのである」と。この中に「政治」は然るべしとして、「個人生活・一般諸活動」をも王法に含めては曖昧かえって本意を失ってしまう。

 

 

王法とは一国の統治主権そのものである。国家ある以上、何れの国家も領土と人民と主権の三つを欠く事はあり得ない。この主権こそ王法ではないか。この統治主権を人に約すれば即ち国主である。主権在民という言葉はあるが、よくよく本質を見れば決して国民が統治を為しているのではない。あくまで国家そのものに統治主権が具わっているのである。ただこの統治主権に対して民意を尊重・反映せしめんとの指向を主権在民と云うだけである。先にも云うように、若し凡ゆる個人・団体に超越する国家の統治主権がなければ、個人・団体間の対立・分化・相剋はどうしようもなくなるからである。而して国家主権は統治活動を為すに当っては絶大なる権力を持つ。必要とあらば国内に於ける一切の個人・団体に対して物理的強制力を以てしても服従せしめる事が出来る。この誰人も抗し得ない国家権力をまた広義に解釈すれば王法というのである。故にいう所の「個人生活・一般諸活動」などは如何に広義に解釈しても王法には含まれない。御書の随所に用い給う御意も然りと拝する。

 

 

「それ仏法と申すは勝負を先とし、王法と申すは賞罰を重んず。故に仏をば世雄と号し、王をば自在と名づけたり」(四条抄)

 

 

「当世の学者等は畜生の如し、智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる」(佐渡御書)

 

 

「法道は面にかなやきをあてられき、此等は皆仏法を重んじ、王法を恐れざりし故ぞかし」(妙法比丘尼抄)

 

 

以って「王法」の意を拝すべし。但しこれらは一往の通意である。即ち何れの時代にも、何れの国家にも通ずる王法の意である。このほかに御書には別して日本の皇室そのものを指して真の「王法」と為し給うを拝する。

 

 

「日本国に代始りて己に謀反の者二十六人、第一は大山の王子・第二は大石の山丸・乃至第二十五人は頼朝・第二十六人は義時なり。二十四人は朝に責められ奉り獄門に首を懸けられ山野に骸を曝す。二人は王位を傾け奉り国中を手に挙る。王法既に尽きぬ」(秋元抄)と。この別意の「王法」については後文に述べる。

 

 

しからば通じて「王法仏法に冥じ、仏法王法に合す」とはいかなる姿か。立正安国論の御仰せこそその実践であられる。謗人・謗家の失は免れても国家生活に謗法あらば安国はあり得ない。よって個人が誘法を捨てるが如く、国家生活に於ても謗法を禁断し、正法を重んずるのが王法仏法に冥ずる姿ではないか。これを迫られたのが立正安国論と拝する。されば、

 

 

「抑も治術の旨内外の間其文幾多ぞや、具に挙ぐ可きこと難し。但し仏道に入って数ば愚案を廻すに、謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」とせられ、

 

 

続いて王法の威力を用いて諸法を苦治するを促し給い、仙予国王・有徳王の故事を引き、結するに、

 

 

「早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし」と遊ばす。かくの如く王法が仏法に冥じて始めて一国は安泰となる。しかるに王仏冥合を旗じるしとしながら公明党が一言も正法治国・邪法乱国を国家の為に叫ばないのはどうした訳か。これ世論に諂うものとしか見えない。

 

 

次に「王臣一同に云々」の御文に、上一人より下万民に至るまでの三大秘法受持・事の広宣流布の姿を拝する。「王臣」の二字に万民を摂し給うか。舎衛の三億などではない。

 

 

次に「有徳王・覚徳比丘云々」の御文に、戒壇建立の時は生易しい信心ではなく、正法護持の為には一身はもとより、国家の命運すら賭して悔いぬの、不惜身命の大信心が一国に漲らねばならぬ、との聖意を拝する。

 

 

かかる状態に於て申し下される「勅宣・御教書」は正法護持の正式なる国家意志の発動であり、かくて建立される戒壇は当然国家の活動力を以て為される所謂国立戒壇であるのは自明の理である。されば日亨土人は、

 

 

「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(日興上人詳伝)とし。さらに日淳上人は、

 

 

「蓮祖は国立戒壇をもって本願とせられ、此れを事の戒壇と称せられた。」(淳師全集)日達上人また、

 

 

「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇でありますご(大日蓮一八三号)。さらに日淳上人かって北尾日大を破して云く、

 

 

「戒壇建立のことたるや、王者の勅宣・御教書によるのである。それ以前に民衆の力によって建立せよとは仰せられておらぬ」(淳師全集)と。このお言葉・時に当って大いに趣あり。

 

 

しかるに「民衆立」の声いま宗門に満ち満ちている。思うに、国権による強制との印象を避けん為に、全民衆力総意によると云う意すら、先述の如くなお詭辨である。況や、全国民の一割にも満たぬ一宗門の僧俗で立ててどうして「民衆立」とも云えるのか。奪って論ぜば単なる宗立ではないか。これが大聖人の御本意の「事の戒壇」の姿なのであろうか。されば池田会長かって自ら云く、

 

 

「全国民の総意において建立されてこそ、はじめて本門戒壇として意義がある。もしわずかの有志だけで建てて、わずかの有志だけか功徳をうけようというのでは大聖人の御本意に反する。また一部の人だけが参加して建てたが、参加しなかった多数の人たちが後から後悔してもおよばないであろう。ゆえに『総意において』というのである」(仏教哲学大辞典第一巻)

 

と。

しかるにその後数年を経ずして、「わずかの有志」「一部の人だけの参加」で正本堂が建てられようとしている。ここに自ら定めて云く「大聖人の御本意に反する」と。されば更に加える語も無し。

 

 

以上、正本堂を事の戒壇と信ぜざる理由の第二である。

 

 

 

五、事の戒壇は本化聖天子の発願と拝し奉る

 

 

 

王法に通・別の義がある。通じて云えば何れの国・何れの時代でも、その統治主権は王法であり、人に約せば国主と名けられる。御書の各所に鎌倉覇府を指してなお「国主」と仰せられるは此の意である。

 

 

だが日本は八万の国に勝れた御本仏大聖人の本国土・三大秘法広宣流布根本の妙国である。国土の相に於てすでに他国に無き富士山涌出して戒壇建立を待っている。王法に於てもまた他国に無き仏法守護の本有の王法の無い筈はない。これが皇室である。

 

 

万年の外未来までも絶える事の無い仏法を守護するに、栄枯盛衰つねなき、時の政権や覇者では相応しない。

 

 

日本の皇室の世界に不思議とも云える永続はこの一大事因縁によるのではないか。盛衰定めなき幾多の覇者が堀と城壁に依ってその政権を汲汲と維持したのに比べ、皇室は無防備に等しい塀ひとつで、数千年の命脈を持っている。そして馬子の高挙りには中臣の鎌子出で、道鏡の簒奪には清麿抗し、殺伐の戦国に在ってなお、信長の革新も、家康の老檜も、朝位を犯してはいない。いや異国のマッ力-サーにしてなお存続せしめざるを得なかった事実は只不思議を感ぜざるを得ない。この福運の因って来る所は何処か。これ正しく皇室に仏法上の大使命の本来存する故ではないか。されば御義口伝には、

 

 

「然る間、先祖は法華経の行者なり。甚深甚深云々」と。また産湯相承には、

 

 

「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神、乃至、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり」と。更に神国王御書には、

 

 

「其の上、八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり、人王第四十八代の高野天皇の玉体に入り給いて云く、我が国家開闢より以来臣を以て君と為すこと未だ有らざる事なり・天之日嗣必ず皇緒を立つ等云云」と。仏法有縁の本国土なればこそ王法も特殊なのである。この使命の故に天照太神はあらあらその基礎をかためて王法を守り、八幡大菩薩は百王守護の誓いを為すのである。されば道鏡の簒奪を押えんと、清磨に託宣して云く、「当に仏力の加護を仰で為に皇緒を紹隆すべし」(八幡抄)と。

 

 

しかるに若し魔縁に蕩かされて、王法その責務を果さず、国主不覚にして邪正を辨えざればどうなろう。為に具わる福徳は一時に滅失し、王位を失うは当然である。かの後鳥羽院の事は眼前の事実である。大聖人悲歎し給いて云く「天照太神・正八幡の百王百代の御誓やぶれて王法すでに尽きぬ」(頼基陳状)と。

 

 

かかる「王法すでに尽きぬ」の時に当って御本仏出現し給うたのは何ゆえか。凡智の拝すべき所ではないが、寛尊の趣に準ずれば、正しく鎌倉覇府の持つ毒性を、御自らの三徳開顕に用い給うたのではないか。三類の強敵なくば末法下種の三徳を顕わすに由なし。覇主の役割はこれである。

 

 

されば、鎌倉期には覇府を一往の国主として諌暁し給うも、三徳開顕の後には「未だ天聴を驚かさず歟。事三ヶ度に及ぶ。今は諌暁を止む可し」(未驚天聴御書)とて、鎌倉への諌暁を止め給い、真の国主にて在す皇室に聖意を向け給うておられる。

 

 

この御振舞いこそ将来・事の広宣流布への重大な示唆を含ませ給うものと拝する。たとえ当時は無力なるとも、本国土本有の王法・国主なれば、結縁を新たにしその使命を覚醒させ、以て未来・王仏冥合の本願をここに表わし給うたものと拝し奉るの外はない。

 

 

されば、弘安二年に大御本尊を顕わし給い、五ヶ月後の翌年三月には紫宸殿の御本尊が顕わされ、翌弘安四年には御自ら申状を認め日興上人に付し、目師を代官として天奏せしめ、更に弘安五年には再度目師に命じ天意を奉伺、園城寺の下文を得給い、そして同弘安五年四月(富士年表による)には三大秘法抄を以て「勅宣・御教書」と仰せられて濁悪の未来に於ける王仏冥合を示し給い、同九月御相承には「国主此の法を立てらるれば」とは仰せ拾うたのである。

 

 

かかる御事蹟を拝し奉れば、王仏冥合の輪郭おぼろげとは云え窺い奉る気がする。即ち御在世は逆縁広布の故に覇王あって三徳開顕の用となるも、順縁広布の時には、仏法有縁の本化国主必ず皇室に誕生して、真の王仏冥合となるものと拝する。かかる重大事は日興上人一人への御口伝に違いない。されば二祖上人の御教示を拝するに、「日興跡条条事」に云く、

 

 

「一、日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊・弘安五年(五月廿九日) 御下文、日目に之を授与す」(富要集第八巻)。一期の御大事たる弘安二年の大御本尊と共に御下文を挙げ給う御深意は窺い奉るも恐れ多い。さらに「三時弘教次第」にも仏法と皇室の冥契を拝する。即ち、迹化付嘱の師檀として伝教大師と桓武天皇を例し、次に本化の師檀を挙げ給うに、日蓮大聖人に対する「御当代」の仰せを見る。しかも次文に云く、

 

 

「天照太神の勅に日わく、葦原の千五百秋の瑞穂の国は是れ子孫王たるべきの地なり・宜しく就いて治むべし。孝経に云わく、先王正直の徳を行なう則んば四方の衆皆法則に順従するなり」と。神勅と孝経を挙げ給う御意つつしんで拝すべし。さらに「富士一跡門徒存知事」には大聖人の究極の御理想を述べ給いて云く、

 

 

「仏法と王法とは本源体一なり。居処随って相離るべからざるか。乃至、然れば駿河の国富士山は広博の地なり。乃至、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。

 

 

明文白義天日の如し、全く王仏冥合の事相、大聖人の御本願を此処に拝し奉る。仏法・王法本源体一の金文をただ理に約した一往の通義に拝し止ってはなるまい、これぞ本国土妙・王法の淵源を明し給う御文ではないか。されば事の広宣流布の時来れば、天子自ら本門戒壇を丑寅の方角に望み、王城を築き一処に居し、身を賭して守護し給うのである。事相の王仏冥合、三大秘法抄の明文、ここに於て豁然として輝く思いである。さらに「門徒存知事」には

 

 

「是れ偏えに広宣流布の時、本化国主御尋ねあらん期まで深く敬重し奉るべし」との一文を拝する。「国主此の法を立てらるれば」の御聖文、また三大秘法抄・一期弘法抄に共通の「時を待つべきのみ」の御制誠、いまや聖意炳焉として拝し奉る。しからば本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに「無辺行・日興上人の垂逍・本化聖天子」と。そしてその時、「御座主は日目上人」と。

 

 

曾って救世観音の垂逍・南岳の後身・上宮太子は前生所持の法華経を尋ねて隋に小野妹子を遣わす、先例すでに我国に有り。事の広布の時には本化聖天子いで給い、前生御所持即ち、「身に充て給わる所」の御大法を富士山麓に尋ね、「有徳王・覚徳比丘の其の乃往」を濁悪の未来に移し給い、「勅宣」を申し下し、自ら大願主と成って事の戒壇を建立し給うものと確信し奉る。勿論その大前提は熱原の如き不惜身命の信心が全民衆に漲るに在るは論をまたない。かくて「本化国主御尋ねあらん期」を待ち、日興上人御自らあの不開門を建て給うとも伝え聞く。これ当門七百年の伝統である。

 

 

然るに、いかなる事か、いま卒爾に不可解の言に接す。

 

 

「その時(広宣流布)には不開門が開く。一義には天皇という意昧もありますが、再往は時の最高の権力者であるとされています。すなわち、公明党がどんなに発展しようが、創価学会がどんなに発展しようが、時の法華講の総講頭であり、創価学会の会長がその先頭になることだけは仏法の方程式として云っておきます。後々のためにいっておかないと狂いを生ずるからいうのです。私は謙虚な人間です。礼儀正しい人間です。………そのためかえってわからなくなってしまうことを心配するのです。………私が御法主上人猊下様、大聖人様に、不開門を開いて、このように広宣流布いたしましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊様にご報告することが究極の広宣流布の暁の、その意義なのであります。」(会長講演)と。

 

 

しかも聴聞の一幹部の云く「池田先生の内証にあった大事を明かされ、如是我聞の栄誉に連なったことは大福運であり云云」(大白蓮華一七一号)と。大御本尊のお傍を離れず七百年勅使を待ち給う猊下が、不開門をお通りになるとは第一の不可解なれど、更に本化聖天子を一往の義と貶し、自ら不開門を開いて猊下を先導お通しするほどの御方の内証とはいかなるものか。されば先導のていたらくを常の写真に拝見するに、焦点は必ず自らに合わされ、猊下は常に霞ませ給う。そして恰も猊下を後に従えるが如く見えるはこれ一人の僻目にあらず。また法要以外の席では猊下と肩を並べて並座するのも亦この「内証」より出るか。かって叡山に対する代代の皇帝の態度にしてなお「孝子の父母に仕うるに超え、黎民の王威を恐るるに勝れり」(安国論御勘由来)と。況や本門の座主に対するをや。況や総講頭は国主には非ず。猊下より任命されし宗門信徒の代表ではないか。御書に云く「窮人の妄りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し、王莽・趙高の輩外に求むべからず」と。

 

 

更に近年・聖教新聞の御虫払法要記事中に「紫宸殿御本尊」奉掲の事実を強いて隠蔽せんとしているのはどうしたわけか。また猊下より給わる「御秘符」ならざる学会発行の「御符」なるもの、亦七百年来当宗には見ざる所のものである。いかように理解すべきか。

 

 

更に御当局に尋ぬべきは、近年発行の経本には初座観念文に「天照太神・正八幡大菩薩」の重大な文が削り落されているが、御意那辺にあられるか。韓国向けなどの遁辞を構えずこれを教示し給うべし。

 

 

また或る人云く。いまの天子若し仏法を持てばとて一国は動かず……と。当然である。但し現今の衰微せる王法を見て蔑を為してはならない。孝明天皇の御代に誰が維新の盛運を予知し得たか、十六歳の新帝の践祚し給うや気運たちまちに満ちたのである。世間有漏の福徳にしてなおかくの如し。況や、本化聖天子御出現の時に於ておや。而して過去学会の死身弘法はかかる冥々の気運の先序たるかとも敬せし所。但し思う。信徒はあくまで信徒たり、臣下はあくまで臣下たるべし。四条抄「云云」と。

 

 

ここに於て、事の戒壇の大願主は、紫宸殿の御本尊を受持し給う本化聖天子なりと小輩等堅く信じ奉る所である。因って正本堂を事壇とせざる、これが理由の第三である。

 

 

 

 

六、事の戒壇は天母山に立つべしと聞き奉る

 

 

 

本門戒壇建立の霊地が富士山である事は門徒の末々まで知らぬ者はない。だが富士山と云ってもその裾野は広大である。富士山の中には何処に建てられるのか。仏法の住処たるべく日本国に涌出した富士山なれば、広大の裾野にまた、別して戒壇堂建立の為の地形備わらざるべからずと思惟するに不思議はない。

 

 

しかるに富士山と定め遊ばすはすでに御本仏の鳳詔、されば広大の裾野の中には何処と定めるも後人の為すべからざる所、ここに二祖日興上人の御遺命厳として、天母山をついさして定め給うと聞き奉る。

 

 

されば天母山を具さに見るに、まさしく富士の南面、遠く駿河湾を望み、剣ヶ峰を中央にした山頂を背に負い、その一段高き丘こそまさしく一閻浮提第一の大御本尊の金剛宝座たるにふさわしく、言語を絶して只“妙”と嘆ずるの外は無し。三国並びに一閻浮提八万の王臣拝跪して蹋み給うべき霊妙の地形をここに窺う思いである。

 

 

されば御開山上人の御事跡を拝するに、上野を目師に内付せられて後、自ら談所を設けられるに当って東の重須を選び、薪尽入滅の日まで居し給う。しかも重須の地は大石寺と天母山を結ぶ線上のほぼ半と聞きまいらす。大聖人の御遺命を奉じて勅建大本門寺を熱禱し給う二祖上人の・眼前に天母山を臨み給う御尊姿まさに髣髴たり。

 

 

されば歴代先師の御指南また天母山を確然として指さし給う。即ち日寛上人は、

 

 

「事の戒壇とは即ち富士山天生原に建立する戒壇堂なり。御相承を引て云く、日蓮一期の弘法・乃至・富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべし、時を待つべきのみ、事の戒法と云は是也云々、重重の道理あり」(報恩抄文段)と。また寛尊・本尊抄の講義に云く、

 

 

「順縁広布の時は富士のふもと天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を立て岩本に二王門を立る等なり」(忠師聞記)と。さらに日量上人は、

 

 

「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし、乃至、夫れ迄は富士山大石寺即本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)と。

 

 

まさしく歴代上人は二祖上人のままに天母山を指さし伝え給う。ことに「夫れ迄は富士山大石寺即本門戒壇の根源」とは、事の広宣流布までは大御本尊は大石寺の宝庫におわします。との御意と拝する。

 

 

しかるに、いま事の戒壇とて、大石寺御堂裏地が堀り返えされている。この地は曽って一般信徒の広大なる墓地である。「霊山浄土に似たらん最勝の地に」と御遺命遊ばした戒壇が、何故に不浄の墓所を堀り返してまで無理に立てられねばならぬのか。凡夫の臭骨に機れた土地が何故恐れ多くも大御本尊の御座所に選ばれねばならぬのか。道理を無視した強引の通る筈はない。

 

 

だがこれよりも百千万億倍許されざる暴挙がある。即ち御歴代上人の御正墓御遷座である。大聖人のもぬけられたる大導師として、先師上人その一生を法に捧げ給い、いまその化を止めて静かに休み給う処を、何の必要あって発き奉るのか。しかも御歴代中多数の上人は御土葬とも洩れ承る。嗚呼先師すでに土に成り給う。その霊土を誰人が荒し奉る権利を有する。況や謂れ無き工事に於ておや。殊に近代御高徳の某上人の御遺体に於ける恐れ多さ、伝え聞くに背筋の凍るを憶え、暗涙思わず頬を伝うのみ。先師上人に対し奉る辱め、これに勝るは断じてあるべからずと繰り返えし憤りを新たにするものである。

 

 

ここに歴代先師の定め伝うるが如く、事の戒壇は天母山に立たざるべからずと堅く信じ奉るものである。これ正本堂を事壇とせざる第四の理由と為す。

 

 

以上、事の戒壇につき先師の御指南のままに四義を挙げ、正本堂のそれに当らざるを述べて来たが、最後に、御内拝に際しての歴代御法主の金口の御説法を拝し奉る。この御説法は七百年来改竄増減なく伝えられると承る所である。されば五十六世日応上人これを書に顕わし給う時、その序に云く「歴代の法主の伝承に拠り申し述ぶ云々」と、此の中に事の戒壇に就いての御指南を確然と拝し奉る。

 

 

「然らば則ち三大秘法其の名は三つありと雖も、其の本体は只だ一箇の此の御本尊に留るなり。又後五百歳中広宣流布の金言虚しからずんば、上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり。此を事の広宣流布と云ふ。其の時、天皇陛下より勅宣を賜り、富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって日本乃至一閻浮提の一切衆生即身成仏の戒体を受得する処の尊極無上の大本尊なり。依って三大秘法抄に云く、『戒壇とは王法冥仏法、乃至、蹋み玉ふべき戒壇なり』等との宣へり。此の聖判に聞ふる如く、時機到来せば天皇陛下は勿論、諸天等も来下して此の御本尊の宝前に於て三帰戒を受け玉ふ処の尊無過上の大本尊なり。然るに宿縁深厚にして、時未だ到らざるに是を信行し奉ると云ふ事は、誠に冥加至極有り難き事よと随喜渇仰信心に拝し奉るべき事なり。云々」と。

 

 

只仰いで信じ奉るのみである。

 

 

 

 

七、御当職上人も事の戒壇と仰せ給わず

 

 

 

正本堂が事の戒壇である事は、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会に於ける日達上人の御説法に依って決定された、と学会ではしきりに強調している。されば会長の発誓願文に於ても二カ所、御供養趣意書にも、その他の講演に於ても、至る所で「猊下の仰せに基く」旨の発言が見られる。

 

 

しかるに不思議なるかな、いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに「事の戒壇」なる文字はもとより、その義・意すら見られない。いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる如くであられる。ここに猊下甚深の御説法を濫りに会通し奉るは恐れを感ずるが、いますべてを決する鍵は此処に在すことであれば、止むなく重要部分を六段に分け、以て註し奉る。

 

 

第一段

 

「さて正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。過日来いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります。」

 

 

私に云く、  御説法の始め、まずその意義と目的を宣示し給う。

 

 

 

第二段

 

 

「大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。」

 

 

私に云く、   大聖人の御遺命は本門寺の戒壇建立に在ることを第一に示し給う。

 

 

 

第三段

 

 

「これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます。」

 

 

私に云く、   未来の大本門寺に於ける戒壇の相貌をこの段に明し給う。所謂、本門寺の戒壇は小乗・迹門のそれと異り、特別な戒壇堂を設けるにあらず、大御本尊まします本堂即戒壇なりと。而してこれを証するに百六箇抄の二文を挙げ給う。

 

 

但し、ここに大注意を要す一事あり。猊下の御意を歪曲する者はこの百六箇抄に於ける「本堂」を即いまの正本堂と為す。これ誤りの中の誤りなり、法義の歪曲これより生ず。猊下のここに説き給うはあくまで来来広布の暁に於ける大本門寺の本堂なること文に在って分明なり。猊下自ら「したがって大本門寺建立の戎も」とせられ、またそれを証する百六箇抄の初めの文には明らかに「富士山本門寺本堂」とある。更に「日興嫡嫡相承云々」の聖文また事の広布の暁の大大本門寺(ママ)の本堂を指し給うは言をまたず。されば日応上人は此の文を引き「是れぞ全く吾山に蔵する戒壇の大本尊なり。此れ事の広宣流布の日、戒壇堂に安置し奉るべしとの詔勅なり。故に開山より目師への譲状に“日興が宛身所給弘安二年の大御本尊”との玉ひしは是れなり、乃至宗祖は“日興嫡嫡相承之曼荼羅を一天広布の日には本堂の正本尊となすべし”との玉ひ、又興尊は“日興が宛身所給弘安二年の大御本尊”との玉ふて、両尊異口同音に之を宣言し玉ふ」(辨惑観心抄)と。明文白義天日の如し。

 

 

 

第四段

 

 

「したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。また当時は大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。」

 

 

私に云く、    未来大本門寺の本堂に準じて、現在大石寺に於ても御安置は本堂がふさわしき旨をこの段に仰せ給う。但し、ここに仰せの現在の本堂とは即ち時を待ち秘蔵する蔵の意なり。応に知るべし。猊下の仰せは、時来るまでの、大御本尊まします蔵は即ち本堂、すなわち義の戒壇なりと云う事なり。故に本堂御安置の例を御在世に取り給う。更に云く、「御入滅後は御本尊のおわします所が本堂」と。御意明らかなり。

 

 

 

第五段

 

 

「ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます。」

 

 

私に云く、   正本堂即大本門寺本堂・即事の戒壇なり、と誤り解す者あるを慮りて、本堂と雖もなお未だ時を待つ蔵の意、即ち義の戒壇なるを重説し給う段なり。故に文中すでに「まだ謗法の人が多い」「広宜流布の暁をもって公開」「おしまいしてある意義」「御開扉の仕方はいままでと同じ」「蔵の中に安置申し上げる形」との懇ろの仰せを拝す。

 

 

 

第六段

 

 

「 正本堂の建立地につきましては「大御本尊は客殿の奥深く安置する」という御相伝があります。乃至、その客殿の前の不開門=勅使門=それから客殿、その奥が正本堂と、理想的な建設となるのでございます。」

 

 

私に云く、   此の段は建立の位置に約して正本堂は未だ時を待つ蔵なるを示し給う。釈するするに私の語を用いず。猊下御自らかって仰せ給うことあり。即ち、

 

 

「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊様を安置し奉って事の戒壇建立という事になるのでございます。それまでは戒壇の御本尊をおしまい申し固く護る。先師方が客殿の後の奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すという事を仰せられて居ります。我が本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後に奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁迄はしまっておくということになる。乃至、戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。誰がみても今の奉安殿は外から見ても立派である。然し戒壇の御本尊様のまわりを御覧なさい、石である。石で囲ってあるきりで蔵ではないか、そこに何を供えてあるか。乃至、樒の花を供えるのが本意であります。奉安殿の中に樒がありますか、ないじゃあないですか。乃至、その樒は客殿にあります。客殿に皆様が勤行において二回目に唱える奉安殿に向かって遥拝するあそこに樒がある。だからこれを以って推して行くと、戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にしまってある。蔵してあって拝むのは外から遥拝する。ただ特別に内拝の為にそば迄行って拝めるというのである。だから今度はその戒壇の御本尊のお出ましを願って始めてそこに本門寺の戒壇建立と云う事が出来上がるのでございます。お出ましは先程から申す所のいわゆる広宣流布の暁である」(大日連一六三号)と。

 

 

以って「客殿の億深く」の御意、また前段の「蔵の中に安置申し上げる形」等の御意争うに及ばず。

 

 

正本堂の意義を決する御当職上人の御説法かくの如し。ここに思い浮かべるは奉安殿御遷座式に於ける、時の御法主・日昇上人の御説法である。

 

 

「血脈付法の法主を継げる日昇之を受納して戒壇本尊奉安殿と名付け、此処に戒壇本尊を永久に安置し奉るなり。時を待つべきのみ事の戎法とは之なりの金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。時の法主も一心同体たるべきを確信する」云々と。

 

 

時に応じて御宝蔵・奉安殿・正本堂と名は改まり、規模・荘厳は更るとも、厳正の法義いささかもゆるがず、歴代御法主御説法・御当職上人の御説法その規を一にして尊し、ここに自らの為に法主上人の御本意を歪曲する事なかれ。御本意すでに明かである。況や近侍し奉る宗務院教学部長・阿部信雄尊師の証言あるに於ておや。すでに公式の脚発言なれば之を載す。昨十二月二十二日総監殿の代理として見え給う時、御尊師「寡聞の放か」とは断るも「未だ曽って猊下一言も正本堂を事の戒壇とは仰せられず」と、三度に亘って言明し給う。これ猊座を守る御道念より出る勇気の御発言と肝に銘にて忘れず。

 

 

以上、法主上人の御本意に準じて我等正本堂を事壇とせず。これ理由の第五とする。

 

 

 

 

八、学会自身すでに自語相違あり

 

 

 

学会で云うが如く、正本堂が事の戒壇であり、宗門究竟の誓願であり、将又・仏教三千余年史上空前の偉業、或は久遠元初以来の盛挙等に当るのならば、それを発願せし池田会長自身・発願の初めからその思いであるべきは当然である。

 

 

しかるに、この正本堂の建立寄進を公に表明した最初は、昭和三十九年五月三日の第二十七回本部総会である。この時の会長の意向はどうか。まず正本堂建設が恩師の遺言である旨を述べ、その遺言とは、「大客殿の建立が終ったら引き続きすぐに建てよ、世界の銘材を以て大御本尊を荘厳せよ、費用は三十億を以てせよ」(取意)と伝えている。これを見るに、国立戒壇の至難なる事、そして化儀の広布とは国立戒壇である旨を繰り返えし強調して来た先代会長が、正本堂を事の戒壇などと考えていなかった事は明白である。正本堂を立てよと命じたとしても、時に応じた所謂奉安殿をより一段と拡大・荘厳申し上げた建物と云う意味ではないのか。さなくば「大客殿建立に引き続き」或は「三十億の費用」などの会通がつかぬ。池田会長自身もかく考えていたに違いない。それは当日の講演にはっきりと表われている。

 

 

「正本堂の建立は事実上本山に於ける広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがってあとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります。したがって全体的な御供養といたしましては今度の正本堂の御供養だけで、いっさい将来はいたしません」と。

 

 

明らかに、正本堂と本門戒壇堂の区別を明確に自身で示している。即ち、正本堂は時を待つ本山の体制としては最後の故に皆で御供養しよう、将来の本門戒壇堂は国立なるが故に宗門信徒としての御供養はこれが最後である、との意ではないか。

 

 

それが、わずか九ヶ月後には正本堂即事の戒壇と急拠変更されている。誠に「仏教三千余年史上空前」「宗門究竟の誓願」が何と安易に変更成立するものか、実に驚嘆の外はない。而も変更の理由は猊下の御説法の故なりと云う。しかるにその御説法には一言も仰せられず。むしろ眼光紙背に徹して御本意を拝すれば、否定すらしておられるではないか。仏教三千余年史上空前の不思議とは此の事である。

 

 

次に発誓願文を見る。猊下の仰せにより、事の戒壇としての正本堂の地位が決定されたとして、その理由を自ら挙げるに。

 

 

「所以は如何、末法の戒壇は受持即持戒にして、大御本尊を安置し奉り唱題する処をもって即本門の戒壇となすが故なり。乃至、受持即持戒なる故に、大御本尊御安置の正本堂即本門の戒壇となるなり」と。これ義の戒壇なるを自ら云うものである。故は寛尊の云く「義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義・戒壇に当たる故なり」と。会長の云うが如く「大御本尊を安置し奉り唱題する処」を以て事の戒壇とするならば七百年来の御宝蔵・奉安殿も亦これに当るのではないか。自ら事の戒壇と標しながら、之を釈するに義壇の意を以てす、また不可解なり。更に末文に云く。

 

 

「向後慈折宣化の精進勇猛によりて全国民の仏性覚醒し、挙って妙法を願求するに到らば、その時正に不開の門は開かれ、茲に本門戒壇の意義その完結と見るものか」と。

 

 

自ら未だ本門戒壇の意義完結せずと。然らば何ゆえ正本堂を事壇と濫称するのか、事の戒壇とは三大秘法抄に定め給う条件整いたる時、勅使不開門を通り、而して後国家の活動力に依り建立せらるものにして、その大戒壇堂に弘安二年の大御本尊は出御遊ばす。これ「本門寺に掛け奉るべし」との先師異口同音に伝え給う掟ではないか。意義完結せざる以前に、建物だけは前以て大石寺に立てるべし等は御書のいずれ・先師の誰人の言に在りや。前代未聞の己義なり。されば正本堂はその意義を見るに「事」にあらず「義」にあらず蝙蝠鳥の如し。故にこそ、或る時は「事の戒壇なり」と断定せるかと見れば「事実上の」或は「実質上の」或は「……とも云うべき」等の曖昧の語を以て之を糊塗す。学会の自語相違かくの如し。

 

 

よって正本堂を事壇と信ぜず。これ理由の第六である。

 

 

 

九、何ゆえの牽強不会か

 

 

蓋し、七百年来の厳正の法義を歪曲してまで、学会が牽強付会する所以は何か。それは政治進出の為なる事は争うべくもない。政治進出には信心なき者の支持を得ざるを得ず。支持を得るには世論に阿諛せざるを得ず。阿諛すれば法義を改変せざるを得ぬ。ここに呵責謗法の厳義も薄れ、謗法同座の「聖人展」にすら宗門を参加せしむるに至る。そして遂に宗門一大事の事の戒壇に於ては、国立を民衆立と云い換えるだけではこと足りず、すでに正本堂がそれであるとまで牽強不会をなすに至るのである。

 

 

「戸田先生も我々も、一時『国立戒壇建立』といってきました。どこを捜しても御書には『国立戒壇建立』ということばは無いのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです。いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』と云いますが、私は何をいうかと云いたい。そんなことは御書にはありません。彼等はなにもその本義を知らないのです。猊下が正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。………私ども創価学会員ならびに日蓮正宗信徒の真心の結集によって本門の戒壇堂はもうできてしまうのです。安保問題のある一番大事な年である昭和四十五年にできるのです」(会長講演四十・九・二十)と。見事なる詭辨と云わざるを得ぬ。自らの前言をいとも簡単に飜えすのはまだよい、世を欺く為には厳正の法義も歪曲し、而もその責任は挙げて投下に帰さしめている。

 

 

かっての学会は国立戒壇を訴えん為に参議院に進出したとも聞く。今の学会は政権獲得の為に仏法を曲げているかの如くである。仏法を曲げて何の為の政治進出なのか。なぜ三類の強敵を受くとも正義を叫ばないのか。耳ざわりのよい事を並べて世俗に迎合するならば、一国を欺く甘談詐媚巧言令色の類ではないか。国立戒壇建立は一宗門の単なる宗教目的ではない筈だ。それが全国民の為なるは云うまでもない。故に「但偏に国の為・法の為・人の為にして身の為に之を申さず」の御聖意を拝するのではないか。朝野の反対を受けるとも、邪宗の禁断と戒壇建立を叫ばぬならすでに「是を云わずば法華経の行者にはあらず」にも当ろう。政治進出の為に大聖人の御正意を曲げざるを得ないのなら、そのような進出は御本意に叶わない。むしろ一切止めたらどうか。直言申し上げる。

 

 

「有徳王・覚徳比丘」の仰せを拝するに、覚徳比丘の叫び給うは何か、邪法の禁断と戒壇建立を、一人屹然と立ちて一国に迫り給うの外はあり得ないと拝する。身を惜んで教を匿し給う事のあるべき道理がない。然らば必ず身命に及ばん。その時身を捨てて護り給うが有徳王ではないか。

 

 

いまの学会の姿はどうなのか。自らの政治斗争・選挙運動の為には、法を説くべき御僧侶まで走らせているではないか。何が仏法守護か。それだけではない。許すべからざるは、世間の心を得る為に謗法とも妥協し、遂には清浄のお山まで巻き込んでかの「聖人展」に参加させた事である。而もこの催しを讃歎すらしている。(辻武寿氏・中外日報・四四・五・三)

 

 

そもそも身延離山は何に因る。波木井はさておく、謗法の元凶は日向の姦侫にあるは申すまでもない。その汚濁を嫌い給うて富士に移られた日興上人が、六百数十年後に日向の偽本尊と同座せしめられたのだ。日興上人を辱め奉る事、……云わんとしてすでに言葉を知らぬ。御開山様はいかようにお憤り遊ばしたか。当時我等いたたまれず、宗務当局を始め、学会本部(辻武寿氏宛)にも三度に亘り中止の諌訴をするに、何故これを無視したのか、蔑ったのか。単なる御影などと云わん者はまさに舌口中に爛るべし。すでに応永の古昔に時の御法主開眼し給い、御歴代また数百年に亘って如在の尊崇を為し給うた御影様である。「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」とお誡め下さったのは誰人におわす。その日興上人を謗法の元凶と同座せしむる。嗚呼、すでに言葉を知らず。豈大罰下らざるべしや。思うに近時連連たる不祥の災厄は何を物語る。若し懺悔せずんば後生まさに恐るべし。

 

 

いや、それにも増して陰陰として根深いのはこの正本堂の一事である。政治目的の為には遂に御本仏究竟の大事を歪曲・詐称せり。而もそれを為すには幾百万信徒の純信を欺き血の滲むついえをなさしめている。それだけではない。取り返しのつかぬは、すでに土と化し給う先師の正墓を蹂躙した事である。無慚とはまさにこの事ではないか。

 

 

しかも、これを恐れるどころか、正本堂建設がかえって我が身を挙げる所以となっているのは甚しく理解に苦しむ。あの巨額の浄財にしても。全信徒が、大御本尊の御為と思い、事の戒壇と信じ、更には猊下の訓諭あればこそ実に雪嶺に身投げる思いで持てる蔵の宝のすべて抛ったものではないか。その真心は聞くだに目頭が熱くなる。然るに云く

 

 

「みんなが団結して実践したたまものにちがいはないが、これだけ成功できたのは私の福運である」(大白蓮華一七六号)と。さらに一幹部これを称えて云く「正本堂建立は日蓮大聖人以来七百年間の宿願を果たすことであり、創価学会第三代会長の時代にその実現を見ることは、そのこと自体学会が地涌の菩薩の集まりであり、その総大将たる池田会長の出現が如何に偉大な意義を有するかということ、また第二代戸田会長・初代牧口会長が全く池田会長の大事業を助けんがために生まれられた事を証明する重大な意義を持つことである」と。

 

 

初代・二代の会長が誰の為に生れて来たのかは外部の者の関与する筋合いではない。だが御本仏大聖人との関係となれば仏法の筋目であり、等閑視はできない。されば撰時抄講義に、聖人御難事の一節と対比させて云く

 

 

「わが創価学会の勇猛果敢なる折伏斗争は、竜樹・天親・天台・伝教は申すに及ばず、大聖人以後に於ても、だれひとり肩を並べるものはないのである。創価学会が出現しなかったならば、釈迦・多宝・十方の諸仏はもとより、日蓮大聖人までが大虚妄の仏となってしまう」と。これでは学会の為に大聖人が御出現したみたいではないか。

 

 

謹しみ案ずるに、末法に大聖人御出現なくば釈迦・多宝・十方の諸仏が大妄語・大虚妄となるのは、近くは、「況滅度後」の文に依り、遠くは釈尊の法華経本迹二門の説法の元意悉く大聖人・三大秘法の助顕の為に他ならぬからである。されば法華取要抄には述門すでに「日蓮を以て正と為す」、とし、況や本門は「末法今時日蓮等が為」とせられ、更に多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出も元意は悉く「偏に我等が為なり」と仰せ給うたのである。これ大聖人が三世諸仏の御師・久遠元初の唯我独尊にて在す故に他ならない。さればその御出現に当っては釈迦・多宝・十方諸仏の予証・証明の大瑞相が為されるのは当然である。然るに若し御本仏出現せずとせば、釈尊一代説法は大虚妄となり、多宝・十方の証明は正しく大虚妄となる、故に聖人御難事にかく仰せ給うたと拝する。

 

 

この趣きに対比して論ずべきは前代にも滅後にもあるべき筈は無い。たとえ学会の弘通が天台・伝教に勝れたりと自讃するも大聖人の驥尾に附する故ではないか。更に二祖上人を初め奉り、先師上人の身を削る弘宣・伝持の御蔭ではないか。然るを凡夫の立場から大聖人を規定し奉り、学会なくば「日蓮大聖人までが大虚妄の仏となってしまう」とは如何なる意か。されば四条抄には

 

 

「日には五月十五日・月には八月十五夜に似たり。天台・伝教は先に生れ給へり、今より後は又のちぐへなり」と。これを寛尊釈して云く

 

 

「天台・伝教は先に生れ給へり、所以に末法の始を恋う。我等後に生れたり、還って末法の始を忍ぶ、忍ぶと雖も還る事なし。如何せん。乃至、後悔先に立たず、如かず、本尊に向って南無妙法蓮華経と唱えんには」と。末法万年尽未来まで御本仏一人の慈悲曠大なれば三大秘法は流れ弘まるのだ。

 

 

また学会の文書に数多く引用されている本尊抄の「此の四菩薩云々」にしても、一体何を云わんとしているのか。曾って助教授試験なるものに出題して云く「地涌の四菩薩が摂受を行ずると折伏を行ずることについて論ぜよ」と。その時優秀答案として大白蓮華(一四一号)に掲げられたのを見れば「大聖人様は、七百年前に御出現になり、法体の広宣流布をなさった。この時は正法像法二千年間にはもちろん未曾有の大折伏であり、それにともなう大難もあったのであるが、しかし法体の広宣流布は、いまだ現在会長池田先生の下に創価学会が化儀の広布に向って、あらゆる分野で折伏教化または選挙戦における権力と斗っていることに対すれば、摂受になるということである」と。

 

 

出題者は何を云わせんとしているのか。これではまるで況滅度後の大難を忍び給う唯我一人の大聖人が小さく見えやしないか。己れを重くし、また選挙戦に没入させる為に、三世常恒の主師親を軽くしてどうなるのか。また或は聞く「現代の主・師・親」(大白一七七号)と。初信者を誤らしむるなかれ。

 

 

そもそも本尊抄の「此の四菩薩云云」の御文意はそのように曲会すべきものなのか。又寛尊の御釈はかかる己義を助けるものか。大旨を誤ってはならない。されば寛尊題意を釈して云く「如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄」と。殊に時に当って注目すべきは、題号の「始」の一字である。誰人がこれを始むるや、日蓮大聖人一人にて在す。しかも「末法の始」に必ず出で観心の本尊を授与し給う。而していま本文にその御出現の時節を明し給うに当り、はじめに正像未出を示し、次に末法必出を明す。「此の四菩薩云云」とはまさに此の中にある。これぞ正しく能弘御一人の出現を指し給う文なるは論ずるまでもない。故に下文に「正像に無き大地震・大彗星」を以て「四大菩薩を出現せしむ可き先兆」と御意遊ばす。なぜこんな判りきった事を論ずるかと云えば、地涌の菩薩が或る時は摂受を行し、或る時は折伏を行ずる、などと浅解せば、御在世の唯我一人の御化導が甚だ軽くなるを恐れるからである。ここに四条抄の「今より後は又のちぐへなり」が再び思い出される。

 

 

しからば本文中の「賢王」は如何、と云えば、御本仏出現し給うに守護の働きの無い筈はない。これ御本仏の御徳を証する影響(ようごう)である。されば御在世は逆縁広布の故に、賢王は隣国にあって我国の愚王を誡責している。この蒙王の天譴的折伏を御化導の上から大聖人は位置づけ給うて、報恩抄には「隣国の賢王」、下山抄には「他国の賢王」、撰時抄には「隣国の聖人」と仰せ給うておられる。これ等諸抄の意を以てすれば、隣国に賢王いでて我国の愚王を逼責するは、正しく此の国に閻浮一人の智人・大人・聖人、四海に肩を並ぶるなき法華経の大行者の在します証拠であり、証明ではないか。煙を見て火を知るべし、隣国の賢王を見て御本仏ここに在すを知るべしとなり。

 

 

かくの如く御在世には逆縁なれば賢王は隣国にあって愚王を責むとも、若し我国に賢王の出現を尋ぬれば、順縁広布の時以外にはない。寛尊の御釈は、いま我国に約して仰せ給うたものと拝する。故に未来の本化聖天子を充てて「或は復兼ねて………歟」と判ぜられた。但し賢王はあくまで或義である。この故に「或」と「歟」の二字を以て判ぜられたのではないか。あくまで「此の四菩薩云云」の主旨は「後五百歳に始て弘む」の能弘御一人の御出現にある事は云うまでもない。いま或義に眼うばわれ、本旨を失なえば、寛尊が迷惑なさろう。寛尊の御釈は摂・折に約して将来の本化国主を称揚して御本仏を軽くせんなどの御意では毛頭ない。況や現今の選挙戦などに於ておや。

 

 

およそ大聖人滅後に、宗門信徒が折伏弘通に励むのは、皆「和党共二陣三陣」のあとを継ぎまいらせる随力弘通であって、御本仏の御修行に対して、摂の折のと論ずべき筋合いではない筈だ。誰人が頸の座に臨み、誰人が佐渡の極寒を忍び給うたのか、在家の立場なれば「折」などと比べ奉るも罰を蒙ろう。よし、順縁広布の本化国主にしても、御在世の大聖人に望めばなお末流垂迹応化の一人に過ぎないではないか。また真の本化国主ならば何で自ら大聖人に比して我が徳を挙げよか。「聖人展」なぞ為そうか。世の批判を恐れて法義を曲げようか。

 

 

さらに又云く「中国像法の正師天台大師は法華円頓の円慧円定を説き広宣流布して、円戒は滅後に譲っている。日本の伝教はこれを禀けて日本にはじめて法華円頓の別授戒を比叡山に建立した。これ迹門の戒定慧三学の整足であり、迹門の義に於ける立正の確立である。末法独一本門における戒定慧の整足について述べるならば、日蓮大聖人は円慧円定を確立なされ、円戒たる独一本門の戒壇を末弟に遺されたことは先に述べたとおりである。しかし時来って昭和四十七年建立の正本堂の完成を以て円慧・円定・円戒である三大秘法すべて整足するゆえに立正の二字の確立となる」(仏教哲学大辞典)と。

 

 

滅後の戒壇建立を、天台に対する伝教の関係を以て例するは重大な誤りである。故は撰時抄に云く「されば伝教大師は其の功を論ずれば竜樹天親にもこえ天台妙楽にも勝れてをはします聖人なり。乃至、天台智者大師の弘通し給はざる円頓の大戒を伝教大師の建立せさせ給う事又顕然なり」と。この関係を末法に移すとせば、大聖人は円定・円慧だけの弘通になり、滅後戒壇を建立する者の仏法上の位は大変なものになる。伝教迹門の戒壇すらなお滅後に建てられているではないか。だが義真我が徳を挙げただろうか、嵯峨帝は外護の功を誇っていようか。悉く伝教一人の徳に帰するのではないか。況や、未曽有の大難を忍び建立し給いし御本仏の三大秘法に於ておやである。

 

 

ここに、正本堂を事の戒壇と詐り称し、なお我が身を挙げるを大聖人御覧遊ばせば、果してどのように思し召すであろうか。所詮、大聖人の御憎まれを蒙れば、いかなる大果報の人たりとも身が持たぬ。主徳の厳たるはこれである。

 

 

 

 

十、宗務御当局に軋し訴う

 

 

以上の如く、正本堂に就いて小輩等存念を申し述べて参りました。思うに、「仏法は体・世間は影」であれば、唯一の仏法の正嫡たる当門流に、一分の濁りもあれば日本の命運に影響の無い筈はありません。況や、かくの如くの重大なる歪曲あるに於ては、一国の将来はどうなりましょうか。

 

 

さればかかる僻事を御本仏・二祖上人は断じて許し給わず。近年頻々たる不祥の相は仏意那辺に存し給うかと、小輩等の愚痴は只畏れおののくばかりであります。されば、七百年御山を荘厳せし老杉は、御開山お手植えの子持杉を初め。次々と枯死の相を現じております。まさに御開山以来の純正の法義ここに曲らんとするを警告し給うものかと感ぜざるを得ません。

 

 

さらに、正本堂を「事壇」と称して御供養を募り了って後一年、即ち昭和四十一年九月二十五日未明、あの未聞の大悪風は何を物語るのでありましょうか。時は丑寅の勤行の最中、所は大客殿であります。凶風はガラスの大戸七枚を吹き破り、痛ましい哉、暗闇の中に流血する信徒数十人、為に畳・朱に染まり、その風速実に七十米にも達せりと聞き及びました。御書に云く「風は是れ天地の使なり、まつり事あらければ風あらしと申すは是なり」又云く「日本国にはふかず、但関東八箇国なり、八箇国にも武蔵・相模の両国なり、両国の中には相州につよくふく、相州にも鎌倉・鎌倉にも云云」と。仏法を辨えぬ外者ならいざ知らず、この大悪風まさに大凶兆と云わざるを得ません。経に云く「如是相乃至本末究竟等」云云と。若し正本堂が御本仏の御本願の所であるならば、また云うが如くの「仏教三千年史上空前の偉業」ならば、瑞相は現わるるとも、かかる凶瑞の示される道理がありましょうか。

 

 

ここに宗務御当局に札すものであります。御当局は果して、正本堂を「事の戒壇」なりと承認しておられるのでありましようか。すでに一宗の重大事たれば、言を左右にし、顧みて他を云う曖昧は断じて許されません。

 

 

而して若し事壇なりとせらるるならば、確かなる文・義を示し給わるべきであります。

 

 

若し、事壇ならずとせば、一身を捨てて法の為・国の為。この法義の歪曲を正すべきであります。すでに法主上人猊下の御本意は明かであります。さればその衝に在る宗務御当局こそ、一死以て猊座を守り奉るべきであります。

 

 

たとえ、いかなる権力による、いかなる衆議たりと雖も仏法相違の己義は断固としてこれを打ち摧き給うべきであります。ひいてはこれが、数百万信徒にとっても、詐りの親み無き真の慈悲者たるかとも存じ上げるものであります。

 

 

また、広布の前夜、やがては国中の邪法と対決をして、一国に正法を知らしむる責務を持った宗門であります。然るに、若し本門戒壇の重大法義に歪曲があり、「聖人展」などの汚濁あれば、果して対決が出来得ましょうか。「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」と。いま国内漸く宗教論議囂しく、一国の将来にまた暗雲漂うの時、いまこそ国中の謗法を責め、全邪宗と対決すべきであります。されば急ぎ急ぎ内なる化儀・化法を純然と御在世のままに正し給わざるべからず。

 

 

若しこれをなおざりにせんか、宗門一同に法を惜まぬ無道心、遂には御本仏大聖人の御罰を蒙るは必定なりと深く恐れ憂うるものであります。

 

 

よって此処に黙す能わず。賤身を顧みず、敢えて麤語を構え微衷を訴えんとするものであります。只畏るは宗門に幾多の大徳・賢哲あり、而も未だ言を為し給わぬに、在俗愚痴の小身を以て濫りに大事に言及し、その上権威を侵し奉る。その僣越の甚しき、まさに万死に値するかとも思うものであります。されば今生為にいかなる苛戮を受けるとも、敢えて辞する所に非ず。只只御当局の賢慮を煩わし奉るのみであります。

 

恐 々

 

 

昭和四十五年三月二十五日

 

日蓮正宗妙信講
講頭  浅 井 甚兵衛
本部長 浅 井 昭 衛

 

 

日蓮正宗総監

早瀬道応御尊師
座下

 

 

追申 「聖人展」に於ける黙殺の前例もあれば念の為申し上げます。若しこの書落掌せられてより、二・七日を経てなお御貴意に接するを得ざれば、小輩等の非力につけて言を卑しみ給うものとして、則ち止むなし。全宗門緇素の護法の信心に訴え、御本仏の正義・法主上人の御本意を守護せんと決意するものであります。

 

 

また、此書直接には宗務院総監殿に宛てまいらすとも、同時に学会本部にも送附申し上げる所なれば.若し小輩等の僻見なりとせば、宜しく堂々の道理を示し給うべし。但し玉座を以て障壁とすること勿れ。

 

 

よって附送先かくの如し。宗門には総監殿を始めまいらせ、佐藤重役・阿部教学部長・藤本庶務部長・能勢財務部長・柿沼学林長・早瀬理事の各尊能・尊師、学会には池田会長・北条・秋谷・森田の三副会長・辻総務室長の諸先生、以上の十二箇所であります。

 

 

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コメント

  1. 雲羽百三 より:

     こんばんは。この記事とは関係の無いコメントをさせて頂きますが、どうか御容赦ください。
     私はツイッターをやっていないので、辛うじて閲覧はできても、それ以上のことはできないのです。
     何やら御当代上人にお乗りになる車に対して、文句のある輩がいたそうですね?
     それに対して、トチロ〜さんは反論されておられます。
     もちろん、私もトチロ〜さんの意見に一票です。
     むしろ、御当代上人がお乗りになるのだから、センチュリーでもいいくらいでしょう。

     法道院にいた頃、同組織の仲間が御入仏式を執り行うということで、御僧侶方をお招きしたことがあります。
     その際、通常なら電車かバスで移動するところ、タクシーをチャーターしていたくらいです(たまたま直属の班長がタクシーの運転手だったというのもありますが)。
     法道院という大規模寺院における、一ヒラ信徒の御入仏式ですから、当然御主管自ら来られるということはありませんが、それでも御僧侶方の為にタクシーをチャーターして差し上げるくらいのことはしているということにある種の感動は覚えました。

     もっとも、創価学会や顕正会関係者は一笑に付すだろうなとも思いましたが。
     あ、だから「斜め目線で見るのはやめろ!」と怒られたんですねw

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