僧俗の異体同心

エッセイ

諸天を動かす条件は「僧俗の異体同心」

これに尽きるわけです。「な~んだ…。」とガッカリされた方もいるかと思いますが、実際にそれが出来ているかどうかを我が身に宛てて考えてみると…。結構反省すべき人たちも多いのではないでしょうか?

また顕正会にいたっては御僧侶がいないわけですから、諸天を動かすなんてことは絶対に不可能なわけです。これゆえに私は前回の記事で「顕正会などにおいては論外!」と斬り捨てたのです。

三大秘法抄

そもそも顕正会員であればだれでも暗唱できるはずの三大秘法抄の一節

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。」

平成新編御書 1595ページ

顕正会ではこれを戒壇建立の「時と手続きと場所」を定めたものであると教えますよね。黄色のマーカー部分は「身命も惜しまぬ大護法心が日本国上下にみなぎった時」と解釈しております。それ自体に異論はありませんが、御法主上人と(国主をはじめとする)在家との関係が一切無視されて論が進められております。これではいけませんね。そもそも有徳王と覚徳比丘の故事とは、正法をたもつ覚徳比丘が迫害されているのを有徳王が命がけで護ったというお話です。この僧俗間の信頼関係までを視野に入れて拝していくと、その前段に説かれている赤字の「王仏冥合」という部分が活きてくるわけです。

「そこにおいて、事の戒壇を大聖人の大慈悲の実際的、具体的顕現たる広布の事相に約すれば、御一期において『三大秘法抄』のほかには全く秘して説かれなかったところの「王仏冥合」の御文である。ここに、王仏冥合の条件の上に本門戒壇の建立を示されたのが、まさしく御仏意であり、御遺命の一大事が存するのである。

すなわち、本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件が具備した時戒壇を建立するところに、本仏の志し給う「事の戒法」が成就するのである。この一切は御仏意であり、これは、さらにあとの『一期弘法抄』に本門戒壇の建立につき、二祖日興上人に遺命されるところである。」

三大秘法義 566~567ページ

この御指南を拝しますと「王仏冥合」こそ戒壇建立の条件であると理解できます。浅井さんが主張する

戒壇の大御本尊を守護するにおいては身命も惜しまぬという大護法心が日本国上下にみなぎった時、これが戒壇建立の時である。」

折伏理論書 旧版 127ページ

これだけでは条件は整ってはいないのですね。戒壇の大御本尊様の御内証と而二不二の尊体たる御内証を所持される御法主上人猊下をも命がけで守護するという心が国主をはじめとする国民にみなぎった時、はじめて戒壇建立の条件は整い、そして実際に戒壇を建立するところに「事の戒法」が顕われるということなのです。

「事の戒法」が顕現したときどうなるのか…。これは顕正会の皆さんも簡単に想像ができますよね。諸天がその国を守護するわけですよね。ここまで説明すれば話が繋がりましたでしょ?「王仏冥合」こそが諸天が動くポイントなんだということ…。「王仏冥合」とは僧俗間の異体同心の姿であるということ。簡単なことですが、実際に行おうとすると非常に難しい「僧俗の異体同心」ですが、たとえそれが一国のスケールではなく一末寺という小さなスケールであっても「異体同心」出来たなら諸天は必ず動きます。その体験をさせるために数年おきの御命題が設定され、毎年の誓願が設定されていると私は思います。それらに関してはまた今度…。

最後に、有徳王・覚徳比丘の故事に関して少し詳しく御講義された御指南がありますのでそれをご紹介しておきます。

有徳王・覚徳比丘

 次も『金剛身品』ですが、これから先は、実際に法を護ることを行った聖者の過去の実例を 挙げておられるのです。すなわち有徳王、覚徳比丘の事蹟であります。


 「又云はく『善男子、過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまふこと有りき。歓喜増益如来と号したてまつる。仏涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の末、爾の時に一の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ。爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼む。是の時の国王の名を有徳と曰ふ。是の事を聞き已はって、護法の為の故に、即便説法者の所に往至して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。爾の時に説法者厄害を免るゝことを得たり」

 これは歓喜増益如来の化導において仏の滅後、正法が長く住し、次に「余の四十年仏法の
末」とありますから、像法か、あるいは末法の時代に入ったのでしょう。その時に一人の持戒の比丘、戒を正しく持つ僧侶があり、その名を「覚徳」と称しました。


 そのときに、また多くの破戒の比丘があり、この者たちはもちろん正法を誹謗する一闡提の破戒に当たっていたと思われます。


 「是の説を作すを聞き」の「是の説」とは、僧侶たる者は修行と衆生化導を根本とすべきであり、物欲に頼ってはいけないと、覚徳比丘が破戒の者を諌めたことを言うのです。


 今の宗教団体の者たちの中には、信者から供養されたお金をもって、いろいろな事業をしたり様々なことを行って、直接金儲けをするような姿もあるようです。そういうことは、宗教者としてはよくないのです。ですから我が日蓮正宗では、そういうことは絶対にいたしません。僧侶が商估に類する金儲けをするようなことはしてはいけないということが『宗規』の中にも規定されているのです。


 ところが当時は、そういうことをしていた破戒の僧侶がおり、それに対して誡められたの
が、この覚徳比丘であります。


 そして「是の説を作すを聞き皆悪心を生じ」、つまり破戒の比丘らはその言を聞き終わっ
て、覚徳を殺そうという悪心を生じたのです。

 欲のある者は、その欲の道を断たれると、非常に怒りを生ずるものです。これは現在の世間でも皆同じで、いろいろな悪いことをして金儲けをしている人間は、そのことを閉じられようとすると怒り狂ってあらゆる悪巧みをします。そのために人を殺したり、様々な迫害を及ぼすのであります。


 このときの破戒の僧侶もこれと同様、覚徳比丘を非常に憎み恨んで、殺そうとしたのです。そのときに有徳という国王がこれを聞いて説法者のところに駆けつけて、破戒の比丘らが覚徳比丘を殺そうとするのを防ぎ、身を挺して戦いました。その結果、覚徳比丘が悪い僧侶どもから殺される厄害を免れることができたということです。


 大聖人様が文永元(一二六四)年十一月十一日、房州小松原において東条左衛門ら数百人に襲われたとき、直檀・工藤左近吉隆殿が身を挺して大聖人を守って戦い、ついに討ち死にされたのも、まさにこの仏法守護の実例であります。


 「王爾の時に於て身に刀剣箭槊の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時
に覚徳、尋いで王を讃めて言はく、善きかな善きかな、王今真に是正法を護る者なり。当来
の世に此の身当に無量の法器と為るべし。王是の時に於て法を聞くことを得已はって心大い
に歓喜し、尋いで即ち命終して阿仏の国に生ず。而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。
其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿閦仏の国に生ず」


 その戦いによって有徳王は身体のあらゆるところに、敵の刀による傷を受けて、まさに瀕死の状態であったということです。


 この王のまさに臨終のときに及んで覚徳比丘は、王に対しその捨身の行為を讃歎します。


「あなたは本当に正法を護る方である。この功徳によってあなたの身は将来、無量の智徳を持つ法の器となるであろう」、つまり仏と成るであろうと言われたのです。


 有徳王はこのことを聞いて心に大いなる歓喜を抱き、そこで命を終わりました。この王様
は、その功徳をもって阿閦仏という仏様の国に生じたということです。


 この阿閦仏は、法華経の『化城喩品』に、大通智勝仏の十六王子の成道を示される中の一番目の仏としてその名があります。その仏の国土に生じて、その仏の第一の弟子となり、また王様の臣下として極めて共に戦闘した人たちが皆、一緒に阿閦仏の国に生じて、立派な菩提を成ずることができたと言われるのです。


 「覚徳比丘却って後寿終はりて亦阿閦仏の国に往生することを得て、而も彼の仏の為に声
聞衆の中の第二の弟子と作る。若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是くの如く受持
し擁護すべし」

 さらにこの覚徳比丘もまた、死んだ後に阿閦仏の国に生じて、その仏の第二の弟子となったということです。


 この過去の事例を挙げられた釈尊は、正法がまさに尽きようとするときには、我が命を捨ててもこのように法を受け持ち、護るべきであるとおっしゃるのであります。


 大聖人様は、内・大・実・本・種の五重の深義の上から、三世にわたり一切衆生を救う究極の仏法たる三大秘法を正しく弘めていくためには、まさにこの根本の法を命懸けで護るということをあくまでも根底とされております。


 これは『三大秘法抄』のあの大事な戒壇の文の中に、


 「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(御書 一五九五㌻)


と示され、究極の戒壇建立の大事に関し、有徳王、覚徳比丘の故事を引き給うところに明らかであります。もって深くこのお示しを拝すべきであります。

立正安国論 215~219

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