お彼岸

日蓮正宗の行事
昭和46年宗務院発行の書籍です。

明後日は秋のお彼岸ですね。

顕正会でも秋季彼岸会を行いますが、その由来などを知っている会員さんはほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか?

というわけで、日蓮正宗における彼岸会のお話を紹介します。

    お 彼 岸

 

 

お彼岸はわが国の仏教一般に広く行われている行事の一つで、春と秋の二回あります。つまり、春分と秋分の日は昼と夜の長さが同じで、太陽が真東から出て真西に沈むわけですが、その日を中日とし、前後七日間に修する法要が彼岸会です。

 

この彼岸会の習慣は、印度や中国では行われたようすはありませんが、わが国では古く聖徳太子の頃から行われていたようであり、日本独特の風習といえます。その内容は、時代によって移り変わりがありましたが、現在では世間一般に先祖の供養をすることが主になっており、その現われとしてお寺へ参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りをする事が通例となっています。

 

今、この彼岸会の本来の意味を考えてみますと、彼岸という言葉は、梵語のParamita(パーラミーター)という語からきています。パーラミーターは〈波羅蜜〉と音訳し、〈到彼岸〉または〈度〉、つまり渡るという意味です。

 

仏教では、私達が生活しているこの世界を穢土又は娑婆世界といい、苦しみや悩みの世界であると説いています。そしてこの娑婆世界を此岸、つまり此ちらの岸に譬え、煩悩・業・苦の三道という苦しみの根源を大河の流れに譬え、涅槃、つまり成仏の境界を彼岸に譬えるのです。穢土の此岸から生死の苦しみの大河を渡って、彼岸の楽土に到達するためには〈仏の教え〉という船に乗らなければなりません。

 

ところがこの船にも、小乗といって二・三人しか乗れない小さな船もあれば大勢の人が乗れて安全な大乗の船などいろいろあります。日蓮大聖人は薬王品得意抄に「生死の大海には爾前の経は或は或は小船なり。生死の此の岸より生死の彼の岸には付くと雖も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづきがたし」(新編三五〇㌻)と仰せられ、本当の彼岸に到達できるのは大聖人の仏法、大御本尊の大船でなければならないとお示し下さっています。大聖人の教えは仏法の究極である事の一念三千の法門であり、そのはたらきとして煩悩即菩提・生死即捏槃・娑婆即寂光という、即身成仏の要道を説き明かされたものだからです。一生成仏抄には「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(新編四六㌻)と申され、彼岸と云っても極楽の別世界があるのではなく、此岸、つまりこの世の中で成仏することこそ本当の成仏であると示されています。ですから念仏宗のように西方十万億土に理想の別世界があるというのは、おとぎ話の方便にすぎません。

 

また一般仏教においては、彼岸に到達するために六波羅蜜という修行を説いています。これは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六つの修行方法であり、成仏を志す菩薩が、幾度となく生まれかわり、永遠ともいえる長い間修行してはじめて成就できる歴劫修行です。このような修行は末法の私達には到底できうるものではありません。

 

そこで大聖人は、観心本尊抄(新編六五二㌻)の中に無量義経の「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」との文を引かれ私達が御本尊を受持することによって自然に六波羅蜜の修行が達成され、彼岸に到達できると説かれています。これは、大聖人の仏法が、すべての根本である久遠元初人法一箇独一本門の本法であり、八万四千の聖教も妙法蓮華経の五字に収まり、六度万行の修行もすべて妙法五字を受持する〈信〉の一行に収まるからです。ゆえに大聖人の仏法こそ末法の私達にとってもっとも簡単で行じ易い修行だということになります。

 

私達が御本尊を受持信行するその一行の中に、あの菩薩たちの広大な六波羅蜜の修行と功徳のすべてが含まれているとは何とすばらしいことではありませんか。まず布施波羅蜜の中には、財施、法施、無畏施の三つがありますが、御本尊に御供養申し上げるのは財施、折伏をするのは法施、広宣流布して常寂光土を建立して行くことは無畏施になります。また持戒波羅蜜とは、御授戒を受け、謗法を行わないということであり、忍辱波羅蜜とは、折伏の時に慈悲の心をもって忍耐することであり、精進波羅蜜とは、退転なく水の流れるような信心を続けることであり、禅定波羅蜜とは御本尊の前に端座して勤行唱題することであり、智慧波羅蜜とは以信代慧によって信行学に励むことです。

 

このように、大御本尊を信じ一所懸命信心に励むことによって、菩薩の歴劫修行である六波羅蜜がすべて成就され、もっとも力強い仏の生命を感じつつ、この世の中で彼岸に到達し、即身成仏することができるのです。

 

このように見てくると、彼岸の本来の意義は、まず生きている私達自身が即身成仏して幸福な境界を切り開くことが重要となってくるのであり、その功徳をもって先祖の追善供養をするわけです。本宗ではこれらの意味から常盆・常彼岸という精神を建て前として仏道修行をするのであり、他宗でいう彼岸とはまったくその趣きを異にしています。つまり毎日々々の信心修行がすでに彼岸の修行であるわけです。

 

それでは本宗において何ゆえに春秋の両彼岸会を修するのかといえば、まずこれが積功累徳(功徳をつみかさねていくこと)という仏法の精神より起こった行事であるからです。彼岸会の本来の意義は今までに述べてきたように、即身成仏して幸福な境界を得るための儀式であり、しかもこの時期は世間においても「暑さ寒さも彼岸まで」といわれているように、一年中でもっとも気候のよい時でもあり、このよい時節に成仏のための功徳善根を積むということはまことに意義深いことです。

 

また、この日は昼と夜の時間が同じですが、これは陰陽同時・善悪不二を表するものであり、経文には「仏好中道」と説かれてあるように、仏教ではこの時を非常に重要視します。ゆえにこの時に善行を修する功徳は、ほかの時に修する功徳よりも勝れているということができます。この日こそ私達にとっては彼岸に到る絶好の機会であるといわなければなりません。

 

つぎに、この彼岸会は本宗における衆生教化の一つの方法であるからです。およそ彼岸会は日本国中知らない人はいないほど一般的な行事となっています。大聖人は太田左衛門尉御返事に「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」(新編一二二二㌻)と申され、また、白米一俵御書には「まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には『若し深く世法を識れば即ち是仏法なり』と」(新編一五四五㌻)とも申されています。つまり世間法即仏法であるならば、私達の心がまえとしては世間一般化した彼岸会を御本尊の大善行の中に転換引入し、すべて御本尊の祭りとして盛大にこれを行うべきといえましょう。

 

また、仏法で説くところは四恩報謝でありますが、この中で誰にでもすぐできる一番簡単な修行は、父母祖先への知恩報恩です。ゆえに彼岸会のこの日に御本尊に御供養し、先祖の塔婆を立てて回向するのであり、この一番簡単な善行が大善行となって到彼岸の要因となるのであり、これこそ真の彼岸会であります。他宗で行われる法要は一切無益であり、わが日蓮正宗で行われる法要こそ真の先祖供養であり成仏の要道なのです。

 

以上、私達は彼岸会の本来の意義をよくわきまえ、さらにこの日を期して信心強盛に、自行化他にわたる折伏行に励み、即身成仏を願い切って行くことがもっとも肝要であります。

 
(日蓮正宗の行事 23~30ページ)

 

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