池田大作・秋谷栄之助に対する御指南

御遺命の戒壇に関するご指南(資料)

平成3年3月9日 池田大作・秋谷栄之助に対する御指南

 

去る一月六日及び一月十日、全国教師指導会における、御法主日顕上人猊下の御指南について、二月二十八日付をもって、秋谷栄之助会長外十二名より、猊下に対し奉り、不遜なる「お伺い書」が提出され、しかも日限を切って回答を要求するなど、およそ本宗信徒とは考えられない行為に出ていることは、まことに遺憾にたえません。
しかしながら、御法主上人には、大慈大悲の御教導を垂れ給い、別紙御指南の書面を認められ、これを送達するよう御下命がありましたので、お送りいたします。
貴殿等には、謹んでこの御指南を拝し、信心をもって了解し奉るよう望みます。
平成三年三月九日
日蓮正宗総監   藤本日潤
創価学会名誉会長
池田大作殿
同会会長
秋 谷 栄之助 殿

 

今般、私の一月六日、同十日の全国教師指導会における発言を訂正したことなどについて、創価学会の秋谷会長外十二名の連名による質問がありました。これは、本書が当方に到着した三月一日の一日前、二月二十八日付の聖教新聞に、すでに掲載されるという、早急な形で一般に発表されました。

 

よって、ここに一文を草し、この件の質問に対する回答、並びに宗内僧俗に対する教示とします。

 

去る一月六日の全国教師指導会での発言中、日達上人のお言葉に関する訂正は、

 

「日達上人のお言葉はもっと広い意味での『広宣流布』ということをおっしゃったと私は思います。ですからその後の御指南等においても、明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものズバリの形でおっしゃってはいないと思うのであります。」

 

と述べたことについて、

 

「昭和四十三年十月以前に、正本堂につき『三大秘法抄』『一期弘法抄』の御文意を挙げての日達上人のお言葉があったので訂正する」(「昭和四十三年十月」とは、池田名誉会長が着工大法要で『三大秘法抄』の戒壇の文を引いて正本堂と指定した時期)

 

と、『大日蓮』(本宗機関紙)の本年二月号に掲載したものです。

 

訂正における日達上人のお言葉とは、次の三文に該当します。第一は、昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会の砌のお言葉で、

 

「大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のためへの偉大なるご遺訓であります。」

 

と、『一期弘法付嘱書』の文を挙げられ、この御文が、ただちに正本堂であるとは仰せでないが、戒壇の大御本尊安置のことと正本堂の関係が述べられています。第二は、昭和四十年十月十七日、創価学会本部幹部会の砌、

 

「ただいまお聞きのとおり、だれも想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、このりっぱなる成果となったのでございます。」

 

と仰せられています。第三は、昭和四十三年一月号の『大白蓮華』に、

 

「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。」

 

と言われ、正本堂について、『一期弘法抄』『三大秘法抄』の一部分の文の上に、その意義を顕わされています。

 

したがって、私は謹んで前述のごとく訂正したのです。また、その後、日達上人が昭和四十七年四月二十八日に示された訓諭中の定義は、正本堂がその時、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むものと改訂あそばされたことが明らかです。

 

つぎに、一月十日の教師指導会での発言中の私の訂正とは、

 

「その時はそのような空気が宗門を巻き込んでいった。そのような経過の中で大事なことは池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります。(傍線部分は、お言葉では『一番の元』となっていたが、猊下より訂正する旨、仰せ出だされました。)」

 

との『大日蓮』掲載の部分です。「一番の元」の語は、つぎに続く言葉に対して不適切であったので、右のように訂正したのです。

 

これらの訂正の意味は、日達上人の前掲の三文が、池田名誉会長の昭和四十三年着工大法要の時の発言以前に、やはり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を示されているということにあります。

 

しかし、池田大作氏と同様の決定的お言葉ではない、と信ずるものです。まず、前述第一の文は、そのあとの流れからも正本堂が『一期弘法抄』の意義をもつというお示しであります。

 

第二の文は、『一期弘法抄』の戒壇建立の文を引かれ、その「ご遺言にまかせ」との仰せです。これも「まかせ」の意は、「その尊高かつ広大な意に従い」と拝されるので、その意義を示される一環のお言葉です。

 

つぎに、第三の文の中の「大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり」の「大聖人の御本意が定まる」とは、大聖人の大慈大悲の御心は、一切衆生が正法を受持することにあり、しかるに多くの信徒が輩出して相当の広布の相がみなぎるとき、大聖人が定めし御満足あそばすであろう意義をこのように述べられ、信徒を激励されたお言葉です。また,「教化の儀式も定まり」とは、大聖人の御本意の語に準じて、その御化導の意義を述べられたと拝されます。つぎの、「王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」の「王仏冥合」とは、発願主池田会長一人の財力で建てるのではなく、八百万の信徒の和合の浄財であることを、「王」が「民衆」に当たる今日の解釈の上から、かく示されたものであります。故に、これもただちに『三大秘法抄』の戒壇を必ずしも示されたのではなく、その意義を述べられたのです。

 

以上のように拝すると、日達上人の御文意は、『一期弘法抄』『三大秘法抄』の一部を挙げられつつも、ただちにその戒壇を仰せられたというよりも、その正本堂に関する意義を述べられているのです。

 

しかるに、池田大作氏の昭和四十三年の着工大法要の言は、後に挙げますが、『三大秘法抄』の「霊山浄土に似たらん」以下の全文を挙げ、続いて「この法華本門の戒壇たる正本堂」云々として、その事の戒法の戒壇が、まさに正本堂そのものであると、明々白々に示されています。

 

故に、私の「日達上人に前掲の文があった」として訂正したその趣意は、池田氏の言と同等の意、あるいはそれ以上の表現がなされているというのではなく、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を述べられている文があったという意味の訂正なのです。

 

したがって、時期的な点(三大秘法抄を使って正本堂を意義づけした最初である)ということに対する訂正以外に、その内容についても訂正されたとの前提に立つ質問、

 

「名誉会長の挨拶が独断であるとの断定は間違いではないか」
「一番の元の人はだれか」
「名誉会長の慢心の表れであるとの論拠が崩れるのではないか」
「今日の宗門・学会問題の根本原因もなくなってしまうのではないか」
「一月六日、十日のご説法の部分的撤回が妥当ではないか」

 

等の論難は、全く当たらないのであります。

 

ただ、「一番の元」との語について、「(その)ような経過の中で大事なこと(は)」と訂正しましたが、私の感じている当時の事態をやや明確にする上から、あえて言うならば、確かに正本堂の意義を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に御遺命の戒壇とただちに関連づけての発言は、池田会長が最初ではないかも知れませんが、当時の創価学会大幹部が、二代会長戸田城聖先生の逝去後も広布の情熱をたぎらせ、「広宣流布は学会の手で」の合言葉、及び「日達上人の達は達成の意だから、日達上人の代に広布の達成を」という言葉や意識で、広布の実証を示そうと意気込んでいたことは事実です。それは、昭和三十九年四月の大客殿落慶法要における池田会長の、

 

「 三大秘法抄 に『時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり』との大聖人の御聖訓がございます。その時がついにやってきたとの感を深める者は、私ひとりではないと信じます。」

 

との挨拶や、昭和四十年元旦の、

 

「(正本堂の御供養は)けっしてむりはせず、真心の御供養を日蓮大聖人様即日達上人猊下に差し上げましょう。(乃至)日蓮大聖人様のご予言、そして日興上人様のご構想が、日達猊下の時代にぜんぶ達成なされると思われます。じつに、名前におふさわしき日達上人であられます。」

 

との発言、また昭和四十年七月の

 

「日達猊下のいらっしゃるあいだになんとか達成したい。これが私の精神であります。」

 

等の発言をみれば、当時明らかに池田氏をはじめとする学会側に「大聖人の御遺命の達成」という意識があったことは否めないと思います。

 

しかして、そのような意識の中から、池田名誉会長の慢心が強まり、それが正本堂問題、昭和五十二年路線の逸脱、そして今回の問題を生んだ根源となっていると思います。それはつぎに挙げるような事柄からも明らかであります。

 

まず昭和三十九年六月三十日、東京台東体育館における学生部第七回総会の講演で、池田会長は、

 

「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。」

 

と述べられています。いやしくも正宗信徒の身として、もっとも大事大切な御遺命である戒壇のことをこのように下すことは、まさに大聖人軽視、三大秘法軽視の最たるものです。この発言は、まさに大聖人一期の御化導の究極たる『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇の御文に対する冒涜であり、三大秘法破壊につながる重大なる教義逸脱というべきです。

 

このような慢心が、つぎの正本堂の事柄に影響を及ぼしたと思います。そして、昭和四十三年の着工大法要の時の挨拶として、池田氏は、

 

「日蓮大聖人の三大秘法抄のご遺命にいわく『霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懴悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して み給うべき戒壇なり』云々。この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」

 

と述べ、まことにはっきりと『三大秘法抄』の戒壇そのものが、ただちに正本堂であることを宣言されました。この表明は、前掲の日達上人が大聖人の御遺命に関する意義を述べられたと拝される御指南の三文より、その表現相において一段と明確になっております。

 

そして、日達上人は前三文に関しても、昭和四十七年四月二十八日の訓諭において、明らかに正本堂がただちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ではなく、その意義を含むのであることを示されました。すなわち、前のお言葉を改訂あそばされたのです。これを基準とするとき、最初の発言が誰方であるかということとは関係なく、着工大法要の際の池田氏の言葉は誤りですから、正本堂建立発願者という責任ある立場からも、その後において自ら進んで大聖人様に対し奉り、誤りの言そのものをただちにお詫び申し上げ、それを宗内一般に公表すべきだと思います。これこそ大聖人の御遺命の重大さを正しく拝する信仰ある者の行為と信じます。もっとも先に挙げた戒壇に対する、池田氏の台東体育館におけるあの軽侮に満ちた発言より推測すれば、そんなことはどうでもよいと考えているのかも知れませんが、厳正な大聖人の仏法よりすれば、そのような無慚な考え並びに訂正されないこと自体、正直捨方便の姿ではないのです。故に、私は教師指導会においてそれを指摘したのです。もちろん私はそれが道理と思いますので、当然のこととして何ら池田氏に陳謝する必要は認めません。

 

それのみならず、池田氏が、その期に及んでもと思われるようなときに、まだ正本堂が御遺命の戒壇であると執われ、大聖人の御本意に背く意識をお持ちであったことを証する事例があります。昭和四十七年の四月、既に日達上人の訓諭による正本堂の定義が決定したあとの、同年十月の落慶法要の時、池田氏は法要が終って下山する信徒に、幹部を通じて、七百年前の大聖人の御遺命が、ここに達成された旨の言葉を伝えさせたのです。このように、池田氏は日達上人の御指南に、あえて背くことを物ともせず、正本堂は御遺命の戒壇という意識に執われ、その落慶が御遺命の達成であると深く執着していたと思われます。

 

つぎに、訓諭中の正本堂の定義に関する非難について回答します。
先にその文を挙げます。

 

「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。」

 

この文中の前文は、正本堂が『一期弘法付嘱書』と『三大秘法抄』の意義を含む現時における事の戒壇ということであり、この「意義を含む」とは全面的に意義が顕われたということでなく、まだ広布の進展が部分的であることを示すものです。したがって、正本堂に戒壇の御本尊を安置するという意味はあっても、ただちに『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇としての達成ではなく、現在の時において本門戒壇の大御本尊まします堂であるから、事の戒壇と称するとの意です。

 

後の文は、正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂ということで、そこに正本堂が広布の暁において本門寺の戒壇となると確定する意味をもつか否かについて申します。

 

この「たるべき」の「たる」とは、体言につく場合に、確かに断定の助動詞の連体形でありました。しかし、「たり(たる)」で終っているのなら、確かに断定の意味に限定されますが、下に「べし(べき)」の助動詞がつくことにより、「べし」のもつ様々な広い意味に解釈されることになります。

 

「べき」の語は、推量の助動詞としての広い用法があります。『日本国語大辞典』によれば、その第一はよろしい状態として是認する意を表わすもの。その中で ふさわしいとして適当であるという判断、 当然のこととしての義務の判断、 他人の行為に関して勧誘又は命令を表わす。その第二は確信をもってある事態の存在や実現を推量し、また予定することを表わす。その中で 近く事態の起こることを予想する意、 遠く見えないところで進んでいる事態の断定を表わす、将来事態の実現を予定する意、 自己の行動に関し、強い意志を表わす。その第三はすることができる、できそうだとの可能の判断を表わす等があります。そのほか、角川『新版古語辞典』では、 確信ある推測を表わす、 予想の意を表わす、 予定の意を表わす、 当然の意を表わす、 必要、義務の意を表わす、 適当の意を表わす、 強い勧誘、押しつけの意を表わす、 決意を表わす、 可能性があると推定する意を表わす等があります。したがって、その微細な表現や意味は、諸説紛々としています。このような場合、その意義の決定は、その一文一文の状況、すなわちその前後の文の意味合いによって、「たるべき」の意が種々に異なるのです。

 

しかるに、学会では、自ら「当然、推量、可能、命令、意志・決意」の五意があるというにもかかわらず、訓諭の「たるべき」と二箇相承の「たるべき」について、何の根拠も示さずに同意義であるかのように論じています。すなわち、「猊下のように、あやふやな未定の意も含んだ『べき』と拝したならば、たとえば、次の身延相承書、池上相承書の二箇相承に記されている『たるべき』は、いかに拝さなければならないのでしょうか。……この両書は……未定・変更の可能性を含んだ推量であるはずがありません。

 
……猊下のご説法のように解することは、到底、不可能であると思いますが……」と述べることは、全く事物の分別がついていない論難です。

 

両相承は師資相承の書であり、大聖人より日興上人への命令、すなわち前述の日本国語大辞典の用例中、第一の に当たるので、大聖人、日興上人の伝法の深義に約して、絶対的命令の意味があるのです。しかし、訓諭の「べき」の用例は、正本堂の意義についての、教えさとす文であり、種々の用例の中で、そのいずれに当たるかは、あくまで前後の文意によることです。とくにこの場合は「広宣流布の暁」及び『一期弘法抄』の文義による「本門寺戒壇」という重大性に基づく未来の広布の様相に引き当てて深く考えなければならないと思います。

 

所詮、御仏意による広布は未来のことであるから、広布達成の時、本門寺の戒壇となるか否かは、予定であるから、また未定の意もあると達観すべきであると信じます。このことは、さらに後に結論的に述べます。

 

つぎに、

 

従前の御発言との矛盾、自語相違

 

及び、

 

日達上人の御指南との矛盾

 

という題、及び論旨に対し、申し述べます。

 

右の中で、まず私が教学部長の時、昭和四十七年三月二十六日の総本山における指導会で、訓諭の基となる宗門公式見解を発表した内容を挙げて、それを今回の発言と比べて矛盾するものであり、自語相違と述べられております。

 

私としては、そのことは全て承知の上で教師指導会における発言をしたのです。なぜならば、宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです。

 

顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。

 

そうした中で、三月二十六日の宗門公式見解を教学部長より発表する仕儀となりました。教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。しかし、今顧みれば、あの時の「正本堂は広宣流布の時に『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。それが、日達上人の、

 

「昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます。」

 

という御指南と一体のものとはいえ、その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです。したがって、私は、日達上人の御本意は、むしろそこにあらせられず、異なった趣意があることを、昭和四十五年時の御説法に拝するものです。すなわち、

 

「有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。」(昭和四十五年四月六日・御霊宝虫払会御書講)

 

「いつ本門寺という名前に変るのが至当か、広宣流布の時即ち三大秘法抄に依る戒壇建立した暁に変るべきと解釈していいか、と云う、こういう質問でございます。誠にその通りと返事をする他はありません。(乃至)理想としての三大秘法が完成して戒壇が出来た時に本門寺と名前を変える。最もそれで宜しいと私は思います。」(昭和四十五年五月三十日・寺族同心会質問会の砌)

 

「戒壇の御本尊在ます所は、即ち事の戒壇である。究極を言えば三大秘法抄或は一期弘法抄の戒壇で勿論事の戒壇であるけれども、そこにまつる処の御本尊が今此処にある此の御本尊様は戒壇の御本尊である。故に此の御本尊在す所がこれ事の戒壇である。それが御宝蔵であっても、奉安殿であっても、正本堂であっても、或はもっと立派なものができるかも知れない。出来たとしても、此の御本尊まします所は事の戒壇である」(同前)

 

「三大秘法抄並びに一期弘法抄に申される処の戒壇の御本尊は未来のことである。現在我々はそれは大理想として置いて、現実に於いて我々の今戒壇の大御本尊在ます処が事の戒壇である(乃至)天母ヶ原に建とうがどこに建とうが、その時に天皇陛下が建てるかどうか知らないけれども、広宣流布が完結した時建つと云う事は大理想として留め、現実の戒壇の御本尊を御宝蔵からお出ましになって奉安殿にある。更にお出ましになって正本堂にあれば実に有難いのである。だから戒壇の御本尊在す処は真実にお題目を唱えて行かなければならないと云うことを申すのでございます。」(同前)

 

以上、日達上人の御指南は、正本堂をそのまま広宣流布時の即ち『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇と決定されてはいないし、その時はむしろ別に建つこともありうるという趣意すら窺えます。そして、私はここに日達上人の御真意があらせられたことを、常日頃の謦咳に接したこととも併せて、かく信ずるものです。

 

信の一字をもって『三大秘法抄』『一期弘法抄』を拝し奉る以上、先に掲げた日達上人の昭和四十五年四月六日の虫払会御書講の御指南こそ、宗門僧俗の根本的信念であります。すなわち、未来の広布の暁がいつになるかは未定ですから、正本堂の建物がそうであるかないかを現在において断定することも、またできない道理です。

 

故に、日達上人は、昭和四十九年十一月十七日の、創価学会第三十七回本部総会の講演で、

 

「今、深くこれを思うに、日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に純真な、しかも確実な信心をもって本門の題目、南無妙法蓮華経を異口同音に唱えたてまつることができたとき、そのときこそ日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきことであると、思うのであります。
この時には我が大石寺は、僧侶の指導者たち、信徒の指導者たち、相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもありうると、信ずるのであります。」

 

と述べられました。

 

この文を広宣流布の目安として拝察するとき、まことに容易でない内容を含んでいます。今日の日本人口一億二千万以上の三分の一とは四千万以上であり、このように大勢の純真確実な信心をもった人々が戒壇の大御本尊へ参詣することを考えたとき、また今日の広布の現状より考えて、純真にして確実な四千万人信徒の折伏達成の時期に思いをいたすとき、それらの推測に付随する様々な事情よりして、正本堂を、その時の戒壇として今から断定することは難しいであろうと思います。したがって、一部建立発願者及びその他の関係者が、御遺命の戒壇であるように願うという願望は自由であるが、尊厳なる大聖人の御遺命に対すれば、その戒壇たる決定は未来における未定のこととして、御仏意に任せ奉ることが僧俗信仰の基本であると信じます。

 

要するに、本仏大聖人の最後究竟の御指南たる『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は、凡眼凡智をもって断定し、執着すべきでなく、ひたすら御仏意に任せ、その御遺命の尊高にして絶大なる仏力法力を仰いで信じ奉り、その実現に邁進することこそ、本因妙仏法を信ずる真の仏子であります。

 

その上から、日達上人の訓諭中の正本堂の定義の文については、左のように補足して拝すべきと思います。

 

「正本堂は、広布の進展の相よりして、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含むものであり、本門戒壇の大御本尊が安置される故に、現時における事の戒壇である。そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懴悔滅罪を祈念するところの大殿堂である。」という見解が適切と信ずるものです。

 

宗祖大聖人は、その御一期の大事、御化導の究極として、『三大秘法抄』『一期弘法抄』に、御遺命の完結、広宣流布の大目標をお示しあそばされたのです。我々は、その大慈大悲を拝し、真の仏子として、自行化他、随力弘通、もってひたすら御遺命達成の大目標へ向かって進むべきであります。

 

更に、正本堂の意義に関し、述べておくことがあります。それは、日達上人より池田大作氏に授与された賞与御本尊のことです。その脇書には、

 

「賞本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日」

 

と認められ、更に池田氏の強い要望があって認められたと記憶する裏書に、

 

「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也   昭和四十九年九月二十日 総本山六十六世 日達 在判」

 

とあります。脇書の中の「事の戒壇」とは、前来述べる日達上人御指南のごとく、現時における事の戒壇であり、したがってその意味は本門戒壇の大御本尊を正本堂へ奉安する故です。また、裏書では、一往『三大秘法抄』の事の戒壇のようにも取れますが、「準じて」の字よりすれば、やはりただちにそのものを表わす意ではないと拝します。この「準じて」とは、特に日達上人の御意志として書かれたのです。辞書によれば、この「準」の字の意には、たいらか、のり、ならう、なぞらう、のっとる、ひとしい、おしはかる等があり、更に准と擬の字に通じるとあります。したがって、この文字の最も通常的用法では、ならう、なぞらう、であり、すなわち本物に準ずる、あるいは似つかわしい、似ているとの解釈が一般的であります。故に、この文は、「正しく三大秘法抄の戒壇になぞらえて建立する」との意味です。つまり、「準」の字は、やはりそのものが将来、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となるとは断定できないことを示されたものと拝します。その理由として、もし正本堂が広宣流布の暁に、ただちに『三大秘法抄』の戒壇となると思われたならば、特に「なぞらう」「似つかわしい」等の意味をもつ「準」の字をわざわざお書き入れになるはずがなく、

 

「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の将来における事の戒壇として建立されたことを証明する本尊也」

 

と認められたと思います。

 

以上、正本堂の意義に関し、一宗を教導する法主として申し述べ、教示とします。

 

なお、最後に において、池田名誉会長が、昭和四十三年十月、「本門の戒壇たる正本堂」と明言したことに対して、未だに訂正も反省もないと要求するのは、筋が通らないと主張していますが、このことは、すでに本書五頁において指摘済みです。昭和四十七年四月の訓諭によって、正本堂落慶法要の直前、和泉理事長が『聖教新聞』紙上に訂正発表をした理由を、よく考えるべきであります。

 

全ては、時日の経過によって風化させてしまえばよいと考え、他人の真摯な反省も茶番劇と嗤う無慚さを憐れむものであります。

 
以 上

 

(大日連 平成3年4月号 12~31ページ)

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