大聖人ご難法要(御難会)

日蓮正宗の行事
昭和46年宗務院発行の書籍です。

明日は9月12日ですね。大聖人様が竜ノ口の御法難にあわれた日です。

顕正会でも「竜の口法難御報恩勤行会」なるものを行いますが、本家本元の大石寺でも当然のことながら「御難会」といわれる法要を執り行います。本日はこの御難会について紹介いたします。

 

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大聖人ご難法要(御難会)

 

御難会は文永八年九月十二日宗祖日蓮大聖人の竜ノ口の法難を記念し、ご報恩申し上げるために毎年この日に行われる法要です。

大聖人のご一生は、「日蓮ほどあまねく人にあだまれたる者候はず」(新編七三九㌻)と仰せられるように、大難四ヶ度、小難数知れず、といわれ、竜樹・天親・天台・伝教等の仏教の大弘通者も肩を並べることができない大法難の連続でした。では、なにゆえに大聖人はこのような数々の難をお受けになったのでしょう。それは法華経の色読にあったのです。

釈尊は、唯一最高の経典である法華経の法師品から宝塔品にかけて、この経を弘める功徳の大きいことを説き、とくに宝塔品において三度の詔を下して、未来にこの経を弘めることを勧められました。そこで菩薩・阿羅漢・声聞・比丘・比丘尼等の弟子達が弘経を願い出たのに対し、釈尊は六難九易を説いてこの経法を弘めることの困難を説かれたのです。しかし、これらの大衆の中で、八十万億の菩薩は、なおも釈尊滅後の弘通を懇請し、ついに弘経の一大決心を述べたのが有名な勧持品二十行の偈です。

この菩薩がたは、夢のように仏の悟りの加護を受けて、仏滅後の悪世の姿を見とおし、恐るべき悪口罵詈・刀杖の難・数々見擯出等を加えてくる強敵を予想し、どのような大難に対しても「我れ身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」と誓いました。

ところが、印度・中国・日本の中で大聖人のご出現以前にこの経文を現実に身こあてて行じた方は一人もいません。もし大聖人がこのような大小の難をお受けにならなかったら、経文の予言は虚妄になり、釈尊は大妄語の人となってしまいます。開目抄には「当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(新編五四一㌻)と仰せです。それゆえ、大聖人は、難が来ることをもって喜びとされ、法華経の行者に迫害を加える者を善知識とまで申されています。種々御振舞御書には「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。乃至日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(新編一〇六三㌻)と仰せです。

このことから、大聖人が、三類の強敵によって起きた四ヶ度の大難をつぶさにお受けになったのは、法華経勧持品二十行の偈等に説かれる経文を証明し、末法の法華経の行者であることをあらわされるためであり、また、そのお振舞をもって、末法の一切衆生の御本仏であることをお示し下さったことが拝せます。

大聖人が、このようなご難をお受けになったからこそ、末法の御本仏がましますのであり、現在私達は、そのおんたましいとしての御本尊を受持し、しあわせになることができるのです。では、なぜ九月十二日の竜ノ口の法難の日に御難会法要を行うのかと申しますと四ヶ度の大難中、とくにこの法難は重大な意義をもつからです。

そもそも、この竜ノ口法難は、第一に大聖人の邪宗折伏、第二に北条氏の大聖人に対する忌諱、第三に幕府への直諫が原因ですが、ことにこの幕府への直諫が直接の原因となって起きました。この前代未聞の極刑に処せられようとした頸の座を契機として、大聖人のおん身の上に一大変化が起きたのです。

開目抄に「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ」(新編五六三㌻)と仰せられたように、大聖人は文永八年九月十二日夜半、鎌倉をお出になり、丑の刻に竜ノ口において頸をはねられようとしました。しかし、不思議な光り物が江の島の彼方から北西の方角に飛んで太刀取りの眼がくらみ、ついにお頸を切ることができませんでした。この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。すなわち、子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めです。また子丑は転迷、寅は開悟であり、その中間、すなわち、丑寅の時刻は大切な時刻なのです。上野殿御返事に「三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり。仏法の住処は鬼門の方に三国ともにたつなり」(新編一三六一㌻)と仰せです。ゆえに、文永八年九月十二日の子丑の刻は、大聖人の名字凡身の死で、終りであり、寅の刻は大聖人のおん身そのままが久遠元初自受用身、すなわち、御本仏の生で始まりです。この時大聖人は、凡夫のお立場から末法の本仏と発迹顕本あそばされたのです。そこで、年に一度、九月十二日に御難会法要を行い、大聖人に対し仏恩報謝申し上げると同時に、未曾有の迫害とそのご苦労を偲び奉り、我々もまた、どのような三類の強敵がこようとも不惜身命・身軽法重の精神で正法広布を誓うところに御難会法要の意義があると思います。

大聖人は、その法難・迫害をもって懺悔滅罪の行法とされています。我々も進んで正法広布のための難を受け、これを経なければまことの滅罪は無いものと覚悟し、いかなる困難にも打ち克っていくべきです。如説修行抄に「其の上真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと」(新編六七〇㌻)とあり、土木殿御返事には「度々失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり」(新編四七七㌻)とあります。このご金言を胸に、大聖人に知恩報恩の誠をいたしてこそ、御難会法要の意義が存するといえましょう。

(日蓮正宗の行事 59~64ページ)

 

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