御書講義のお話し

顕正会の思い出

比較的最近、顕正会員になられた方々は、御書講義と言う言葉を知らないかもしれません。

 

顕正会員だってちゃんと(?)御書を勉強していた時期もあったのです。

 

でも、御書は四百余篇と言われながら、何回も同じ御書講義に遭遇しています。

 

聖徳太子の逸話、雪山童子など、2回以上はありました。

 

これ、何年か前にあったよね。でも、今度のは何かが違うらしい。

 

昔は機関誌「富士」に掲載の御書でした。

 

いつ頃からか、プリントになりました。

 

楽しい事もあったし、めんどくさい時もありました。

 

乙御前御消息、兄弟抄、佐渡御書、種々御振舞御書、崇峻天皇御書、開目抄、立正安国論等々、思いつく限り並べたら、もっと、どんどん出てきます。

 

浅井会長のわかり易い解説で、いろんな御書を勉強したつもりでおりました。

 

いつの間にか、御書は学ばなくても、浅井先生のご指導が仏法のすべてであるかの様に、「富士」も無くなり、新聞だけになりました。

 

御書講義も無くなりました。

 

日曜勤行でも、御書の指導が無くなりました。

 

やさしい教学も、難しい教学も、浅井先生のご指導で、私達は仏道修行が出来ると思い込みました。事実、総班長から、これからは、浅井先生の指導がどんどん仏法の核心を突いてくるのだ!と言う指導があったのを覚えています。

 

総幹部会や、地方の会館の御入仏式、大会などの浅井会長の指導だけが、唯一大聖人の御仏意を聴き奉る機会になりました。

 

極めつけが御生骨。

 

大変な、大事を聞いた!と思ったことでしょう。

 

昔、聞いた事はありましたから、光り輝くとはどんなことなのかちょっと想像するには無理な話でした。

 

もう、こうなったら光り輝き過ぎて夜になると富士山の見える所は光が見えるくらいになるんじゃないかと。

 

全世界に配信するとか仰ってましたね。

 

エホバの証人の関係者にまことしやかに話したら、笑われてしまいましたね。「歯」ですよねって。

 

今でも光り輝くご指導は健在でしょうか?

 

なぜ、御書講義が無くなったのでしょう。

 

大聖人の直接の御手紙を拝する事に、何か不都合でもあるのでしょうか?

 

もっと仏法の勉強がしたいと思う顕正会員だっていると思います。私がそうだったように。

 

ある男子部員から聞いた衝撃的な言葉は、「御書を勉強したり、教学を学んだりするのは個人的には良いかもしれないけど、みんなにわからない様にした方がいいですよ。」というもの。
え!?・・・。

 

なんでしょうね。

 

 

顕正会は、どうなっていってしまうのでしょう。

 

 

 

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