明後日、明々後日は寛師会ですね。
顕正会でも日寛上人のことを御観念文でも読み上げるほどの特別扱いしておりますが…、
日寛上人の御報恩勤行会なんかは実際にやっておりますか?
やってないでしょ?口先ばかり崇め奉っても、その程度なんですよね、顕正会というのは…。そういえば妙信講を特別扱いして下さり、「高邁なる猊下!」と浅井さんが讃嘆する日淳上人の50回忌法要が数年前にありましたが…、あの時だって50回忌法要を顕正会ではやっていないでしょ?
利用できるところは利用する…。けどそれ以上でもそれ以下でもない!というのが浅井流なのでしょうね。こういうのを不知恩というのです。顕正会の皆さん一つ賢くなりましたね。
けど、御宗門は違いますよ。日淳上人の50回忌法要は勿論のこと、日寛上人の法要だって毎年やっているわけです。その寛師会について本日はご紹介いたしましょう。
Q 寛師会ってな~に?
A よい子の皆さん、こんにちは。毎日暑い日が続きますが、元気に夏休みを楽しんでいますか。
夏休み中は、ついつい夜更かしなどをしてしまい、生活のリズムが狂ってしまう人が多いと思いますが、ダラダラと無駄な時間を過ごすことのないよう、遊ぶ時は思いきり遊び、勉強する時は集中するなど、メリハリをつけた生活をするよう心がけましよう。
朝夕の勤行は時間通りに行っていますか?お寺の唱題会には参加していますか?宿題は終わりましたか?やるべきことをきちんと行い、元気に二学期を迎えてくださいね。
さて、今回は寛師会について勉強していきましよう。
寛師会とは
寛師会とは、総本山第二十六世日寛上人様の祥月命日忌法要のことです。
日寛上人様は、江戸時代当時にはびこっていた日蓮宗の邪義をことごとく論破され、大いに大聖人様の正しい教えを弘められました。
そのような御功績から、宗門では第九世日有上人様とともに日寛上人様を「中興の祖」と仰ぎ、毎年、総本山において寛師会が奉修されています。
寛師会では、御法主日如上人貌下様の大導師のもと御逮夜(命日の前日)と御正当会(命日)の二日間、客殿と常唱堂(石之坊)において法要が行われます。
また、御逮夜法要の日には大石寺塔の原グラウンドに特設された土俵で「日寛上人奉納角力(相撲)大会」が開催され、夜には花火が打ち上げられます。たくさんの出店が並び、たいへん賑やかな行事です。
中興の祖・日寛上人様
日寛上人様は寛文五(一六六五)年八月、上野国前橋(現在の群馬県前橋市)に御誕生になり、幼名を市之進といいました。
天和三(一六八三)年、十九歳の時、当時流行していた観音信仰について多くの疑問を抱いていたところ、市之進が仕えていた屋敷の門番の勧めによって、江戸下谷(現在の東京都台東区)の常在寺へ参詣することになりました。そこで、折よく第十七世日精上人様の御説法を聴聞することができ、長年の疑問はすべて解けて、出家を決意されたのです。
市之進は、同年十二月下旬、常在寺住職となられた日永上人様(のちの総本山第二十四世)のお弟子として出家得度され、名を覚真日如と称しました。そして、常在寺や総本山大石寺で修行をしたのち、元禄二(一六八九)年に二十五歳で上総・細草檀林(現在の千葉県大網白里市)に入林されました。
檀林とは、法門を学び修行をする僧侶の学校です。
数ある檀林のなかでも、特に本宗に関わりが深い細草檀林は、寛永十九(一六四二)年に敬台院殿(総本山御影堂を再建寄進した方。徳島藩主・蜂須賀至鎮公の妻)の助力を得て設立され、元禄時代のころには数百人の修行憎が集い、学門に励んでいたそうです。
日寛上人様は、入林以来、約二十年間にわたって、春秋の開講時期を細草で過ごし、その合間を大石寺等において修行・修学に努められました。その結果、宝永五(一七〇八)年四十四歳の時、檀林の能化(学校の先生)に昇進して名を堅樹院日寛と改め、後進の指導に当たられています。
その後、日寛上人様は細草檀林の能化職を退いたのち、正徳元(一七一一)年夏、師匠・日永上人様の命によって大石寺蓮蔵坊に入り、大弐阿闇梨と号して学頭職に就任。そして、門下の僧侶に対して御書の講義をされたり、さらには教義に関する著述をされるなど、学事に関する法務に力を尽くされました。
享保三(一七一八)年三月、日寛上人様は、第二十五世日宥上人様より血脈の付嘱を受けて、大石寺第二十六世の御法主となられました。
そして、本宗の教学の大綱を『六巻抄』としてまとめられ、大聖人様以来の正法正義をますます明らかされるとともに、日蓮宗の誤りをことごとく破折されました。
また、信仰修行の面においても、常唱堂を建立して唱題行の実践や信徒の育成、さらには五重塔の建立基金を残されるなど、宗門の発展に力を尽くされ、享保十一(一七二六)年八月十九日(旧暦)に六十二歳で御遷化されました。
御遷化のようす
享保十一年八月、御自分の死が近いことを悟られた日寛上人様は、時の御法主日詳上人様(総本山第二十八世)をはじめ、大石寺山内の僧侶や御信徒方への別れの挨拶をすませたのち、桶工(桶を作る職人)に自らの棺桶を造らせました。
そして十八日の深夜に至り、床の間に御本尊様をお掛けし、辞世の句として「末の世に 咲くは色香は及ばねど 種はむかしに替らざりけり」と書き終えるや、あらかじめ用意しておくよう命じていた蕎麦を七箸召し上がられ、笑みを浮かべて「ああ面白きかな寂光の都は」と述べられました。
そののち、うがいをされ、身なりをただして御本尊様にお題目を唱えつつ、十九日辰の刻(午前八時)、眠るように安祥として御遷化されたと伝えられています。
以上のように、大石寺の発展と、大聖人様以来の血脈相伝に基づく教義の顕揚に尽力された日寛上人様は、御遷化より二百八十余年を過ぎた今日もなお、その御功績はますます輝きを増し、本宗中興の祖として御高徳を拝することができます。
皆さんも、機会があれば寛師会に参詣させていただき、日寛上人様へ心から御報恩謝徳申し上げましよう。
(妙教 平成27年8月号 47~50ページ)
顕正会版日寛上人御本尊をお持ちの方へ
顕正会版日寛上人本尊は本物とは紙質が相違します。
顕正会版は現代の製法で作成される紙を使用しています。
昭和30年代当時の紙を再現するところまでは、さすがの浅井さんでも不可能だったのです。
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